エンジェルに居た雪女
エンジェル・ハイロゥが分解して外宇宙に向かって加速を始めた頃のこと。ダルマシアン艦の艦橋でムッターマ将軍が目を覚ますと、艦は、破断した巨大なリング・スクラップの壁上に固縛したように取り込まれ、今まさに戦闘空域を離れつつあった。半壊した艦の窓から見る銀河は、ぐんぐんと迫ってくるかのように見え、それは前代未聞の光景だった。今は亡き、将軍の生涯の盟友であったカガチ宰相に語りかけるようにしながら、
――しかし、いずれにせよ、先に待つのは凍死か、窒息死か――
それは皮肉なことだなと将軍は呟いていた。
第二艦橋に横たわる将兵のうちの青年士官が、そんなムッターマ将軍の様子を見ていた。彼の意識ももはや朦朧としていくそのとき、艦橋に一人の女が入ってきた。司令室の戸がするすると引き開けられ、入ってきた若い女は、白装束をなびかせながら各席のコンソール上を流れていった。見ていると、白い衣裳の女はムッターマ将軍のヘルメットに額をつけ、何事か話しかけている様子だった。ヘルメットを手放すと、やがて将軍のノーマルスーツが力なく浮き上がり、無重力に漂い出した。女が振り向き、次には彼の方へ近づいてきた。
彼のヘルメットを抱くようにして、女の顔が間近に来ると、額をこつんと当てた音がし、接触回線で聞こえるな、と女の声が聴こえた。とても美しい、ぞっとするほどの瞳とその声で、女は、――おまえはまだ若く、美しい男ゆえ、いまは命は取らないでおく。このエンジェル・スクラップが別の銀河にたどり着いたとき、かの世界で、もしも私のことを誰かに話したらそのときは命はないぞ。――と、生真面目なかおで、それだけ言うと、女は薄っすら微笑んで、東洋風のドレスの裾を曳きながら司令室を後退りし、開いている戸から出ていった。
気温は下がっていき、司令室内の辺りは一面に霜が降りたか、雪が降ったかのように白く凍っていた。青年は、自分はそんな場でひどく場違いな幻想を見たように思ったが、ここはいまだエンジェル・ハイロゥのサイコミュの影響下の空間なのである。
ダルマシアン艦を取り込んだスクラップはサイド四の空域を離脱し、このまま加速し続ければやがては光速に達するのではないかとさえ思われる。リングの自転に乗る艦橋からは、既に地球を見ることはできない。地球光を見失い、あの太陽をも失えば、あとはただ落ちて行く。地球というただ一つの星を離れては、宇宙の闇の深奥は有機体の経験しうる涯て、絶対の孤独。宇宙で待つのはただ死だと青年は学んだ。
にもかかわらず。――青年は天測を諦め、代わりに皮肉な笑みの浮かぶのを覚えている。――あらゆる自然の結末は、死だが、だがそれにもかかわらず、まだここでは、われわれは死にゆく運命ではないのかもしれぬ。皮肉にも幾人かは生き延びて、未知の世界にまで行き着くことがあるなら、人はまだ死にゆく運命にないのならば、なお生きてなすべきこともあるかもしれない。
だが、それは、また別の物語である。
(〇一五〇年代頃)