女が王であること
今、富野由悠季小説作品の通読中、『F91』を読んでいる。
政治的な象徴としての女王(アイドル)の必要性について、『F91』下・七章にある。大衆のアイドル願望云々。これ自体は珍しい見解でもないが、富野文脈で出てくる箇所は飛び飛びなので、メモしておく。
パプティマス・シロッコが『これからは女性の時代だと思っている……』等の発言するときにはその根拠なんかは、とくにない。なんとなくシロッコがそう思う。
女が王であるべきより、男が王であるべきでないことには、このたびの通読では前回『シーマ・シーマ』のときに一度触れた。そこでは男が王であることの不都合を三部作を通して見た。『シーマ・シーマ』の女王観は短く言うと、男性の王は政治や野心の道具として必然的に女性を虐げるから、アーデアス王家のような体質は男が王であるかぎり正されない。女性が王であることのポジティブな意味はとくに語られない。
『F91』の場合はあらかじめアイドル(象徴)としてのクィーン、というのだが象徴には政治的な実権はもってない、君臨すれども統治せず、の含意もある。これに対して、「政治を司る女王」(統治する女王)というと、富野作品ではリンレイ・メラディを言うことになるだろう。『リーンの翼』はわたしは今もっぱら新版を読むのでこの後にする。ちなみに、バイストン・ウェルで「政治を司る聖戦士」というと投げやりな意味になる。政治など聖戦士のやることではないが、やってくれ。
象徴は象徴でも政治的な象徴でない、宗教的な象徴の女王というと、次はマリア・ピァ・アーモニアが出てくるだろう。これも今度よむ。
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コスモ・バビロニアの女性体制の構想では、宗教にはシェリンドン・ロナがすでにいるが、政治はベラという夢を語っていた。少なくとも『F91』ではシェリンドンという人やコスモ・クルスは重要ではないので構わなくていい。