かとかの記憶

生き神様考

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モラルの語りと実践

katka_yg
作成: 2025/08/18 (月) 13:55:20
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katka_yg 2025/08/18 (月) 17:48:54 修正

かとかの記憶
katka_yg 2025/08/18 (月) 04:31:39 修正

生き神様考

「生き神様」ってこれだったか。別の筋道で最近読んでいた「おりん」からだが、元々日本の風土にあるものだからその連想はある。同じものだ。

直接には前回『リーンの翼』通読中の記事からだが、話題をより一般なテーマに広げて、個別トピックで扱う。テーマとしては、ヒロイズム、スケープゴート、怨霊(御霊)思想、無償行為か無動機行為か……等など、あらかじめ様々タイトルを挙げられるが、民俗や宗教の題にかぎらず創作文芸中のキャラクターのことなど、漠然とあやふやなりにでも連想を辿り蒐めていく。主眼はストーリー語り上の、モラルの語り方。このトピックは折々のリンク先に使う。

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スケープゴート

スケープゴートの概念の説明はここでしない。罪、不幸、悪疫、汚濁を一身に請け負うこと。文章中での使われ方は、

女神トチに扮する女性が殺されて、その皮で仮面をつくる……(略)……トチは最後には贖罪山羊となり、追い払われるときに、トチは一身に社会の罪を負うかのようである。

犠牲は人類同胞のためにささげられるのであるから、……

のように言うとき。上は、エリアーデ『宗教学概論』(131 アズテック人とコンド族における人身供犠)から。ちょうど今日開いていたページ。ここの本文は農耕儀礼における人身供犠についてで、農作物の実りのために犠牲者は捧げられ、贖罪観念はそれに伴う文意。スケープゴートはいつもそれが主題で語られるわけでもない。

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言葉の通俗的な意味のスケープゴートはもっとラフな使われ方をする。お話の都合上、いずれかの人物がことさらに「悪役」を引っ被るように仕立てられるとその言われ方もされるが、印象としては甘い使われ方。

ヒーローがスケープゴートを兼ねるダークな語りも行われるが、誰かの犠牲の上に平和に暮らす人々に対してシニカルな目線を向けること、シニシズムは、本来とまたやや別種の語りだろうと思う。それも古代からある話の型で、毎回に一々きれいに峻別できるものでもなく、その意味もそんなにない。まず取っかかり。

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katka_yg 2025/08/18 (月) 18:43:44 修正 >> 3

『本当に罪深いのは世間の一般大衆』とか『語られざる真の英雄はべつにいる』のように、読者は特権的な地位からその社会の不正を弾劾するような読みを導くなら、それは犠牲者の心の傷や罪、悪を大衆に転嫁することで、スケープゴートの語りとしては弱々しくなる。

シニカルな調子にはなる。それはそれで気分のいいことだが、その価値があるとしてそれはまたべつのこと(頽廃的な興味)。

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katka_yg 2025/08/18 (月) 19:20:27 修正

友情に身を捧げる

ワイルドの童話集「The Happy Prince and other tales」を読んでいた。それはやはり富野話題の中で「ナイチンゲールと薔薇」からの連想だったけれど、この中の「The Devoted Friend」(忠実な友人)という話がある。この話に登場する、友情に篤い正直者ハンスは、今ここで始めた「生き神様」のようなお人でもある。ハンスは友情というものを深く信じていて、それは普通の人よりは深く深く信じているのかもしれない。そのために、親友を称している粉屋にいつも利用されている。事あるごとに搾り尽くされているようだが、ハンスは友人を疑うことも妬むこともなく尽くし続け、そのせいでとうとう自分は命を失っても文句言わずに死んでいってしまう。悪意でもあるかのような殺伐とした童話だ。そもそもワイルドは子供のために童話を書いているとは思えない。

その結末に、聞き手のネズミは腹を立てて帰ってしまうのだが、語り手のヒワと、その場にいる善良なアヒルはもうちょっと会話を続ける。モラルについての話は、人になかなか真面目に聞かれないものだ。力説するほど、笑いごとか、言い方によっては人に怒りをかき立てるかもしれない。それは危ないことでしょ?と話しているが、その意味はここで考える。

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katka_yg 2025/08/19 (火) 11:43:10 修正

旅の盲女のこと

このトピックは直近には前回、水上勉『はなれ瞽女おりん』(1974)についての印象、連想を書き留めるところからだった。旅の途上で雪深い村に逗留している頃、村の老婆がやってきてこのようにいう。原文を引いておく。

六十六部や瞽女さまは、小さくて習いなさった経文を、よくそらんじて、詠みもされ、芸もなされてうらやましい。だすけ、家もない見えぬ眼の、旅のあけくれ。この世の苦労という苦労の、一切をひきうけなされて、み仏さまの代身ごと生きておられまする。その六十六部、瞽女さまの、心美しい旅があればこそ、おららのような者もこのように息災に生きておられまする。人間は千差万別の顔かたち、心かたちをして生きておりまするけれど、み仏は、みなその軀に同じ一つの仏性をあたえられ、うちなる仏に心気づかずして、極道する者は極道をなし、働くものは働きして生きておりまするが、人間世界はみな平等。他人に陽があたる時は、わが身に陰がき、他人に陰くれば、わが身に陽があたるは家の表と裏をみてもわかる道理。けれども、六十六部、瞽女さまだけは、陽があたれば、その陽を他人にあずけられ、年じゅう陰の地を暗い苦を背負うてひたすら旅なさる。これみな、おららの罪業、諸悪にみちた暗い軀の、悪の血をひき吸うて下さるみ仏でなくて何でござりましょう。瞽女さま、ありがとうござります。どうぞ力おとしなく、息災に旅さつづけてくんなまんし。五十子平の婆さまが、これこのようにおまんを仏と思うて手をあわせますぞ、……

おりんは、こんな考え方をそれまでに聞いたことがなく、淋しく物悲しい思いながら、後々までこのときの印象を記憶に留めていた。小説中のエピソードで老女がそう言って拝んだというが、これがとくにこの小説の主題ではない

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katka_yg 2025/08/19 (火) 11:51:53 修正 >> 6

わたしは宇宙説話中の雑想中、「盲目のカテジナについての宇宙伝説」などという他愛ない空想していてその連想から。たまたま、「旅する盲女」だからという理由。

『おりん』は、和田薫作曲の音楽詩劇からの話のつづきで、水上勉作品をたどっているところでも今べつにない。「迫水とカテジナ」を同じ線上で連想する人は現在はそんなにいないはずだから、それなりに「まさか」と思える発想だとは思う。

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katka_yg 2025/08/21 (木) 07:51:46 修正

良いか悪いかを訊ねるより前に「あたりまえだから」既にやっておくことを、ここ最近は「規範」と書くことが多かった。それと夢の話はまた追って続ける。

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katka_yg 2025/08/29 (金) 14:23:41 修正

消えゆく民族

消えゆく民族イデオロギー、という話もあった。「消えゆく民族」という、ある時代に共通して持たれたイメージ、スローガンについては昨年『アメリカン・インディアンの歌』再読の折に読み返した。リーンの翼を読んでいるならこのあと、民族主義の話になる前に記憶喚起しておいていい。

アメリカン・インディアンの歌 katkaさんの感想 - 読書メーター
アメリカン・インディアンの歌。本書の内容の貴重なことは強調した上で、この本は結構難物です。まず原書について1918年の背景を念頭にしつつ、信憑性や口承の保存度など分かりようがなく、注釈は一切省かれているので、歌の状況や言葉の意味に悩めば「想像で補え」という物です。この邦訳では、丹念な訳詩に頭が下がるのですが、紙数上、膨大な歌の数が500ページ...
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十九世紀~二〇世紀初頭のそれは、ケルトなり、アフリカなり、アジアなり……の地域文化の、時代の西欧近代文明なるものに押され、背を向けて滅んでいくものへ向ける、懐旧、哀感を交えて見送る感情。そして、そうした感傷的な見られ方は必ずしもその文化で生活する当事者の心情に沿ったものとも限らず、「近代人」を自認する当時のヨーロッパ・アメリカ作家の創作かもしれなかった。むしろ当の文化破壊や侵略を正当づけるために政治的にも利用されただろう、との文脈。

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katka_yg 2025/08/29 (金) 14:41:09 修正 >> 9

滅びゆく民族態度の、文芸での成果ではやはり昨年、フィオナ・マクラウドを再読した感想がある。

ケルト民話集 katkaさんの感想 - 読書メーター
ケルト民話集。妖精文庫版です。松村みね子から続きで、荒俣宏さんの文章をことに強調しているわけではないですが……この悲愴とか寂寥ではない感傷に浸るのは、良いことですが、言い尽くせない必死さで、夢病的とか、あえていえば一本調子でゆとりがない。「翻ってさりげなく目的地に着地する」ような軽妙さとは無縁な、悲しいとなったら目の前の救いを...
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幻想文学の古典としては非常な名作。文学古典としては文句なく名作だが、現代に読むファンタジー読者としても、ここに燃えている情熱は美しいが、哀感も通りこして病的になっていないかという気分は必ずある。

それも、「それではだめだ」じゃなく、……それくらいにのめり込みたい時にはこうなってもいい。こうなるんだ……という肯定的な意味での前回の理解だった。わたしはマクラウド(シャープ)のような態度についてもわたしなりの共感がある。その病的な感情もなくて、ただただ美しいなあ・鮮やかなイメージだなあ、で受ける読者層にはそんな気持ちはわからなくていい。

  • 上の文中の「ゆとりのなさ」についてはダンセイニ卿を比較の念頭にしている。滅亡する人間の運命を描いたとしても、ダンセイニ卿のゆとりある文章にそんな切羽詰まった調子では迫られない。後期になるほど洗練されていく。
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そのテーマを関心にしてその後、追っていたわけではない。ただ、ちょうど同時に読み合わせて……、アフリカを舞台に「消えゆく民族」イデオロギーの只中に生きたあと、その一時代の過ぎたあとに北欧で独自の文芸の方法を模索した作家にカレン・ブリクセンを通し読んだ。

運命綺譚 katkaさんの感想 - 読書メーター
運命綺譚。『冬物語』(1942)では、読んでみてよくできた話、でもちょっと出来過ぎたようなお話が揃っていた。締めくくりで冒頭の台詞に戻ってヒネるとか、「この物語の出来事はやがて人々に忘れられ、今では誰も憶えていない」――だとか。結末に既にリアルでなくなり、ファンシー世界に片足踏むという……。本作品集(1958)では、訳者あ...
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ブリクセン夫人の後の小説には、エッセイは除き、アフリカ体験を直接語るものはほぼない。その心の経緯は作中には反映されているらしく、後の研究の関心ではマジック・リアリズムの運動と比較される。また、60-70年代以降のフェミニズム作家のリスペクトを受けているようだ。

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katka_yg 2025/09/17 (水) 19:12:59 修正

イナンナとドゥムジ

『シュメールの世界に生きて』(1986, S・N・クレーマー 久我行子訳, 1989)
『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)を読み返し。

イナンナとドゥムジの神話とそのバリエーションは、あまりにも基本。これらのシュメール文学の復元が進んだのは20世紀以後の成果で、当事者であるクレーマーの語りや自伝を読み返すのはとても楽しい。ただ、それより先に遡る近現代の文学によみがえっていた古代ロマンのようなものをたどるにはまずは『金枝篇』のようなものから入ったほうが、21世紀の今でもやはり良いと思う。いきなりシュメールからだと熱情がわかりにくいだろう。

 死せるドゥムジと彼の復活のテーマはメソポタミアからパレスティナに拡がった。従ってエルサレム神殿の門の一つで、エルサレムの女たちがタンムズを嘆き悲しんだことも驚くには当たらない。また、ドゥムジの死と彼の復活の神話がキリストの物語にその刻印を残した、ということも全くあり得ないことではない。とはいえ、両者の間には深刻な精神的な隔たりがある。キリストの物語の中の幾つかのモティーフはシュメールの原型に遡り得るし、そのことはかなり前から知られてきた。例えば、冥界で三日三晩過ごした後に神が復活すること、またユダが彼の主人を裏切ることによって得た三〇シケルという金額は軽蔑と侮りを表わす言葉であること、呼び名としての「牧人」「聖油を注がれた者」、そして恐らくは「大工」さえもが共通であること、ドゥムジと同一視された神々の一柱ダムは「医者」であり、悪魔払いによって治療する技術をゆだねられていた――ということも見落せない事実である。これら全てに加えて、残酷なガラたちの手によって味あわされたドゥムジの拷問は、ある程度キリストの苦しみを想起させる。即ち、彼は縛りつけられ、はがいじめにされ、力づくで洋服を脱がされ、裸で走らされ、鞭で打たれ、叩かれた。とりわけ、我々がこれまでに見てきたように、ドゥムジは人類のために犠牲になる身代りの役割を演じているという点で、キリストに似ている。もし、ドゥムジが冥界において愛、生殖、豊饒を司る女神イナンナの身代りにならなかったならば、地上の生命あるものは全て亡び去っていたであろう。しかし、両者の間の相違点はその類似点よりも顕著であり、重要であることは明らかである。というのも、ドゥムジは地上における神の王国について説教する救世主では決してなかったからである。
 しかし、キリストの物語は何もないところから創り出されたり、発展したものではなかったことも確かである。それは先駆者もしくは原型を持っていたに違いないし、それらのうちでも最も尊重され、影響力のあったものの一つが、牧人の神ドゥムジと彼のあわれをそそる運命のもの哀しい物語であったことは疑う余地がない。その神話は二〇〇〇年以上もの間、古代オリエントの全域にわたって流布し続けていたのである。