フェラリオの美女ハロウ・ロイに対して迫水は、自分の男立ちのできなさを慚愧の思いで噛みしめる。彼女は、レイプされていたので、どちらが恥ずかしいかといえば彼女のほうだが、という、読者によっては目にきつい文章が入ってくるかもしれないが、わたしは暴力やゴア表現等にはそれなりに慣れてはいて、こういう言い方はそんなに嫌いじゃない。それなりに好き。
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フェラリオの美女ハロウ・ロイに対して迫水は、自分の男立ちのできなさを慚愧の思いで噛みしめる。彼女は、レイプされていたので、どちらが恥ずかしいかといえば彼女のほうだが、という、読者によっては目にきつい文章が入ってくるかもしれないが、わたしは暴力やゴア表現等にはそれなりに慣れてはいて、こういう言い方はそんなに嫌いじゃない。それなりに好き。
それとべつに連想したのは、小説通読ではこのまえ、年譜ではずっとあとの『V』のカテジナのことで、再会したあとにカテジナの当たりのきつさ、カテジナ目線からのウッソの鬱陶しさは鮮明になってくる。最初から迷惑だと言っているけど。その際に、もしもウッソが、
『でも僕はカテジナさんの命助けましたよ』
とは、言わないだけまだウッソは我慢してるじゃないですか……のように、思ったのを思い出していた。
迫水が恥じるくらいならハロウのほうがずっと恥ずかしいよ、の連想。
その話は『リーン』に今関係ないのだが、……そんなに嫌ならウーイッグで助けずに死なせておけばよかったですか? とは、ウッソでなくても、そんなことを言えるのは人間じゃない。
ではカテジナやクロノクルの現在に陥った状況は、もしもどこかで違う選択肢を踏んでいればもっと救いのあるものだったか、は、どの瞬間にもそれはなかっただろう。どうしようもないところで空回りしているから彼彼女は必死になるほど客観的にコミカルに見える、喜劇になるという話をした。
それはブラックユーモアで書かれているので本当にそうのはず。だがもうひとつチャンスは、「それもまたエンジェル・ハイロゥの空域で起こったことだ」というのはあり、エンジェル・ハイロゥのエリアでは、現実に逃げ場のないシチュエーションでももうひとつそれを超えうる、と作者自身が書いてる。そういうところを読者が利用してもいい。批判的読書には余計なことを書くだけわたしは気が優しすぎるよな。
ifなどは……この時世では世間はそれが見たいというだけの話ではありながら、古典原典は大事とはいいながら今見たいのはこっちだよねという形で、「トゥルーエンド」という言われ方にもなるだろう。そこは世代相応というもので必至ではある。「スーパーサイコ研究」なんかを発作的に思ったのは、わたしはまたそういう気分が差したみたいだった。わたしは「アムロが父親代わりのようになっている図」というのは嫌いだ。それはかなり強硬にきらい。
わたしのは、そこにファンの願望語りの本性がわかっているからいやだ、反抗するという、それ以外の理由じゃない。
カテジナのことは、通読していれば前回エイシェトのことで腑に落ちるものがあった。ハロウ・ロイまで救いたいと言いだすやつはいないから、それは取り上げた。