シャクティが無口な子か……、というと、「言葉を使うのが苦手」というよりか、「シャクティ語でしゃべっている」ようなことは、1巻最初から書かれてはいる。シャクティの言葉使いは、今のところウッソにしか解読できない、カサレリアの近所のおばさんにも通じないのはわかっているけど。ウッソは、彼女独特の語彙や表現力にはしばしば感嘆してる。人形みたいに無感動な子ではない。
シャクティは、大人の常套句を自分がまねるのは「恥ずかしい」と思うし、「自分の気持ちをちゃんと説明してない、とりあえずの表現」の言葉使いにためらう。
ここの再読では歴史観についてじわじわ触れているが、ここでいうとき「史観」というのも「道具」だ。人類はどんな歴史を辿って今どこにいる、という認識も、史観Aまたは史観Bのどちらが上手く現状を語れるかという、道具の使いこなしの問題としてのみ俎上にのぼる。その結果が作中グロテスクに積んでいくが、
『こういうことを思いつき、やってきてしまって、それが、歴史の必然などという言葉遣いは、やめなければならない。抹殺されなければならない種は、知恵をつかう人間の大人たちなのではないか? ぼくら子供が、その大人になるということは、無惨なことだ。だとしたら、そうではない大人の世界を獲得しなければならない』
ひとまずここまでの筋道があってウッソ2巻になる。わたしは発行当時からだけど、初読では「グロい」という感想になるのは仕方ないとして、バイストン・ウェルほどじゃない。今の再読だと、今までにないくらいスリリングな感覚をおぼえるね。
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