モラルの語りと実践
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生き神様考
「生き神様」ってこれだったか。別の筋道で最近読んでいた「おりん」からだが、元々日本の風土にあるものだからその連想はある。同じものだ。
直接には前回『リーンの翼』通読中の記事からだが、話題をより一般なテーマに広げて、個別トピックで扱う。テーマとしては、ヒロイズム、スケープゴート、怨霊(御霊)思想、無償行為か無動機行為か……等など、あらかじめ様々タイトルを挙げられるが、民俗や宗教の題にかぎらず創作文芸中のキャラクターのことなど、漠然とあやふやなりにでも連想を辿り蒐めていく。主眼はストーリー語り上の、モラルの語り方。このトピックは折々のリンク先に使う。
スケープゴート
スケープゴートの概念の説明はここでしない。罪、不幸、悪疫、汚濁を一身に請け負うこと。文章中での使われ方は、
のように言うとき。上は、エリアーデ『宗教学概論』(131 アズテック人とコンド族における人身供犠)から。ちょうど今日開いていたページ。ここの本文は農耕儀礼における人身供犠についてで、農作物の実りのために犠牲者は捧げられ、贖罪観念はそれに伴う文意。スケープゴートはいつもそれが主題で語られるわけでもない。
言葉の通俗的な意味のスケープゴートはもっとラフな使われ方をする。お話の都合上、いずれかの人物がことさらに「悪役」を引っ被るように仕立てられるとその言われ方もされるが、印象としては甘い使われ方。
ヒーローがスケープゴートを兼ねるダークな語りも行われるが、誰かの犠牲の上に平和に暮らす人々に対してシニカルな目線を向けること、シニシズムは、本来とまたやや別種の語りだろうと思う。それも古代からある話の型で、毎回に一々きれいに峻別できるものでもなく、その意味もそんなにない。まず取っかかり。
『本当に罪深いのは世間の一般大衆』とか『語られざる真の英雄はべつにいる』のように、読者は特権的な地位からその社会の不正を弾劾するような読みを導くなら、それは犠牲者の心の傷や罪、悪を大衆に転嫁することで、スケープゴートの語りとしては弱々しくなる。
シニカルな調子にはなる。それはそれで気分のいいことだが、その価値があるとしてそれはまたべつのこと(頽廃的な興味)。
友情に身を捧げる
ワイルドの童話集「The Happy Prince and other tales」を読んでいた。それはやはり富野話題の中で「ナイチンゲールと薔薇」からの連想だったけれど、この中の「The Devoted Friend」(忠実な友人)という話がある。この話に登場する、友情に篤い正直者ハンスは、今ここで始めた「生き神様」のようなお人でもある。ハンスは友情というものを深く信じていて、それは普通の人よりは深く深く信じているのかもしれない。そのために、親友を称している粉屋にいつも利用されている。事あるごとに搾り尽くされているようだが、ハンスは友人を疑うことも妬むこともなく尽くし続け、そのせいでとうとう自分は命を失っても文句言わずに死んでいってしまう。悪意でもあるかのような殺伐とした童話だ。そもそもワイルドは子供のために童話を書いているとは思えない。
その結末に、聞き手のネズミは腹を立てて帰ってしまうのだが、語り手のヒワと、その場にいる善良なアヒルはもうちょっと会話を続ける。モラルについての話は、人になかなか真面目に聞かれないものだ。力説するほど、笑いごとか、言い方によっては人に怒りをかき立てるかもしれない。それは危ないことでしょ?と話しているが、その意味はここで考える。
旅の盲女のこと
このトピックは直近には前回、水上勉『はなれ瞽女おりん』(1974)についての印象、連想を書き留めるところからだった。旅の途上で雪深い村に逗留している頃、村の老婆がやってきてこのようにいう。原文を引いておく。
おりんは、こんな考え方をそれまでに聞いたことがなく、淋しく物悲しい思いながら、後々までこのときの印象を記憶に留めていた。小説中のエピソードで老女がそう言って拝んだというが、これがとくにこの小説の主題ではない。
わたしは宇宙説話中の雑想中、「盲目のカテジナについての宇宙伝説」などという他愛ない空想していてその連想から。たまたま、「旅する盲女」だからという理由。
『おりん』は、和田薫作曲の音楽詩劇からの話のつづきで、水上勉作品をたどっているところでも今べつにない。「迫水とカテジナ」を同じ線上で連想する人は現在はそんなにいないはずだから、それなりに「まさか」と思える発想だとは思う。
良いか悪いかを訊ねるより前に「あたりまえだから」既にやっておくことを、ここ最近は「規範」と書くことが多かった。それと夢の話はまた追って続ける。
消えゆく民族
消えゆく民族イデオロギー、という話もあった。「消えゆく民族」という、ある時代に共通して持たれたイメージ、スローガンについては昨年『アメリカン・インディアンの歌』再読の折に読み返した。リーンの翼を読んでいるならこのあと、民族主義の話になる前に記憶喚起しておいていい。
十九世紀~二〇世紀初頭のそれは、ケルトなり、アフリカなり、アジアなり……の地域文化の、時代の西欧近代文明なるものに押され、背を向けて滅んでいくものへ向ける、懐旧、哀感を交えて見送る感情。そして、そうした感傷的な見られ方は必ずしもその文化で生活する当事者の心情に沿ったものとも限らず、「近代人」を自認する当時のヨーロッパ・アメリカ作家の創作かもしれなかった。むしろ当の文化破壊や侵略を正当づけるために政治的にも利用されただろう、との文脈。
滅びゆく民族態度の、文芸での成果ではやはり昨年、フィオナ・マクラウドを再読した感想がある。
幻想文学の古典としては非常な名作。文学古典としては文句なく名作だが、現代に読むファンタジー読者としても、ここに燃えている情熱は美しいが、哀感も通りこして病的になっていないかという気分は必ずある。
それも、「それではだめだ」じゃなく、……それくらいにのめり込みたい時にはこうなってもいい。こうなるんだ……という肯定的な意味での前回の理解だった。わたしはマクラウド(シャープ)のような態度についてもわたしなりの共感がある。その病的な感情もなくて、ただただ美しいなあ・鮮やかなイメージだなあ、で受ける読者層にはそんな気持ちはわからなくていい。
そのテーマを関心にしてその後、追っていたわけではない。ただ、ちょうど同時に読み合わせて……、アフリカを舞台に「消えゆく民族」イデオロギーの只中に生きたあと、その一時代の過ぎたあとに北欧で独自の文芸の方法を模索した作家にカレン・ブリクセンを通し読んだ。
ブリクセン夫人の後の小説には、エッセイは除き、アフリカ体験を直接語るものはほぼない。その心の経緯は作中には反映されているらしく、後の研究の関心ではマジック・リアリズムの運動と比較される。また、60-70年代以降のフェミニズム作家のリスペクトを受けているようだ。