神林長平作品の通読 / 周回ノート。
- 1981 狐と踊れ■
- 1983 七胴落とし■
- 1983 あなたの魂に安らぎあれ
- 1983 言葉使い師■
- 1983 敵は海賊・海賊版
- 1984 戦闘妖精・雪風
- 1985 太陽の汗
- 1986 プリズム
- 1986 宇宙探査機 迷惑一番
- 1987 今宵、銀河を杯にして
- 1987 蒼いくちづけ
- 1987 機械たちの時間
- 1987 時間蝕 ←今ここ
- 1988 敵は海賊・猫たちの饗宴
- 1988 ルナティカン
- 1988 過負荷都市
- 1989 Uの世界
- 1990 帝王の殻
- 1990 完璧な涙
- 1990 親切がいっぱい
- 1990 我 語りて世界あり
- 1991 敵は海賊・海賊たちの憂鬱
- 1992 死して咲く花、実のある夢
- 1992 猶予の月
- 1993 天国にそっくりな星
- 1993 敵は海賊・不敵な休暇
- 1994 言壷
- 1995 敵は海賊・海賊課の一日
- 1995 魂の駆動体■
- 1995 幽かな効能、機能・効果・検出
- 1997 ライトジーンの遺産■
- 1997 敵は海賊・A級の敵
- 1999 グッドラック 戦闘妖精・雪風
- 2001 永久帰還装置■
- 2002 戦闘妖精・雪風〈改〉■ Yukikaze■
- 2002 ラーゼフォン 時間調律師
- 2003 小指の先の天使
- 2004 麦撃機の飛ぶ空■
- 2004 膚の下■
- 2007 敵は海賊・正義の眼■
- 2007 自・画・像
- 2009 アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風
- 2009 敵は海賊・短篇版
- 2012 いま集合的無意識を、
- 2012 ぼくらは都市を愛していた■
- 2013 敵は海賊・海賊の敵
- 2013 想像しなくては生きていけない
- 2014 だれの息子でもない
- 2015 絞首台の黙示録■
- 2016 あなたがわからない
- 2017 フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉
- 2017 オーバーロードの街
- 2019 先をゆくもの達
- 2019 レームダックの村
- 2019 鮮やかな賭け
- 2022 アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風
- 2025 インサイト 戦闘妖精・雪風
これまでのまとめ記事はとくにない。雪風五部『インサイト』発刊までに最初から読み直そうか、と昨年12月にいって『狐と踊れ』から再開しているが、そのまえ前回は4月まで『アグレッサーズ』まで再読していた。
最近は『七胴落とし』『あなたの魂に安らぎあれ』まで。
『言葉使い師』(1983)から「スフィンクス・マシン」今ここまで。
SFマガジン4月号 戦闘妖精・雪風、読切「棘を抜く者」を読む。これは雪風〈改〉愛蔵版(2022)に書き下ろし・収録作らしい。
なので今更だが、シリーズ読者には通念と思う過去エピソードが若干、書き変わる。それはそれでまた、このエピソードから第一作の不安な関係に繋がらない気もするが……。次はブッカー少佐が零に毛筆の持ち方を指導して漢字を書かせているかもしれない。
雪風の命名ってブッカーじゃないの?……だけど、書いたのがブッカーだよ、と。「名付けたのは誰か」に何らかこだわりたい人はいるだろう…。
昔の駆逐艦の名前だとは、零はブッカーに後で教わっている。「どういう意味か」と訊かれたときには、
とこだわっていた。
わたしは上の短編は読んでいなかったのだけど、一日以上時間が経ってふと、前日譚にバーガディシュ少尉がいるのはおかしい気がしたが、まあ、そういう齟齬を言い出せば「ぼくの、マシン」の頃だって何か違和感だった気はする。
雪風は間を空けて書き継がれているので人物の性格が数か月で二十歳ぶんくらい変化していても気にしない、とは前回。五部の連載中、エピソードを読むたび「また知らない特殊戦機が出てくる…」と思っていた。それも恒例。零が同僚の名前を覚えていないらしいのは意外な箇所があったけど、考えてみればもともとその方が意外でないのかもしれなかった。
『言葉使い師』から「愛娘」SFマガジン82年3月号初出
話の落とし所のジョークは弱くて拍子抜けな気分で終わるが、それはあまり重要でない。女性についての話で、男はもういらないのかい、という幾分コミカルな苦笑的な男性目線をまじえる。
この短編の見どころはやはり、妻の姿形が急激に変化してからの、変容、変態というか脱皮するように生まれ変わるグロテスクな、妖しく魅惑的でもある経過の描き方だろう。
宇宙や、遺伝子のことを除けば、わたしは最近もリーのHunting the White Witch(1978)中でも「老女の若返り奇跡」シーンを読んだ。それは魔術だが、その場の人々はやはり畏怖に打たれながら、「やめてくれ、冒涜だ」と叫ぶ博士もいる。2020年代から読み返して、こういう「老女の全身が角質化し、ひび割れて、中から羽化するように美少女が現れる」イメージってそれほど冒涜的だろうか、おぞましさや驚きをまだ感じなければならないだろうか……のような連想で、思い出した。今は見慣れているようだ。
それとべつに、作中、宇宙で生まれた子はより宇宙に適応するだろう、との続きに「空間位置関係を把握する能力にすぐれているとかね」と触れているのは、1982年頃だとガンダムだろうか。わたしはその当時事情が確かめられなくて、この作品集を読み返すたび思っている気がする。神林作品にあんまりガンダムへの示唆言及は見当たらないと思うがアニメ文化にはちょくちょくある。
『言葉使い師』から「美食」「イルカの森」今夜ここまで。
「イルカの森」は『魂の駆動体』や『Uの世界』から後に思い返し連想するとは以前に書いた。アラスカというと『猶予の月』だけどその取材についてはそちらの後書きかに書いてあった気がする。わたしの連想のはなしで、そんなに大事なことじゃない。
『言葉使い師』から表題作。この短編や"言葉使い師"というワード自体、後々にわたる幾つもの作品の下敷きになっていて、読者も神林作品を読むときにはこれを読んでる前提が当たり前すぎて、いちいち言わない、くらい。直接の続編というと『言壷』かな。
わたしは最近富野由悠季小説、F91の話題で、この魔術師めいたのと真逆かのような文学観を読んだ、ような気がし、今その連想があってあらためて面白かった。
この冒頭にある「テレコイタス」という語は、『七胴落とし』では「テレコイッス」と言われていて、わたしは後者のほうが少し好きだったりする。響きが。あとホロンセックスとか。
そのときは『精神性愛は危険だからやめなさい』は面白いな、といっていた。
作中作の『墓から墓へ』はのちに『完璧な涙』でまた思い出すだろう。
『敵は海賊・海賊版』(1983)読了。しばらく放ったらかしすぎた。つぎは『戦闘妖精・雪風』、前回〈改〉で読んでいるからこんど旧版で、データ登録し直すついでに読み直す。
これは『雪風』旧版の文庫からだが、「破滅した」のところは〈改〉では「壊滅した」になっている。すぐあとに零が「ほんとうに壊滅したかどうか」と思っているから文章の続きとしては「壊滅」のほうがいかにも正しい。軍隊の通信文としても普通は壊滅の語が使われそうだ。かといって、これは誤りだろうか……のような、旧と改を何度も行き来していると字句の同異で時々思ったりする。無論今現在、出版されているものは〈改〉が決定版だからマニアの片端な興味でしかない。
これは前回どこで言ったんだっけ……騎士道のところか。
この「ジャム人」のところは雪風ファンの間では言われ尽くしたことで、ジャムでいい、いやここはジャム人だ、とか言われたことだろう。さっきのはそうでなく、口に昇すときの響き。
こういってみると、おおよそほとんど「詩集」みたいな気分で再三読み返しているからな。現代日本語でその気分で読める作家に今も乏しくて飢える気持ちは、まあ同じ読者ならわかっているだろう。
ひと月ほど空き続き、「不可知戦域」。「むは」などある旧版より。今こちらは置きっ放しになっている……というわけにもいかないか。
「インディアン・サマー」を読む、今4。
「全系統異常なし」まで。
『戦闘妖精・雪風』読了、つぎ『太陽の汗』。
『太陽の汗』については前回、同年(1985)の水見稜『不在の惑星』の折に言及しているが、水見稜を現代に読み返したり紹介することにはかなり無理がある。
また、西村朗による音楽詩劇「不滅の国を求めて」(1979)を聴いたときにも連想をしていた。それは、「結局、戦闘機の設計技師とギルガメシュに何の関係が…?」というのと、「結局、この話のペルー要素どこ?」というのが似た感じだ、という。
えーっそこ!? それペルー要素なのか……でも、そうだ。
水見稜作品は『マインド・イーター(完全版)』まで挙げて、今やんでる。
「戦闘機の設計技師とギルガメシュ」というのは、『あなたの魂に安らぎあれ』の際にも思い出していて、神林先生にはその頃関係あったとは思わないが、わたしの今読むには時代背景のように思えている。
『太陽の汗』読了。つぎ、『プリズム』。
本筋ではない一場面のイメージだが、「まばゆい空へ落ちてゆく」というのはこれではないだろうが、ただこの文章からそれを連想していた。
「ルービィ」より。
『祈りつづけながら待っても、…(中略)…雲をつくりつづけて髪も雲のようになって、それでも彼を待つの?』
雲を作り続けて……というのは何かのお話の引用だっけ。なにか記憶に引っかかる気がするが思い出せない。
この場の「雲閣樹」のことを言っているのかな。それがどういう樹なのかよくわからないが。この空間のどこへ行っても同じならこの樹の元で待っていても同じ、と言った。
『プリズム』読了。つぎ、『宇宙探査機 迷惑一番』。
脳天気と正義
神林作品では「脳天気」(能天気)は一つの大きなキーワードだったのだけど、脳天気という語それ自体が近年は死語……ともいわないがそんなに使われなくなった。同じ意味でべつの言い方はされようが。
神林作品ではこの『宇宙探査機 迷惑一番』が脳天気の語の初出。『過負荷都市』(1988)『親切がいっぱい』(1990)などに脳天気さを展開しつつ、『天国にそっくりな星』(1993)で脳天気なことが主人公の最強の武器、作品の主題にまでなる。この脳天気話題については『敵は海賊・不敵な休暇』の解説に山岸真による少し追跡がされていて、もちろん「敵は海賊」シリーズのアプロが脳天気の代名詞みたいなものだ。が、90年代より後にそれが消えたわけでもない。
『ライトジーンの遺産』(1997)とか『だれの息子でもない』(2014)とか……もはや神林長平のユーモア作品の「ユーモア」という中に脳天気も解消されているような気もする。だけど、神林独特の、という特徴でいえば「脳天気と正義」という他の著者では見られにくい観念の結合がある。それは前回も少し触れたが、また追々見ていこう。
『宇宙探査機 迷惑一番』では「あれ」「あいつ」(傍点つきのあいつ)と書かれることもあるが、当の問題人物……というか、問題人格の、おおむね呼ばれ方しては〝私〟だろう。
この後も、神林作品ごとに「あれ」「それ」等の変遷がしばらくあるので、その折にメモ。
「われわれは死んだのかもしれん」以下は後に『死して咲く花、実のある夢』(1992)の主題になる。このたびの再周はごく消極的に、日を空けて飛び飛びにしか読み続けていないから8か月で8冊ほどしかまだ進んでいないぞ。
この世は自分のために創られたと信ずる権利
これは神林作品で絶えずくり返すことだが、神林作品以外の世間一般で必ずしもこう言い切るわけではない。「そんな権利はない」という人や、社会のほうは珍しくない。
タルムードにあったじゃない――という、麻美が作中ここでなんで唐突にタルムードを言い出すのか、本当にタルムードにあるのかはわからないと前回言っていた。
狂ってるのは世界だ
傍若無人さ。ちょっとの言い換えで「脳天気」になる。「脳天気と正義」については前回。
これは「実在」について、というべき。「実存」かな。
というか、ユダヤの宗教の教義の解釈にそんな文章があるとは、わたしには一見して信じがたくて、あるとしたらそれはどういう意味で言われるのかは別に興味はあった。が、何を調べるべきかは定まらなくてその後忘れていた。
おまえたちは何を創るのか
筑摩古典の『古代オリエント集』を読み返しているが、これの先頭に載っているシュメールの「人間の創造」(についての、解説)から。
これは『膚の下』を連想するのがわたしだけど、続く文章を読んでもどうもこの発想元はあるように見える。神林作品はこうした古代神話か宗教の「文面だけ」を利用して語り始めるような仕方をされることがあるし、これらは常識のうちでチェックしていていいだろう。
この『オリエント集』は1960年代頃の邦訳テキストの集成で、今は古いといえば古いのだけど、今なおそれほど出版物としては更新されてもいないし、大事なことは大事だろうと思うが、大きな本の中に小さな文字が詰んでいて、どこに何が書いてあったか、読んでもよく憶えてはいない。いま、神林作品のための用事ではなかった。
『宇宙探査機 迷惑一番』読了。つぎ、『今宵、銀河を杯にして』。
『迷惑一番』の水星にはランクマー市がある。敵は海賊、だったかにもフリッツ・ライバーの引用があったように思うけど、今となってはどういう気分なのかよくわからない。わたしはたまたまそのへんは読んでいても、古典に詳しいわけでもないしな。周回しているなら時々メモする。そういえば、ファファード&グレイ・マウザーの未訳の巻も積んだきりまだ読んでいない。
『今宵、銀河を杯にして』読了。つぎ、『蒼いくちづけ』
『神林長平トリビュート』(2009)を開く。わたしは既読だが、前に読んだとき「あまり感心しない」みたいに突っぱねたきりで、手元に残しておかなかった。読者として感心されない態度だ。あらためて序文を読み返すと原作者はとにかく絶賛していることだし。
わたしはアンソロジーという本の形態を好まないので、一人一人の著者はどうだったか知らん。それで、このまえタニス・リーのトリビュート集を読んだので考えを一転改めた。そういう言い訳じみたことはそれだけ。
リーからマーサ・ウェルズへ行っているところ。これに、神林作品への連想がちょっとあるという現況。
第一篇の「狐と踊れ」(桜坂洋)が早速、やくたいもないファン小説で、最初のこれでまずげんなりするみたいだった。桜坂先生に恨みがあるわけじゃない。
この中の、
というのは、『人生とは記憶である/だれの言葉だったか/もう忘れてしまった』(イルカの森)の言及だと思う。引用に深い意味はない。知らなければスルーするだろうから。
「七胴落とし」(辻村深月)。作中の世界にはミャウダさんのようでない、まともな猫はいないのだろうか。わたしには苦手な文章で、反感をかき立てる。これなら、最近も悩んでいた久美作品やマキリップ作品への抵抗感は比較的に気楽なほう。つまりわたしのせいか。
各篇の著者にはそれぞれのファンがいるはずなのでそれに対してネガティブなことはあまり。感じるのは、文章を読んで語り手のノスタルジーや子供の世界への「優しい目線」が、語りかけられる読者には反転して伝わってくる、という感じ。最近多い。作品の意図にはそんなものはないはずだけど……でも、だってこれは『七胴落とし』へ向けられたアンサーとしての一篇ではあり、一読して受ける作品の印象とは逆転したメッセージを暗に説きつけているような複雑高度なテレパス攻撃なのかしら。それにしては話がわかりにくすぎ、読者は普通には『ほろ苦くも心を和ませる』のように直線的な読み方をする方が多そうに思う。本章前文の解説がそう。
文章が何を言いたいかはわかるが、書き手が本気でそう言っているようには、正直よくわからない。仮面としてのテーマとは別の邪悪なものが後ろにいるように感じ、きっとこの作者は間違っていると思う。
『七胴落とし』は青春サイキックよりも、魔剣という「使い手の意図を超える道具」(武器)をめぐる話だ――というと本作は全然それに接近しない。多分、そうは読んでいないんだろう。語り手の意図に反して絶えず暴走しようとするものを抑え込もうと格闘する……みたいなもののこと。
「完璧な涙」(仁木稔)まで。作家のプロフィールに「南米もの」のような紹介があり、本文中にも、
そういうことを言いたいなら、わたしはつい先日も『アウラ』の聴き返しなどをしていたけど、それやこれがそうだ、とは今はっきり言い切れない。わたしは数はほとんど読んでいないし、日本人作家もその型に乗っていても、関心はそこにないのかもしれない。古川作品にもその南米的な言及がたびたびあるが、あまり信用はなかった。仁木作品はあとで探してみたい。
女性の魅力の描き方は好き。むしろそのほう。わたしはエロいものには飢えているけど、ポルノは芸がなくて笑ってしまうし、ジュニア向けは『モラルの語り方』とか他のことが気になって、耽読できない。それだったか。こういうものを探す。
「死して咲く花、実のある夢」(円城塔)。円城作品は手元に三作くらいもってる。前回、伊藤計劃のアニメのときに『屍者の帝国』を読んだきり興味が続いてもいないが。
『死して~』の神林原作は、今の周回がまだそこまで行っていないけどわたしは好きなので楽しみ。「死」については今年になってからベルナール・ヴェルベール『タナトノート』と小杉英了『先導者』を読んだまま途切れているところで、それらはわたしにはただただ退屈なものだったので短編とはいえ本作のようなものを読めれば助かる。
『大人達が正面から語ることをためらう死に対して、傍若無人かつ無神経にしゃべる子供等の世代が生まれてきた』という語り出しは同じだった。わたしは、それに対してと、知的冒険者を唱えておいて陳腐さに逃げ回るヴェルベールみたいなのは虫が好かないと思ったのと。
伊藤計劃の頃から追って再読してみてもいいが、今どうなっているのか全然想像がされない。アニメの仕事となるとまたそれはそれで追跡が大変だ。
こないだ、タニス・リー・トリビュートでシオドラ・ゴスを読んだけど、『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』のようなタイトルを読むのに『屍者の帝国』の連想のような動機は持っていけないだろうか。その読み返しをするなら。なかなかそちらに進まないので、それ一つ憶えておく。
「魂の駆動体」(森深紅)。とくに感想なし。嫌いだという意味でなくて、こういう調子で書かれていれば誰も不満も、驚きも言い立てようがないだろう。『このどこが「魂の駆動体」なの?』みたいに、誰も思わないと思う。神林先生本人が書いたのかと思うくらい。
この原作って、言われてみればたしかに……というか前回自分でも思った気がするが、一章の主人公達のするのは設計図を書いたところまでで、実際に建造は異世界に行く。そこを現実で通せばもっとゴツゴツしたハードになるのか、いや、ここはファンタジーなのがいいんじゃん? みたいな議論は、かき立てればファンの間にもあったと思う。実際にそれを書ける人がいないんだな。そのことと、著者のプロフィールはこの解説文に書いてあるので、わたしはよし。
翼人って、例のクソイルカの連想を、する人はするものな。車を建造させてくれと頼んでも、ガソリンと引き替えに人間を観察してるような。第二部だけを短編にしたらその印象になりがちかも。
「敵は海賊」(虚淵玄)。著者のプロフィールについて知らないわけではないし、本作に不満なわけでもない。饒舌なのが悩ましいけど……敵は海賊シリーズの饒舌は必ずしも常にそうではないとはいえ、ことにカーリーがしゃべくるときは常にそうだとは思わなくもない。
メルチド・ザウラクのエピソードを踏まえているけど、ここではメルチドの比重はほとんど取るに足らないほど小さいので、これを踏まえて後に原作の時系列に合流したらいくらか微笑ましい気分で読むかもしれない。それは面白いな。原作者の神林長平自身が「短篇版」の一篇として書いていてもありそうなエピソード。「それが読みたかったか」というとべつにそれほどでもない。軍艦のスペックを綴るところなどは著者ならではの腕前が揮ってるんだろう。わたしは虚淵作品は、何かしらタイミングが悪くてあまり触れていないし、そのファンにはなっていない。
神林筆でも書かれそうな話だというのは、さきに雪風からの「棘を抜く者」にも読んで微妙な気分になる。原作者が書いていてもそんな気分になるはず、と思う。
原作キャラクターを動かすからだと思うんだけど、このトリビュート集の企画がそうだからな。各作品のタイトルを指定してお題にする、という。早川書房編集部編だからやむないとはいえ。虚淵玄には『ラーゼフォン』を書いてくれと求めればよかった。それだけで実に面白いのに。
最初の設定にある『世界の全ては自明でなければならない』という動機について、日本のSF読者が古典的に馴染んでいる「知的冒険」観……ただひたすら知りたいから、が衝動で世界に立ち向かうのが科学者という科学者観には、わたしはずっと前から嫌悪を抱いている。それは科学者の動機ではない。
だいたいSFクラスタの集まりが嫌いなのでわざわざ言う機会もないけど、今でもネットで子供がそういう話をしていると傍目にかなり不愉快になる。このまえル・グインの短編から「マスターズ」を読んでいる間にそれを思い出していた。
今もっと興味の深いのは、同じ言い方でも『理由はない』バイストン・ウェルのコモン人の言い草が、先日『リーンの翼』で見た。富野由悠季がそんなに早くそこまで言っていたのにわたしは読み返して動揺していた。虚淵さんの「闘争」というのもわたしはよくわかるので、その一点を押さえておけば虚淵作品を読めそうでもある。『鬼哭街』など手元に既に積んではある。
「我語りて世界あり」(元長柾木)。古い。最近読んでいた2005-07年頃の古川日出男とは別の意味で、女子高生の口ぶりに苦しむ。2009年に生きていたとしてもこのコテコテ感には悩んだと思う。
それと、今回すでに辻村深月で読んだことを同じ趣向をアンソロジー中で二回もくり返すとか、編集部としてはどうなのか。それですでに頭に来たけど、反感の質もそれと同じで……『PODという敵に対して主人公が意気揚々と罵ることが言ってる本人にも常時ブーメランしてる』ような自覚はないんだろうか。ストーリーはそこから主客の悪意的転換が起こるのかと待っていたらそれはなくて、そのまま終わる。マジか。
うっざ。と、読みながら本当に口走ってしまった。何言ってんの? 作者が手前勝手な話作っておいて何気取ってやがる。眼前の敵はもはやどうでもいいけど、こいつをぶっ殺したい。なんなら敵に加担してもいい。
著者のプロフィール読んでも2010年代以降もこういうのが人気で、主流ぽいんだよな……。結局、わたしのせい、と今頃は絶えず口にしているそのこと。「ファウスト」は読んだことないけど、アンディーメンテの泉和良小説とか読むには手がかりになるのかも。このあいだ『エレGY』を読んでいて、同世代の考え方そんなものかと。
それはそれとして、神林トリビュートに入っててほしくないなとは思った。神林先生の拗ね方はもう一捻りはしてて可愛いよ。
今度この企画されるときは、まず猫と「フムン」は禁止にしよう。お話にならない。
「言葉使い師」(海猫沢めろん)おわり、この本は読了。だいぶげっそりした。
これは、わたしの今の興味として結構ある。原作者の神林長平の序文による激賞と推薦を「疑う」ということもあるんじゃないか。それを直情的に言うべきなのかとか、リフレーミングとか、富野的な言い方などを思いたいんだけど、ここしばらくは日本語の小説を読んでいても「何もない」と感じるばかりなんだ。
本文中であまりその重点でないところで、シュメールのアトラ・ハシース叙事詩……という話を唐突に挿まれるところで、
について、これに似た響きの『おまえたちは何を創るのか』(膚の下)について、シュメールの神話を思い出すと書いた。それはあるのか、ないのか。似たようなことはわたし以外の人も思うらしい。
あと、『最後のワードマン』というとついこの間、EAT-MAN ラヴィオン篇を見返していたばかりで「最後のイートマン」と連想してしまい、フフッとなった。それは流石にこことは関係ないだろう。わたしの気分。
「唐突にタルムードと言い出す」「古代ペール人と言い張る」など、ここはすでにあった。それは、積極的に真似していこう、のこと。
『蒼いくちづけ』おわり。つぎ、『機械たちの時間』。
本作中にはこういう意味の文がくり返し散りばめられている。とくにこの箇所を引用しなくても他箇所でもいいし、なんなら神林作品の近い年の別の作品からでもいい。これは1987年。わたしは最近、中南米のようなものを読んでいても連想するようなことを上で書いた。
『機械たちの時間』は、わたしはこれを「神林ヘリコプター三部作」の一作、のようにジョークで呼ぼうと思っているのだが、これ、と『膚の下』ともう一作なんかあったかなと思い出せずに三作挙げられていない。
『機械たちの時間』おわり、つぎ『時間蝕』。
「マーニー」や「ランバボン」は別作品で何度か目にするが、もとのイメージ元が何なのかわたしは知らない。しばらく後には使われなくなる。
前回、『今宵、銀河を杯にして』の文庫版あとがきにも、作中の「生命場理論」について『科学というよりはファンタシィに近いものです』としながらその考えに愛着を語っていた。神林作品の初期の頃に点々と登場するのは承知しているが後にどう展開していったか、順序で追ってはいない。