スペース・コロニーに虫
スペース・コロニーに住んでいる学生が、ある夏の休日、することがなくて部屋で自然動画を巡回して暇を潰していた。ふと目をやったとき、デスクの上に乗っている小さな黒いものに気づいた。それが鳴き出す前に、それに目をやっていたが、それが何かに気づく前にそれが鳴き始めた。
知らない間に机にコオロギがいたら、それが突然鳴き出したらびっくりして椅子から転げそうになる。でも落ち着いて見てみれば、そのリアクションをするほど危険なものかは怪しかった。あらためて見返すなら、怪しいことは怪しい。
スペース・コロニーでは生物の持ち込みは厳格に規制されている。勝手に増える動植物や病気を持ち込むものは宇宙港の水際で差し止めるのが当たり前である。建設年代の古いサイドでは蜘蛛の巣ひとつ見られないのが宇宙生活者の身の回りであった。現在の新興サイドの規律では、人の生活圏内にそれほど何もいないわけでもないが、やはり動物といえば動物園か牧場、魚や海棲生物は水族館、昆虫は昆虫館でしか見たことがない。
コオロギはコオロギであることは、調べればわかる。マンションの同じ棟の、どこかの家から逃げ出したペットだろうか。顔を近づけて見れば見るほど、精巧な
箱に入っても虫は怯える様子もなく、その夜はそこを虫の居場所にしてやった。ベッドに入る頃になっても、時折に鳴き出す音にはかなりのボリュームがあって、うるさくて寝れないくらい。さいわい部屋は防音がしっかりしていて周囲には漏れないで済みそうだ。虫のことはまた明日考えることにする。
隠して飼い始めてみると、わりと容易い隠蔽環境ではあった。虫に与える餌と水は家にあるもので適当にまかなった。食べているところを見ていればフンもするが、ピンセットで摘み出すのにさほど嫌悪も覚えないことに気づく。生きものには原理原則のことである。たまに、ノックなしに母親が部屋のドアを開けることがあるが、自分が学校に行っている間は、昼間は母親も仕事に出ているので、そんなに心配するほどでもなさそうな家族である。
日に日は過ぎて、スペース・コロニーの秋の季節が進み、やがては冬が迫る頃になる。小泉八雲のエッセイによると虫も大切に飼えば真冬まで生きていることがあるという。生きてはいても、やがていつかは、虫も死なないということはない。その頃にはきっと、自分はその虫のことを好きになっているだろうと思えたが、愛しているかまではわからないことだ。
鳴き声を立てているコオロギはオス。その鳴くのはメスを求めて鳴いているのだろうが、求めるメスはこのスペース・コロニーの周りの宇宙空間にはいないので、そんな虫の境遇はひどく孤独なものである。そんな虫を生かしてやりもせず、死なせもせずに、箱に閉じ込めて飼っているのはよくよく身勝手なことであろうと思う。降って湧いたように転がり込んだこのものをどうしたらいいのだろうと思いながら続く夜々を楽しんだ。