ジャンル/国籍未整理。停滞しがちな進捗状況。特定ジャンルに特化してきたらトピックを分ける。
『屍鬼二十五話――インド伝奇集』ソーマデーヴァ著 上村勝彦訳。再読。隣の富野トピックの連想からと書いているがもともと再読はしたくて積んでいる。上のと同様、今あまり訳注のこまごまにかまわず通読を急ぐ。
今、第一話まで。……こんな話など十年も経って憶えているわけがない。読んだ印象と、11世紀頃との年代と。岩波文庫の『カター・サリット・サーガラ』4巻本も一応、手元にある。この「屍鬼」はヴェーターラというらしい。
ヤムナー河畔に、ブラフマスタラという名の、バラモンの封地があります。そこに、ヴェーダ聖典に通達したアグニスヴァーミンというバラモンが住んでいました。彼にマンダーラヴァティーという非常に美しい娘が生れました。造化の神は、全く新たなる絶世の美にあふれた彼女を造り出してからは、きっと以前天女たちを創造した際の自分の業(わざ)のつたなさにうんざりしたことでありましょう。
これ訳文を読んでいると、既成の価値観を覆すアヴァンギャルドな美人、のように読める――大和撫子だ淑女だと思っていたらギャルが来たのような――けど、たぶん美的感覚や美学自体はやはりクラシックでより完璧な理想像だったのことだろう。
第七話まで。
『屍鬼二十五話』。以前の感想のあれこれをしだいに思い出してきたが、これは読むまえに巻末解説(上村勝彦)をざっと目を通して当たったほうがよい。
インド古典の物語集にもいろいろあるが、まず紀元前のと、四世紀頃と、七世紀と、十一世紀と……のような時代のちがいや、インドといっても北から南まで広いのに日本人の読者は全てざっくり「インドの」と理解しがちなので、せめて「いつどこ」は念頭に置くように書いておく。これはすでにしている。
『屍鬼二十五話』に触れる途中で一回カーリダーサの方に振れて思い出したが、この『屍鬼』ではたとえば、美女は毎話のように登場するが、美女の美しさの描写にいちいち拘泥しない。髪の艶やかさ、肌の張り、目のアーモンド型、唇の半開きで吐息し、乳房や頸や腹の三本の皺や、臀部の……と「列挙式」にいちいちに比喩を尽くして描いていったりはしない。美女なら、たいへん美しかった、絶世の美女でした、と言って済む。観念的というくらい簡潔。
カター・サリット・サーガラの原型というテキストがもともと伝承として、決まっているわけではないんだろう。ただソーマデーヴァのまえにクシェーメンドラがいて、その作品による饒舌、詩的技巧に偏った失敗というのに解説では触れている。それを踏まえてこの『屍鬼』の興味はあくまで伝奇にあり、それは語り口、ストーリーテリングの妙味を読んでくれ、ということなんだ。文体のこと。わたしはそれ自体を、前回十数年まえですでに憶えていなかった。書いておこう。
ストーリーテラーだと思うとこれが面白い。毎話のパターンがだんだんお約束になってきてセルフツッコミ(コミカル)が始まったり……。毎回、ヴェーターラからトリヴィクラマセーナ王に謎かけがかかるが、作中での「回答」には本当にそう?と思える怪しい場合が多々ある。そもそも「難問」として設定されているそれに正解なんてありはしないと思う。 トリヴィクラマセーナ王はクシャトリヤ的価値観から「各種姓の義務を守る」という基準で答えているという印象も、しなくはないけど、どうもいつもそれとはかぎらず、むしろテキトーを答えている、いかにもこじつけで「それは違うだろう」と読者には思えることもある。
これは、まず即答することがこの場の課題で、ああも言える・こうも考えられる……といちいち検討していれば「早く答えなければ殺すよ」と屍鬼から言われている。答えが正しかったかどうかは屍鬼もいちいち評価していない。この物語集は、不条理でグロテスクなシチュエーションでスピーディかつウィットな応答を楽しむためのものだと。この、「語り特化型物語」への関心はわたしは十数年前に一度それがあり、そのテーマで蒐めてもいた。
第十話まで。上で、「各種姓の義務を守る」(ダルマ)ことをクシャトリヤ的な、と言ったが、それはクシャトリヤのステレオタイプ。
それよりはトリヴィクラマセーナ王の価値観は一般世間の倫理的通念とは無縁に、あるいは一般的倫理に反しても「より難しい、ハードなチャレンジに臨んでいるものが偉い」と判定する傾きがあるようだ。
冒険的なこと、というかな。これも伝奇ジャンルだからこそ、と言えばいいだろう。スリル重視。
第十三話、『こんな設問をするやつがわるい』というより、『こんなナンセンスな話をする語り手、作者が悪い』と言ってるようで、メタ話を言い出しては伝奇が成り立たない。でもこれで一話稼ぐ。
『屍鬼二十五話』第十六話まで。
菩薩の化身が捨身しても皆が神々を非難したら神が現れてさっと生き返し、死んだ王子はめでたく立ち上がる。――さてそれは本当に有り難いのか。というのはここではその言い方ではないが、『菩薩にとっては当たり前だから、その勇気を賞讃することではない』のいう気持ちは、今もなんらか分かるだろう。……
最近では、『騎士道』のときにフランスの中世武勲詩の中で戦い死んでいった勇士たちが話のあとに全員生き返るとか、日本の僧兵の話では、殺傷の罪を自身に引き受けて戦う僧兵には、地獄に落ちても若干の救済があるなど説くことに、むごい話に救済要素を挿むことで物語本来の趣旨は薄れて台無しにしていないか……のような、現代読者として気分を禁じ得ないものがある。 だが、それはやはり聴衆の大勢が耐えられないのだろうというのは、わたしは今そんなにわからないことでもない。
菩薩行のさらに追究はこのあと第二十話にある。
『屍鬼二十五話』第二十二話。「三人のうち誰がいちばん気が迷っているか」のような問いは、わたしには質問がナンセンスな質問に思われる。
物事の正当さを比べるならそれぞれの根拠を挙げて採るべきところを選びもしようが、狂っているのに狂い度の大小もあるものか。「詭弁的だ」とわたしは反射的に感じるんだけど、このソーマデーヴァや、伝奇物語にかぎらずインド古典でよくする詭弁論のいつものではある。そのつどイラッとするだけで、そんなにめずらしいと思ってるわけではない。
第二十三話はネクロマンシー。死者の魂を招く降霊術ではなく、老いた自分の肉体を棄て新しく若々しい体に乗り移り再生する転生術の古典的な例。 「古典的」といってもこれは十一世紀だけどな。降霊術にせよ長生術にせよ、古来、世界中にはあって何でも言えば視点が定まらない。今いったのは、伝奇小説中の、のこと。
ジャンバラダッタ本第二十二話、性魔術だな……。いまわたしの言う性魔術は、『これこれの者と性交すると願いは成就するぞよ』という語りであれやこれやする、ストーリーで、これは時代を経ても、現代のノベルやコミックにもあまねく語り継がれている。それほどあくどいポルノ的に言わなくても、ボーイミーツガールのジュブナイルでも『少女の肉体に最終兵器の封印が施されている』、などの。少女型の生体ユニットなども一種の性魔術だ。ここはその詐欺話だけど、性愛と祈願成就を関連して説きつける型は古今おなじ。 その「信仰」はむろん古代からあるし、それを揶揄った小説もまた古代からある。「黄金のろば」とかか。今は、中世。
『屍鬼二十五話』解説まで、終わり。この続きカター・サリット・サーガラに行くか……行くと長いが。『鸚鵡』『十王子』も積んでいるけど、すれば何か月か作業になりそう。東洋文庫の電子書籍は仕様をみるかぎりあまりものの役に立ちそうにないので、ここは今手元にあるもので根気よく読んだほうが自分のためにはなりそうだ。
『シャクンタラー』カーリダーサ/田中於菟弥訳 を読む。屍鬼二十五話などを読みかけ、そもそもまずもっとオーソドックスなのを思い出したくなって脱線しているのだが、これはすぐ済む。ただ、このまえ『遊女の足蹴』の続きで、サンスクリット読まないインド古典読書にはわたしはたびたび後ろめたい気持ちになる。
田中於菟弥先生のテキストも今手元にどれだけ埋もれているのか、よくわからん。一回データ作れば三十年くらいはわたしは使えそうだ……。誰と接点があるわけでもなく、一人で次回までに原文読むようになるかな。それはそれで自分の役には立つだろう。
「雲の使い」(メーガ・ドゥータ)「季節のめぐり」(リトゥ・サンハーラ)、カーリダーサ作、田中於菟弥訳、今ここまで。『酔花集』から。
『黄金のろば』アプレイウス、呉茂一・国原吉之助訳で読む。上でちらっと触れたが、これも詳しく憶えているわけではなく良い折なので読み返す。軽い読み物だし。
いま、魔術について、の興味だったけれど、この話は下世話な小説なのは承知しているけど「性魔術」だったかは憶えていない。それにかまわず、伝奇的興味でいこう。
同じく上で『ヴィーナスの神話』(矢島文夫)について触れてそれも再び取り寄せ、併読していたらこの中で「黄金のろば」について言及する箇所に追いついてしまった。先にまず「ろば」を読み終えて進めることにする。
テッサリアの魔法や魔女については古く有名で、といっても「月を引き下ろす」とかいう言い伝えのほか具体的にその所行や、魔境テッサリア(テッサリアの魔境ネタ)というのも今わたしは漠然としたイメージでしかない。ネタ的にはこの「ろば」が古典の大手だろう。 古代当時の伝説は伝説として、そうした魔法のあることないこと噂は、時代が下ればいつしか薄れて途絶え、もちろん現在にそんなものはないのだろうが、そのフェードアウトしていく過程を「いつ」と指すにはどう考えたらいいのやらんとわたしは思ったりする。そうした興味も、元からなくもないようだが。
この小説中のテッサリアの魔術(魔女)の所行をこまごま列挙しておこうかと思ったがその気にもなれない。最初のほうの、非難する連中を一室に閉じ込めて扉が開かないように魔法で封鎖し、餓えて音を上げるまで監禁してやったとか、家ごとはるか彼方の山上に持ち運んで異郷に放置してやったとかは、なかなか良い魔法の使い方だ。
今ここの読み返しの続き、『屍鬼』と続けて共通点としては、人の死骸を持ち去って魔法の儀式の材料に使ってしまう、という忌まわしい所行を語られていること。その実態があるのかもしれないし、実際にどうかは知れなくてもそのような噂なら決まって語り草になるだろう。
巻の四まで、クピドとプシケの物語の途中。
プシケが二人の姉に報復することには、そのこと自体の是非については作家は何とも思っていないようだ。プシケはもともと純真で悪意を知らないかのようでいて、やり返すときには報復の仕方は悪辣で容赦ない。「悪意を蒙っても自分から同じ悪意を返すことはしない」のような、洗練された正義観はない。
ローマ時代の作家がそれくらいのことを思わないとは思わない。この小説の主人公のルキウスがそもそも複雑な性格だ。ここは、老婆が語る昔話の民話調だから物語にもともと葛藤する複雑な人格がない。型通りに、対称形に話をする。そのうえで、ここの前に「フリアエ」がでてくるがそれやエリニュス、ネメシスのような復讐を司る感情が当時(ローマ時代)とも異質ではあるだろう。
プシケは神クピドに対して犯した過ちの悔いと贖罪のためにさまようが、それ以外の人間レベルの悔いや赦しは関心に昇らない。
(「ローマ時代」というのはローマ帝政期のことだ、というかアプレイウスのこと)
巻の七まで。すでにだいぶ飽き飽きしてきた。
囚人を裸にして全身に蜜を塗りたくり、野外に置いて虫に(ここでは蟻に)生きながら食わせるという刑罰は、古代の話には時おり出てくる。それに取材した現代の小説にも出てくるだろうから、わたしは前にどこで類似の話を読んだかも憶えていない。
ネットで検索すればすぐに出てくる、だろうが、ネット上にある記事はまちがいなく「残虐嗜好」以外の興味ではないだろうから(記者も閲覧者も)、取り上げている事柄や筆致にまず大幅なバイアスがかかっている。歴史家がどんな公正を期してかかっても元々が残虐行為なことは当たり前なうえで。そう思えばわたしは軽い気で調べる気がせん。
それとはほかに、それに似た刑を課して広場に縛られたが、罪は無実なので、神が昆虫や小動物に命じるか、蟻や蜂が察して縄を食いちぎってやり本人は傷一つ付けずに済ましたという話もたしかある。それはむしろ神明裁判のような話の発想だ……。伝説に特定の起源を求めなくても、個々にそういう話を思いつきうる。
『ろば』のここでは、奴隷を罰するのは奴隷所有者(主人)の勝手で、そこを通過する人々は「無惨なことだ」とは思い、恐れても、その主人の仕方に対してとやこう口を挟んだりしていない。作家も今この文脈でそんな関心はない。不身持な奴隷にそれなりの応報が下ったという話だ。 たとえ罪人でも、悪人を罰するにもやり方があろうのような感覚は……よほど後代のものか、異邦の旅人が発言することなら古代人が古代社会を観察しても「なんと野蛮な風習だ」と言っていることはある。
このろくでなしの聾で唖の馬鹿野郎め。全能にして万物の母にましますシリアの女神さま、聖なるサバディウスにしてベロナ、アッティスと共に母なるキュベレ、アドニスと共に至上のウェヌスにあらせられる女神さま、どうかこの競売人の目を抉りとって下され。こいつときたら、……
こういうところが現代の引用者には大変美味しい、目を引くところなんだろうが、作者は修辞家で小説家だから登場人物もこう立て板に水でまくし立てるものの、この中のキュベレとかアッティスの意味は「てやんでえ」「べらんめえ」程度の意味しかない。
九。この寝取られ男の話は、亭主はそれでも当初より余計な金額を貰っているのだし、本人は儲けたつもりで良い気分でいるのを笑いものにはされても、痛烈にしてやられたほどでもない。密通のほうが急場をどうにか言い抜けたのと、男女とも懲りもしない性根の悪さを暴露しただけのようか……。
小説の挿話にしても切れの悪さは、むしろ世間並みの笑話としてリアルなのかもしれないな。その場の、女の口振りを真似て面白がるんだろう。
また直後の話でもそうだが、密夫が取り持ちの奴隷や女の心を買収するのに多額の賄賂を使う、その出費について密夫はとくに気にしたり苦にしたりしないみたいだな。 堅塁奪取に金に糸目はつけないか……色男にしては、後でその場しのぎの機転と、なにか前後の振る舞いが合わないような感じだ。ここの押す点は、大胆不敵さ。やり口が大雑把に見えるけど、しゃあしゃあと言い抜ける開き直る。
『黄金のろば』読了。今読まれる興味のなかには最終章の、イシス女神の諸々の異名や一連の密儀の次第などはあるのだろうがそれはまた別に任せるとして、わたしは伝奇小説の古典として。魔術の興味は途中で薄れたが、やはり、面白い。
今日読んだ中では先ほど、九巻の、寝取られ男の話が意外に面白かった。意外にというのは、わたしはもともとその種の笑話艶話にそれほど積極的な興味が湧かないからだが、その、寝取られ男のおおむね同趣向の類話を続けて三話語ってみせるなど小説家としてなかなか面白い仕方ではないか。
読み終えたので、上に戻って矢島文夫『ヴィーナスの神話』を続き。この本は概説というか入門書的なもので美術叢書中のそのテーマを紹介するものだが、もとその専門ではないわたしには、興味の発端としてとても役に立った。関連書名を挙げるのはまたその項でしよう。
矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)読了。1970なので古いといえば既に半世紀だが、役に立つ。
矢島文夫氏の著書を読まれるのはふつう『ギルガメシュ叙事詩』と『世界最古の物語』の邦訳だろう。それが現在どういう興味の人が手に取るのかは分かるけど「ギルガメシュ叙事詩」はいきなりに臨んでわかるものかは疑問だ。 近年の読者ならゲームに出てくるようなその話が、教科書に載っているような書名とはいえ、その文を高校生くらいで無手で挑んでもどこが面白い物語なのか、これがどういう経緯で現代に価値があるのかは、ぴんとこないことがあるかもしれない。
ともかく手がかりを得てそこから関心を広げていくには、むしろこの『ヴィーナスの神話』の本がわたしは幅広い関心に点火する、起爆剤になった。言語学の入門編にはならない。
この中に挙がっているタイトルから過去にわたしの興味があったものを抜き出すと、
わたしは、金枝篇や千一夜物語はこれよりは前に他の経緯だったと思うけど、上の辺りはここらから参考文献リストをたぐった跡みたいだな……。いずれもそれなりに古いのは当然だろうが、ピエール・ルイスなどは最近も読み返していたね。
この次は、もとに戻ってインドの続き、十王子物語か鸚鵡か……。エリアーデは暇潰しのように置いているが、再読継続中。別トピックで思い出したのでライラーとマジュヌーン。クレイマー『聖婚』を読み返したいけど、併読が多すぎる。
Zawazawaのここの板を立てた時点で、一個のトピックでどれだけの話をするかの見当がなかったので曖昧に始めているが、本当は、読書なら本一冊ごとに一トピックで立て、その時系列や関連は総合スレでまとめるように編成していくのが、良いんだろう。その量的な見当がないと言ってるのだが。
特定の話題に絞って記事を立てるのが後でリンクを繋いだりするには、確かによい。それがわかっていても最初からそうできないのだが、次に再周するときには個別に新規に立てると考えていてもいい。 タニス・リーなどはあらかじめ90以上とわかっているから今からもう分割を始めていいか。神林長平は逆に、再読したとしても今あらためて書き込むことが思いつかないほどで、閑散としている。場合によるのだが、富野やリーにしても実際そんなに書いているのかな……? 「書き込める場を立てれば書く」ということもあるし。
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チャトゥルバーニーは癒やし。この本は訳注を整理していたが、し始めるとやはり読み進まなくなり、積読が渋滞凍結してしまうので、進捗優先でいく。将来も読み返すことはわかっているが、PCも注釈もなくてどうしても困るということでもあるまい。
屍鬼二十五話
『屍鬼二十五話――インド伝奇集』ソーマデーヴァ著 上村勝彦訳。再読。隣の富野トピックの連想からと書いているがもともと再読はしたくて積んでいる。上のと同様、今あまり訳注のこまごまにかまわず通読を急ぐ。
今、第一話まで。……こんな話など十年も経って憶えているわけがない。読んだ印象と、11世紀頃との年代と。岩波文庫の『カター・サリット・サーガラ』4巻本も一応、手元にある。この「屍鬼」はヴェーターラというらしい。
これ訳文を読んでいると、既成の価値観を覆すアヴァンギャルドな美人、のように読める――大和撫子だ淑女だと思っていたらギャルが来たのような――けど、たぶん美的感覚や美学自体はやはりクラシックでより完璧な理想像だったのことだろう。
第七話まで。
『屍鬼二十五話』。以前の感想のあれこれをしだいに思い出してきたが、これは読むまえに巻末解説(上村勝彦)をざっと目を通して当たったほうがよい。
「インドの」諸々
インド古典の物語集にもいろいろあるが、まず紀元前のと、四世紀頃と、七世紀と、十一世紀と……のような時代のちがいや、インドといっても北から南まで広いのに日本人の読者は全てざっくり「インドの」と理解しがちなので、せめて「いつどこ」は念頭に置くように書いておく。これはすでにしている。
『屍鬼二十五話』に触れる途中で一回カーリダーサの方に振れて思い出したが、この『屍鬼』ではたとえば、美女は毎話のように登場するが、美女の美しさの描写にいちいち拘泥しない。髪の艶やかさ、肌の張り、目のアーモンド型、唇の半開きで吐息し、乳房や頸や腹の三本の皺や、臀部の……と「列挙式」にいちいちに比喩を尽くして描いていったりはしない。美女なら、たいへん美しかった、絶世の美女でした、と言って済む。観念的というくらい簡潔。
カター・サリット・サーガラの原型というテキストがもともと伝承として、決まっているわけではないんだろう。ただソーマデーヴァのまえにクシェーメンドラがいて、その作品による饒舌、詩的技巧に偏った失敗というのに解説では触れている。それを踏まえてこの『屍鬼』の興味はあくまで伝奇にあり、それは語り口、ストーリーテリングの妙味を読んでくれ、ということなんだ。文体のこと。わたしはそれ自体を、前回十数年まえですでに憶えていなかった。書いておこう。
語り特化
ストーリーテラーだと思うとこれが面白い。毎話のパターンがだんだんお約束になってきてセルフツッコミ(コミカル)が始まったり……。毎回、ヴェーターラからトリヴィクラマセーナ王に謎かけがかかるが、作中での「回答」には本当にそう?と思える怪しい場合が多々ある。そもそも「難問」として設定されているそれに正解なんてありはしないと思う。
トリヴィクラマセーナ王はクシャトリヤ的価値観から「各種姓の義務を守る」という基準で答えているという印象も、しなくはないけど、どうもいつもそれとはかぎらず、むしろテキトーを答えている、いかにもこじつけで「それは違うだろう」と読者には思えることもある。
これは、まず即答することがこの場の課題で、ああも言える・こうも考えられる……といちいち検討していれば「早く答えなければ殺すよ」と屍鬼から言われている。答えが正しかったかどうかは屍鬼もいちいち評価していない。この物語集は、不条理でグロテスクなシチュエーションでスピーディかつウィットな応答を楽しむためのものだと。この、「語り特化型物語」への関心はわたしは十数年前に一度それがあり、そのテーマで蒐めてもいた。
第十話まで。上で、「各種姓の義務を守る」(ダルマ)ことをクシャトリヤ的な、と言ったが、それはクシャトリヤのステレオタイプ。
それよりはトリヴィクラマセーナ王の価値観は一般世間の倫理的通念とは無縁に、あるいは一般的倫理に反しても「より難しい、ハードなチャレンジに臨んでいるものが偉い」と判定する傾きがあるようだ。
冒険的なこと、というかな。これも伝奇ジャンルだからこそ、と言えばいいだろう。スリル重視。
第十三話、『こんな設問をするやつがわるい』というより、『こんなナンセンスな話をする語り手、作者が悪い』と言ってるようで、メタ話を言い出しては伝奇が成り立たない。でもこれで一話稼ぐ。
『屍鬼二十五話』第十六話まで。
菩薩の化身が捨身しても皆が神々を非難したら神が現れてさっと生き返し、死んだ王子はめでたく立ち上がる。――さてそれは本当に有り難いのか。というのはここではその言い方ではないが、『菩薩にとっては当たり前だから、その勇気を賞讃することではない』のいう気持ちは、今もなんらか分かるだろう。……
最近では、『騎士道』のときにフランスの中世武勲詩の中で戦い死んでいった勇士たちが話のあとに全員生き返るとか、日本の僧兵の話では、殺傷の罪を自身に引き受けて戦う僧兵には、地獄に落ちても若干の救済があるなど説くことに、むごい話に救済要素を挿むことで物語本来の趣旨は薄れて台無しにしていないか……のような、現代読者として気分を禁じ得ないものがある。
だが、それはやはり聴衆の大勢が耐えられないのだろうというのは、わたしは今そんなにわからないことでもない。
菩薩行のさらに追究はこのあと第二十話にある。
『屍鬼二十五話』第二十二話。「三人のうち誰がいちばん気が迷っているか」のような問いは、わたしには質問がナンセンスな質問に思われる。
物事の正当さを比べるならそれぞれの根拠を挙げて採るべきところを選びもしようが、狂っているのに狂い度の大小もあるものか。「詭弁的だ」とわたしは反射的に感じるんだけど、このソーマデーヴァや、伝奇物語にかぎらずインド古典でよくする詭弁論のいつものではある。そのつどイラッとするだけで、そんなにめずらしいと思ってるわけではない。
第二十三話はネクロマンシー。死者の魂を招く降霊術ではなく、老いた自分の肉体を棄て新しく若々しい体に乗り移り再生する転生術の古典的な例。
「古典的」といってもこれは十一世紀だけどな。降霊術にせよ長生術にせよ、古来、世界中にはあって何でも言えば視点が定まらない。今いったのは、伝奇小説中の、のこと。
ジャンバラダッタ本第二十二話、性魔術だな……。いまわたしの言う性魔術は、『これこれの者と性交すると願いは成就するぞよ』という語りであれやこれやする、ストーリーで、これは時代を経ても、現代のノベルやコミックにもあまねく語り継がれている。それほどあくどいポルノ的に言わなくても、ボーイミーツガールのジュブナイルでも『少女の肉体に最終兵器の封印が施されている』、などの。少女型の生体ユニットなども一種の性魔術だ。ここはその詐欺話だけど、性愛と祈願成就を関連して説きつける型は古今おなじ。
その「信仰」はむろん古代からあるし、それを揶揄った小説もまた古代からある。「黄金のろば」とかか。今は、中世。
『屍鬼二十五話』解説まで、終わり。この続きカター・サリット・サーガラに行くか……行くと長いが。『鸚鵡』『十王子』も積んでいるけど、すれば何か月か作業になりそう。東洋文庫の電子書籍は仕様をみるかぎりあまりものの役に立ちそうにないので、ここは今手元にあるもので根気よく読んだほうが自分のためにはなりそうだ。
カーリダーサ
『シャクンタラー』カーリダーサ/田中於菟弥訳 を読む。屍鬼二十五話などを読みかけ、そもそもまずもっとオーソドックスなのを思い出したくなって脱線しているのだが、これはすぐ済む。ただ、このまえ『遊女の足蹴』の続きで、サンスクリット読まないインド古典読書にはわたしはたびたび後ろめたい気持ちになる。
田中於菟弥先生のテキストも今手元にどれだけ埋もれているのか、よくわからん。一回データ作れば三十年くらいはわたしは使えそうだ……。誰と接点があるわけでもなく、一人で次回までに原文読むようになるかな。それはそれで自分の役には立つだろう。
「雲の使い」(メーガ・ドゥータ)「季節のめぐり」(リトゥ・サンハーラ)、カーリダーサ作、田中於菟弥訳、今ここまで。『酔花集』から。
黄金のろば
『黄金のろば』アプレイウス、呉茂一・国原吉之助訳で読む。上でちらっと触れたが、これも詳しく憶えているわけではなく良い折なので読み返す。軽い読み物だし。
いま、魔術について、の興味だったけれど、この話は下世話な小説なのは承知しているけど「性魔術」だったかは憶えていない。それにかまわず、伝奇的興味でいこう。
同じく上で『ヴィーナスの神話』(矢島文夫)について触れてそれも再び取り寄せ、併読していたらこの中で「黄金のろば」について言及する箇所に追いついてしまった。先にまず「ろば」を読み終えて進めることにする。
テッサリアの魔法や魔女については古く有名で、といっても「月を引き下ろす」とかいう言い伝えのほか具体的にその所行や、魔境テッサリア(テッサリアの魔境ネタ)というのも今わたしは漠然としたイメージでしかない。ネタ的にはこの「ろば」が古典の大手だろう。
古代当時の伝説は伝説として、そうした魔法のあることないこと噂は、時代が下ればいつしか薄れて途絶え、もちろん現在にそんなものはないのだろうが、そのフェードアウトしていく過程を「いつ」と指すにはどう考えたらいいのやらんとわたしは思ったりする。そうした興味も、元からなくもないようだが。
この小説中のテッサリアの魔術(魔女)の所行をこまごま列挙しておこうかと思ったがその気にもなれない。最初のほうの、非難する連中を一室に閉じ込めて扉が開かないように魔法で封鎖し、餓えて音を上げるまで監禁してやったとか、家ごとはるか彼方の山上に持ち運んで異郷に放置してやったとかは、なかなか良い魔法の使い方だ。
今ここの読み返しの続き、『屍鬼』と続けて共通点としては、人の死骸を持ち去って魔法の儀式の材料に使ってしまう、という忌まわしい所行を語られていること。その実態があるのかもしれないし、実際にどうかは知れなくてもそのような噂なら決まって語り草になるだろう。
巻の四まで、クピドとプシケの物語の途中。
プシケが二人の姉に報復することには、そのこと自体の是非については作家は何とも思っていないようだ。プシケはもともと純真で悪意を知らないかのようでいて、やり返すときには報復の仕方は悪辣で容赦ない。「悪意を蒙っても自分から同じ悪意を返すことはしない」のような、洗練された正義観はない。
ローマ時代の作家がそれくらいのことを思わないとは思わない。この小説の主人公のルキウスがそもそも複雑な性格だ。ここは、老婆が語る昔話の民話調だから物語にもともと葛藤する複雑な人格がない。型通りに、対称形に話をする。そのうえで、ここの前に「フリアエ」がでてくるがそれやエリニュス、ネメシスのような復讐を司る感情が当時(ローマ時代)とも異質ではあるだろう。
プシケは神クピドに対して犯した過ちの悔いと贖罪のためにさまようが、それ以外の人間レベルの悔いや赦しは関心に昇らない。
(「ローマ時代」というのはローマ帝政期のことだ、というかアプレイウスのこと)
巻の七まで。すでにだいぶ飽き飽きしてきた。
囚人を裸にして全身に蜜を塗りたくり、野外に置いて虫に(ここでは蟻に)生きながら食わせるという刑罰は、古代の話には時おり出てくる。それに取材した現代の小説にも出てくるだろうから、わたしは前にどこで類似の話を読んだかも憶えていない。
ネットで検索すればすぐに出てくる、だろうが、ネット上にある記事はまちがいなく「残虐嗜好」以外の興味ではないだろうから(記者も閲覧者も)、取り上げている事柄や筆致にまず大幅なバイアスがかかっている。歴史家がどんな公正を期してかかっても元々が残虐行為なことは当たり前なうえで。そう思えばわたしは軽い気で調べる気がせん。
それとはほかに、それに似た刑を課して広場に縛られたが、罪は無実なので、神が昆虫や小動物に命じるか、蟻や蜂が察して縄を食いちぎってやり本人は傷一つ付けずに済ましたという話もたしかある。それはむしろ神明裁判のような話の発想だ……。伝説に特定の起源を求めなくても、個々にそういう話を思いつきうる。
『ろば』のここでは、奴隷を罰するのは奴隷所有者(主人)の勝手で、そこを通過する人々は「無惨なことだ」とは思い、恐れても、その主人の仕方に対してとやこう口を挟んだりしていない。作家も今この文脈でそんな関心はない。不身持な奴隷にそれなりの応報が下ったという話だ。
たとえ罪人でも、悪人を罰するにもやり方があろうのような感覚は……よほど後代のものか、異邦の旅人が発言することなら古代人が古代社会を観察しても「なんと野蛮な風習だ」と言っていることはある。
こういうところが現代の引用者には大変美味しい、目を引くところなんだろうが、作者は修辞家で小説家だから登場人物もこう立て板に水でまくし立てるものの、この中のキュベレとかアッティスの意味は「てやんでえ」「べらんめえ」程度の意味しかない。
九。この寝取られ男の話は、亭主はそれでも当初より余計な金額を貰っているのだし、本人は儲けたつもりで良い気分でいるのを笑いものにはされても、痛烈にしてやられたほどでもない。密通のほうが急場をどうにか言い抜けたのと、男女とも懲りもしない性根の悪さを暴露しただけのようか……。
小説の挿話にしても切れの悪さは、むしろ世間並みの笑話としてリアルなのかもしれないな。その場の、女の口振りを真似て面白がるんだろう。
また直後の話でもそうだが、密夫が取り持ちの奴隷や女の心を買収するのに多額の賄賂を使う、その出費について密夫はとくに気にしたり苦にしたりしないみたいだな。
堅塁奪取に金に糸目はつけないか……色男にしては、後でその場しのぎの機転と、なにか前後の振る舞いが合わないような感じだ。ここの押す点は、大胆不敵さ。やり口が大雑把に見えるけど、しゃあしゃあと言い抜ける開き直る。
『黄金のろば』読了。今読まれる興味のなかには最終章の、イシス女神の諸々の異名や一連の密儀の次第などはあるのだろうがそれはまた別に任せるとして、わたしは伝奇小説の古典として。魔術の興味は途中で薄れたが、やはり、面白い。
今日読んだ中では先ほど、九巻の、寝取られ男の話が意外に面白かった。意外にというのは、わたしはもともとその種の笑話艶話にそれほど積極的な興味が湧かないからだが、その、寝取られ男のおおむね同趣向の類話を続けて三話語ってみせるなど小説家としてなかなか面白い仕方ではないか。
読み終えたので、上に戻って矢島文夫『ヴィーナスの神話』を続き。この本は概説というか入門書的なもので美術叢書中のそのテーマを紹介するものだが、もとその専門ではないわたしには、興味の発端としてとても役に立った。関連書名を挙げるのはまたその項でしよう。
矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)読了。1970なので古いといえば既に半世紀だが、役に立つ。
矢島文夫氏の著書を読まれるのはふつう『ギルガメシュ叙事詩』と『世界最古の物語』の邦訳だろう。それが現在どういう興味の人が手に取るのかは分かるけど「ギルガメシュ叙事詩」はいきなりに臨んでわかるものかは疑問だ。
近年の読者ならゲームに出てくるようなその話が、教科書に載っているような書名とはいえ、その文を高校生くらいで無手で挑んでもどこが面白い物語なのか、これがどういう経緯で現代に価値があるのかは、ぴんとこないことがあるかもしれない。
ともかく手がかりを得てそこから関心を広げていくには、むしろこの『ヴィーナスの神話』の本がわたしは幅広い関心に点火する、起爆剤になった。言語学の入門編にはならない。
この中に挙がっているタイトルから過去にわたしの興味があったものを抜き出すと、
わたしは、金枝篇や千一夜物語はこれよりは前に他の経緯だったと思うけど、上の辺りはここらから参考文献リストをたぐった跡みたいだな……。いずれもそれなりに古いのは当然だろうが、ピエール・ルイスなどは最近も読み返していたね。
この次は、もとに戻ってインドの続き、十王子物語か鸚鵡か……。エリアーデは暇潰しのように置いているが、再読継続中。別トピックで思い出したのでライラーとマジュヌーン。クレイマー『聖婚』を読み返したいけど、併読が多すぎる。
Zawazawaのここの板を立てた時点で、一個のトピックでどれだけの話をするかの見当がなかったので曖昧に始めているが、本当は、読書なら本一冊ごとに一トピックで立て、その時系列や関連は総合スレでまとめるように編成していくのが、良いんだろう。その量的な見当がないと言ってるのだが。
特定の話題に絞って記事を立てるのが後でリンクを繋いだりするには、確かによい。それがわかっていても最初からそうできないのだが、次に再周するときには個別に新規に立てると考えていてもいい。
タニス・リーなどはあらかじめ90以上とわかっているから今からもう分割を始めていいか。神林長平は逆に、再読したとしても今あらためて書き込むことが思いつかないほどで、閑散としている。場合によるのだが、富野やリーにしても実際そんなに書いているのかな……? 「書き込める場を立てれば書く」ということもあるし。
十王子物語はじめ。