タニス・リー作品の通読ログ総合。
蔵書マップ
- 1971 The Dragon Hoard / ドラゴン探索号の冒険
- 1975 The Birthgrave■
- 1976 Companions on the Road■ and The Winter Players■ / 冬物語・アヴィリスの妖杯■
- 1976 The Storm Lord (Wars of Vis 1) ←今ここ
- 1976-77 Don't Bite the Sun - Drinking Sapphire Wine / バイティング・ザ・サン■
- 1977 Volkhavaar / 幻魔の虜囚■ ■
- 1977 East of Midnight / 月と太陽の魔道師
- 1978 Shadowfire (The Birthgrave 2)■
- 1978 Hunting the White Witch (The Birthgrave 3)■
- 1978 Night's Master (Tales of the Flat Earth 1) / 闇の公子
- 1978 The Castle of Dark / 闇の城■
- 1979 Death's Master (Tales of the Flat Earth 2) / 死の王
- 1979 Shon the Taken / 死霊の都■
- 1979 Electric Forest
- 1980 Sabella
- 1980 Kill the Dead
- 1980 Day by Night
- 1981 Delusion's Master (Tales of the Flat Earth 3) / 惑乱の公子
- 1981 Silver Metal Lover / 銀色の恋人■
- 1981 Lycanthia
- 1981 Unsilent Night
- 1982 Prince on a White Horse / 白馬の王子
- 1982 Cyrion
- 1983 Sung in Shadow / 影に歌えば
- 1983 Red As Blood, or Tales from the Sisters Grimmer / 血のごとく赤く■
- 1983 Anackire (Wars of Vis 2)
- 1984 Tamastara or The Indian Nights / タマスターラー
- 1985 Days of Grass
- 1985 The Gorgon and Other Beastly Tales / ゴルゴン■
- 1986 Delirium's Mistress (Tales of the Flat Earth 4) / 熱夢の女王■
- 1987 Night's Sorceries (Tales of the Flat Earth 5) / 妖魔の戯れ
- 1988 The Book of the Damned (The Secret Books of Paradys 1) / 堕ちたる者の書■
- 1988 The Book of the Beast (The Secret Books of Paradys 2) / 幻獣の書
- 1988 The White Serpent (Wars of Vis 3)
- 1979-88 悪魔の薔薇 (2007 日本オリジナル短編集)
- 1989 A Heroine of the World
- 1990 The Blood of Roses / 薔薇の血潮■
- 1991 The Book of the Dead (The Secret Books of Paradys 3) / 死せる者の書■
- 1991 Black Unicorn (Unicorn 1)
- 1992 Heart-Beast / 黄金の魔獣■
- 1992 Dark Dance (Blood Opera 1)
- 1993 Personal Darkness (Blood Opera 2)
- 1993 The Book of the Mad (The Secret Books of Paradys 4) / 狂える者の書
- 1993 Elephantasm
- 1994 Darkness, I (Blood Opera 3)
- 1994 Gold Unicorn (Unicorn 2)
- 1994 Eva Fairdeath
- 1995 Vivia
- 1995 Reigning Cats and Dogs
- 1996 When the Lights Go Out
- 1996 The Gods Are Thirsty
- 1997 Red Unicorn (Unicorn 3)
- 1998 Law of the Wolf Tower (Claidi Journals 1) / ウルフ・タワーの掟■
- 1998 Faces Under Water (The Secret Books of Venus 1) / 水底の仮面■
- 1999 Saint Fire (The Secret Books of Venus 2) / 炎の聖少女■
- 1999 Islands in the Sky
- 2000 Wolf Star Rise (Claidi Journals 2) / ライズ 星の継ぎ人たち■
- 2000 White As Snow / 鏡の森
- 2001 Queen of the Wolves (Claidi Journals 3) / 二人のクライディス■
- 2002 A Bed of Earth (The Secret Books of Venus 3) / 土の褥に眠る者
- 2002 Wolf Wing (Claidi Journals 4) / 翼を広げたプリンセス■
- 2003 Venus Preserved (The Secret Books of Venus 4) / 復活のヴェヌス
- 2003 Mortal Suns
- 2004 Piratica / パイレーティカ■
- 2004 Cast a Bright Shadow (Lionwolf 1)
- 2004 34
- 2005 Metallic Love / 銀色の愛ふたたび■
- 2005 Here in Cold Hell (Lionwolf 2)
- 2006 L'Amber (Colouring Book 1)
- 2006 Return to Parrot Island (Piratica 2)
- 2007 No Flame But Mine (Lionwolf 3)
- 2007 The Family Sea (Piratica 3)
- 2007 Indigara, or, Jet and Otis Conquer the World
- 2011 Greyglass (Colouring Book 2)
- 2012 To Indigo (Colouring Book 3)
- 2012 Killing Violets: Gods' Dogs (Colouring Book 4)
- 2012 Ivoria (Colouring Book 5)
- 2013 Cruel Pink (Colouring Book 6)
- 2014 Turquoiselle (Colouring Book 7)
- 2014 Ghosteria
__ 積読中没後作品集から (適宜参照)
- 2015 Marcheval
- 2017 The Weird Tales of Tanith Lee
- 2017 Tanith by Choice: The Best of Tanith Lee
- 2018 Tanith Lee A-Z
- 2023 The Earth Is Flat: Tales from the Flat Earth and Elsewhere
これまでの経過
https://posfie.com/@katka_yg/p/W4zFFXx
邦訳は昨年までに一通りし、今は「The Birthgrave」から順に原書をよむ。電子版。
現在は「Hunting the White Witch」(The Birthgrave Trilogy Book 3)
用語集はここには作成しない。50行しか書き込めない。長編で忘れるので固有名称は手元に書き控えておくといいが…
shireen
The Birthgraveの世界の都市住民でない山野の部族民の女性が着ける面布、顔覆い布 shireen は、第一作で頻繁に言及されるものの具体的なイメージはあまりなく、アラビア女性の伝統衣装のような目線・鼻から下を覆うようなものかと思っていた(放浪の間にボロ布みたいになる)。
ritual 儀礼は長い時代を経てそのtruthを失い、代わりにおびただしいsignificance 意味づけ、解釈で装われている。このsignificanceは後から付けた虚飾、意味のないものだ。男どもは無数のdeities, demons, totems, spiritsを捏造する。Tuvekはそんな野蛮な虚飾をもとから蔑んでいるし、自分の肉体能力を自覚してからは尚更神々を必要としなかった。
タニス・リー魔術の主要概念としてtruthとかfaithは覚えておく。「意思と意図」という方が実践では前に出てくる。The Birthgraveの主人公はpurposeとindependenceがエネルギー源になっていた。「目的意識と自立への欲求」が原動力の女性像、と書くとフェミニズムの化身のようだが今は魔術で、フェミニズムは追々。
反因習や、反抗心は後にもずっと掲げていく。
Hunting the White Witch
Book 1 - Part II: The Sorcerer ここまで。2か月くらい、他に寄り道してびっくりするほど進んでいない。ここはまた、英語を読んでいる話なのに英語でコメント書くようにしたほうがいいのか……誰に向いているんだろう。
第3部になってヴァズカーがどんどん面白キャラになっていく。なんだかこのへんのいきさつは、古代ローマ頃の魔術師伝、シモン・マグスや、ルキアノスの「ペレグリーノスの昇天」だったかそんな連想をふとする。イエス・キリストの行跡を過度に誇張したようなダークヒーローみたいだ。それは、あまり気にせずにおくとして、タニス・リー作品でも「剣の戦い」が見せ場になっているのがバースグレイブシリーズは最初にして貴重な。
Book 1 - Part III: The Crimson Palace まで。
ヴァズカーの魔術については、平たい地球シリーズのダタンジャの魔術も較べて参照。ダタンジャのささやかな魔術は、見せかけのちゃちな小道具を使うことで「不思議さを相殺する」というもの。ヴァズカーの奇跡は驚異すぎる。
が、とんでもなくスペクタクルで面白い。ヴァズカーの女性遍歴では、マルミラネットの姿態にほんとうは全然似ていないディミズダーの面影をふと浮かべるヴァズカーは痛ましい。
I remain beside the road, impervious, and with no companion.
という言い方には Companions on the Road (1975, アヴィリスの妖杯) のタイトルを連想させるが。
「あらすじ」のように手短に説明しがたい混沌の展開……無数の凄惨な死、生と死を超克して深い悲しみと孤独、の数行あとには独特の"ヴァズカー節"のブラックユーモアが戻ってきて、不謹慎で冒瀆的も甚だしいが妙に清々しい変な笑いが込み上げてしばらくクスクス笑いが止まらなくなる。この三部作はほんとにすごいが……ほんとに疲れる。今夜中にこの章まで読んでしまおう。
――Part IV: The Cloud / Book 1 終わり。
Hunting the White Witch (Book 2)
Book 2 - Part I: In The Wilderness 今夜ここまで。
SHADOWFIRE
WW
これが後の作品では「タマスターラー」と同じ意味だとはまえに書いた。それも邦訳しか読んでいないのでまた読もうかな。そこまで行ったらね。
Part II: White Mountain 今夜ここまで。
話の本筋とはべつに、この章中に世界が丸いことについて書いてある。Birthgraveの世界の形は第一作で既に見ている。リーの作品ではこの三部完結と入れ替わりに「平たい地球」シリーズ第一作が始まるのだが Flat Earth の世界(地球)が平たい理由はそのシリーズ内外、リー作品を通して読んでいると漠然とわかり、それより更に後のパラディスなんかを読むと『ああ、もう平たくないんだなあ』のような感想をもつことがある。Kainium でのここのくだりは今ここでは余談だが、アズュラーンの物語をなぜ書き始めたのか当時の気分がわかる気がする。
それにしても、「主人公の名前(呼び名)が旅の間に次々変わっていく」(一人称=I)という小説の趣向は、このシリーズは効果的で面白いんだけど、読者間で語るにはやりにくいな! これは英語でも日本語でもむずかしい。ヴァズカーはヴァズカーで通ると思うけど。
「ヴァズカー」にしても、最初は「その名で俺を呼んだら殺す」などと言っていた。
21歳にして70歳みたいな気分のような老成したことを言いながら、17歳少年に対して自分は小学生みたいな悪戯を考えて悦に入ってたり、基本的に性格が変わってなくて好き。
読メからブクログに作業場を移している間で、今回だけ場所をまたいでレビューを送っておく。
終章の2節末は第一作の結末の文章のリズムを必然的に思い出させる。She had never been...あたりから。
これはわたしは「日本語ならどう訳す」という一方の関心があったのでメモ。この三作読んでいてもたびたび感じたのは、リーは神憑り的にアドリブで書き進むような勢いを好んでみえる一方、自分の文章を後から丹念に読み返してずっと前の章の表現の片端を拾ってきたり端役のキャラクターを意外な場面で再度起用するのも大好きみたい。
The Winter Playersにいく。これは既読だしバースグレイブほど凄惨混沌でもないので多少早いと思う。電子だと「いつでも読める」気分で後回しにしまくる癖、というのはどうしてもあるようではあった。
そうか……昨年の経過を読み返すと、わたしはどうも、タニス・リー作品に疲れ果てたらダンセイニを読み返すと回復するという仕組みになっているみたいだった。そこはディネーセンや、アンジェラ・カーターに行くところではない。カーターはまだ積んでるので追々続ける。
富野由悠季とタニス・リーでは話が一見通じなくて、悩んでいたところだ。
ヴァズカー目線というのはこういうのを引いておこう。
Book 2の時点でヴァズカーは21歳と言っている。それで17歳の相手を眺めて、またThat should have been me. と思う。
目的意識と地獄
ファンタジー主人公がみな地獄の淵を歩かなくてもいい。目的意識がゆるくて意思が脆弱にはみえる。それはまた、このまえのワーグナーとドビュッシー(「ペレアスとメリザンド」)のときのような話を思い出す。ここらは、古典的な話題なんだ。
faith
The Winter Players
Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
タニス・リー魔術の特徴は実践的なことで、プラクティカル・マジックというとこれのことだ。小説作品は架空の創作なのになんで「実践」か? という話はわたしはしない。それには今後もそれを書く気ない。
「物や人の真の名前を知るとそのものを支配する」のような作動原理は、実践魔術に必ずしもいらなくてリー作品にはあまり出ては来ない印象。言葉に対して無関心なわけはないが、呪文や、儀式様式の無意味さについては結構手厳しい批判が入ることはある。伝統やしきたりにはとにかく逆らえ、破れ、というくらい反逆徒だけど、命名や呪文にしても全く使われないわけではない。Birthgraveはそうだし、このあとすぐVolkhavaarなんかにも出てくるはず…。
とにかく、タニス・リー作品には必ずこれが出てくることと、徹頭徹尾これが後年まで作者のテーマになっているのが「タニス姉貴はガチ」という理由でもある。
実践的だから、という実践的なことに欠点もなくはなくて、欠点はある。何より「実践すると死にます」という話をするんだから無意味に大勢にばら撒くには悪い物語群だ。言えば、「死んでもいい」目的があるときにはリーを読んでいれば捗る。それか死なないか、死んだら自力で生き返る人。
この世に、熱情的に生きられる人は成人のもしも10パーセントくらいだとしたら、「熱情を説き続けること」は残りの90パーセントにとっては望んでも決して報いえない、不毛さの害にもなりかねない。また、熱の人も何の目的や甲斐も得られない日々にこの種の教唆を聴き漁り続けると心を蝕まれる。処方箋としては、そのときにはダンセイニみたいな態度の方がいい、と上記。「信じるな」という語りの徳もファンタジーの方法としてある。本当を説き続けないからといって、嘘じゃない。
小説を読んで癒やしになるとか、力になるとか、そういう読み方を勧めているわけではない。「読書は娯楽だ」と思ってる人にとっても、娯楽として読めない鬱になることがある、のこと。とくに、古典的な共感呪術を基礎にしているものはその理論で効いているはず。その後、80年代末頃を境に創作の方法は変わったらしい。
The Spell had worked.
小説を書くにかぎらずあらゆる作業進捗報告で、この文、――「やっておきました」と書き込むと実際に行われる効果ある。今案外ゆったり読んでいる。オアイーヴ可愛いな。
ついでに、わたしは邦訳を対読はしていないけどあるものは隣でたまにチラ見でき、室住信子訳はなかなか気が利いてるし読むには日英どっちでもいい。
今のような言い方はプラクティカル・マジックよりか、プラグマティックというんだ。そんないかがわしく訳されてはいないよ。『呪文がきいたのだ』と書いてある。
オアイーヴは目をつぶって立ち尽くしているので、"呪文"は、唱えていないようにみえるかな……心の中で必死に気持ちを呟いているけど。魔法がきく過程は地の文で綴られている。だから合ってる。
She had succeeded, worked the magic without spells, by her will alone.
上でも書いているので続けて書いたりはしない。言いたいことはわかるはず。わたしのここのは「いま何章まで読んだ」の報告だけでいいと思ってるけど、作品自体それほど長くはないし、黙ってればすぐ読み終えてしまうかな。
参考:
作業場を読メからブクログに移った利点のひとつに、登録アイテムのタグ管理が細かくできて著者名による以外にもたとえば作中要素を抜いて「タニス・リー 吸血鬼」とか「タニス・リー 白雪姫」とかスペース区切りで属性分類ができる。作品数が多く、あの感じの例のあれはどれだっけ……という短編タイトルを思い出せないことがよくあるから、これは活用すべき。
このタグはユーザーの個人的な設定項目だから好きに振っていいが、使い途としてはカテゴリに含まれるアイテムが二件以上あって初めて役に立つ。あまりに一般的で多すぎると逆に役に立たない、表示欄が混雑するから「ドラゴン」より「龍」、収集内容を限るより広く採ったほうが用になるので「龍」より「竜」で始めたほうがよさそう、など想像できる。これらの要点はphelenのアーカイブ作成方針なんかのときにも注意書きしたのが使える。
FTを蒐めているところで「魔法」なんて分類を設けてもすぐに爆発しそうだな。「不死」なんて多いのか、実はそれほどでもないか……キャラクターでなく作品の要素でいうと「吸血鬼小説」には「不死テーマ」が必ず付随しているような気もするし、「文学は人間を不死にするもの」のように言い張ればあらゆるジャンルの作品が不死属性にもなる。
これはまた、これを使うユーザーごとの特殊な興味で、必要に応じてデータを作っていくべきこと。それも、できるだけタグの数は増やさず、重複内容は整理するよう念じながら、「分類作らないと困る、不便だ」との内圧が昂じてきたらそのときの合図だ、というのが同じ法則だろう。だから今は憶えておいて、面倒だからしない。「ドン・キホーテ」というジャンルだけは設けているな。
タニス・リーの吸血鬼って血を吸うとはかぎらない。『薔薇の血潮』って血吸ってたっけ…。吸血鬼短編のアンソロジーに収録されてるが、いつものリー作品なだけで作中とくに吸血行為にこだわってないようだ、とかね。
「曖昧なときはまず収集する」が原則。見過ごすと次に出遭う機会は何年後にもなるから、怪しいものは拾っておいて後で整理した方がよい。
また、収集基準の境界でいつもいつも悩むようなのは、分類の立て方を怪しむ。「吸血鬼」のような名前がもともと適切でないか、文化的にすでに意味を失っている等で、切り分けるか、あらたに命名し直す。こういうときにパワーワードも使う。ここまでは前回。
ずっと彼のことを考えてる。3時間か4時間しか寝ない。彼には気づかれていないと思っていたら、彼の方はとっくに察してる。相手は侮れないと思いつつ、どこかで侮っていたとわかってまた見直す……。の、ようなところな。なんの初期症状なんだ。会った瞬間に未知の未来をサイキックに予知したのかもしれないが、それ自体べつの言葉で一言でいえんか。
主人公オアイーヴを全面的に後押ししたくなる、というのはやはりジュブナイルには好ましいことだ。そこが心が壊れてると、『オアイーヴにもグレイにも共感しないがわたしはどうも、わたし自身ナイワスのような役だと思っている…』のような読み方になってしまう。
Companions on the Road
しばらく置いてまた他の一帯を読んだりしていた。今夜6章まで。この電子で「122ページ」計算中あと40くらいだから今夜読んでしまえばいいようなものだが。一晩にそんなに読んでもいないか。
これはまた、ジュブナイル作品以外では「リーのフェミニズム」の独特さがある点にも思われ、ヴァズカーのような男性的カリスマに対してハンター女子、というアイコンはまず把握していいと思う。
Companions on the roadという言い方はこのまえ、Birthgarave3の中で一度見ていた。それはだいぶ後になってもたしかある……ヴェヌスか、銀色の愛再びだったかな。
全然関係ないがしばらく前のボエティウスを連想していた。大学以来、このシチュエーションには必ず思い出すのかもしれない。
最近また、リーは放ったらかして別のあたりをうろうろしていたので此方は進んでいない。わたしは、リーとマキリップは併読が無理なのは上にも書いた。モルゴンやレーデルルより、マキリップが敵にみえる。
「女子向けのノベル」という欲求で書いていても、なんとか、どうにかして男の子の存在意義を設けようとしておかしなことになっているのと、行く所まで行くと「男はいらない」と割り切れてしまうフェミニズム観のちがい、みたいなものはあるよ。煮えきらないからといって、不徹底な態度がべつに作家の良し悪しじゃない。
章ごとに、書き出しはじわじわしているうちに言葉がどんどん押し寄せ、高潮して、章末でさあっと退くという感じはリーもマキリップも似ている。Birthgraveはやりすぎだ……。邦訳を読んでいる感じでは、こちらは韻文のリズムではなさそうかな。イルスの竪琴を読んだらあとはしばらく置いておく、それは今いい。
今、ル・グインの再読の部屋を立ててふと思い出したのは、ル・グインを読むときにたぶん90年代以降と思う、ゲド戦記の日本語読者は決まって河合隼雄を引く(影について)のがひどく煩わしく思っていた。その分析して悪いはずはない。
それが、80年代頃の解説にたとえば上の「冬物語」はゲド戦記を思わせるようにあって、それをまた後のレビュワーが「リーによるル・グインのアレンジ」のように書かれると、それはおかしい、となる。……なんなら、あからさまに行動主義者として『魔法の原理がなんであれ、それがブラックボックスであれ、ゲドはいかに行動したか。その結果物語はどう転がったか』のように文学観を説いても間違ってはいない。むしろリーの愛読者にはそのほうが気分は合ってると思う。ル・グインはル・グインのトピックで追々しよう。
ヴァンパイアリー
Volkhavaarのバルバヤートは作中で明確にvampireと呼ばれて血を吸うけど、一般的なイメージでいう「美形妖魔、夜の貴族、カリスマ…」というのには当たらない。逆に、吸血行為はしないでもヴァンパイア的属性をいうなら、ヴァンパイアリーとかヴァンパイアリズムと呼んだ方がいい。
もともとヴァンパイアというジャンルが百年以上は頽廃しているからだが、リーのようなそれに重い興味のある作家を扱うにおいてヴァンパイアタグを設けても全作品がなんらかそれに当たるだけで、用をなさない。
アズュラーンは血を吸わないが他のことはなんでもやるし、シルヴァーだって「ヴァンプ気質の不良ロボ」だろう。Shadowfire頃にヴァズカーのときは「カリスマ」を取り上げていたが、ヴァズカーもマインドコントロールだけでなく、女たらしだ。
シルヴァーのどこが不良品と作中で言われていたか、それは忘れたけど、セクサロイドが違法でない世界でも、そのお仕事をするキャラクターが一目みてそれとわかる、ポルノ的な下品で不潔な見た目なら、その用向きのお客は自分の趣味と責任において押すか引くか決めるだろう。
それが、育ちのいい純な少女を恋してたらすほど見境がなく魅力的であってはならない。80年代の時代もあって、たぶんシルヴァーには「R-18が付いてないこと」が「不良」と呼ばれるゆえんか。
リーはそれとしても他の作家や、小説にかぎらず民俗や神話研究を蒐めるときに何かの基準を設けないでは始まらない。
ヴァンパイアリズムでなく、吸血にかぎる、あるいは「血」のシンボリズムに着目するのはありかな。一文字で短いのはタグとしていい。これだと、バルバヤートは含む。
「血」を設けた、これで行けそうだ。phelenみたいなテンプレキャラクターの集団を扱うのに「吸血鬼」はむしろ悩まないで真っ先に決めたのを思うと、シチュエーションの違いで面白いな……。また、こうした情報操作は常に一様の基準ではなく、そのつど目的に応じて考え直す必要がある、それは「命名」を求める、というのもあらためて確かめる。
最近の記事にこんなのがある。
わたしには今、そんなに関係ない…。誰の紹介にかかわらず通読・縦断してみようというところだから。Electric ForestやSabella、70~80年代作品はやはり万遍なく挙がるなあ……なにも急ぐわけではないが、急がねば。
The Birthgraveに「SF要素もあるよ(笑)」みたいにある。『悪魔の薔薇』の解説(中村融)に、
というのもそれだったのかな? そんなに気にしなくても面白かったよ。お茶目。
これと同年頃のEast of Midnight(訳題:月と太陽の魔道師)のストーリーよりもタイトルが好きで憶えているけど、今回スルーしておこうかと思ったがあれもこれも連想で読みたくなってしかたないなあ……。East of Midnightは、平たい地球シリーズの余話にまたその再話みたいなのがあったな。
Volkhavaarも、もしも邦訳が復刊されるなら『幻魔の虜囚』は戻して『ヴォルクハヴァール』で出してほしい気がするんですけど……いま、訳文がきらいだとか、わたしはべつに浅羽莢子さんのアンチでもないけどこれはやはり原題がいいし、とくに当時のFTの出版事情の雰囲気でなければ、2020年代にカタカナで構わないし……。まあ、それはコレクター的な意味が半分。
この小説のタイトルにもしも仮に『シャイナ』では、ないだろう。ちょうど、先日の「イルスの竪琴」なら各編の1巻に「モルゴン篇」2巻は「レーデルル篇」とか散文的なタイトルを付けても意味は合ってる。読者がわたしみたいな不良だったら『ミスラン』とか『ギステスルウクルオーム』が唯一の興味になりかねないが、それはおかしい。
なんか……80年代以降くらいのFTの翻訳者は教育心理学者と関係があるか、それを模範にファンタジー論にしているという印象なのかな。それは偏見かもしれないが、このところそんなことをたびたび言っている。
『現実に容れられなくても、ファンタジーが迎えてくれる』みたいな癒やし観があるとして、それをみれば、わたしはそこからも閉め出されている、『地獄にしかいられない。地獄はどこか』のように責め立てられる気持ちになるが、それは作家のせいじゃない。わたしに向いてない。
Part 2 (5)の書き出し、このsoot云々は意味がよくわからないのだが。邦訳では『煙突の中にさえ煤は存在する。従って、ここで物語のろくろは一転して、……』とあり、邦訳でもやっぱり意味がわからん。煙突に煤があるのは当たり前だ。
この段落をquoteしてる読者がいて、even in the best chimneyになってる。今わたしの読んでる電子にはここまで、ピリオドが抜けてる箇所は二つくらいあったが、これはもしかすると底本の版のちがいかもしれない。
訳:「太陽が夜中に死ぬことがあればな」。これもわかるようで何だか意味が正直よくわからない。今夜、術を実行するので、身体を抜けた魂が旅して夜明けまでに帰ってこれればよし……という術の話、ではないようだよな。
何でもかんでも、する先から危ぶんでいれば、お日さまだっていつか夜中に死んじまって朝には昇ってこないこともあるかもしれないんだよ。あんたは毎晩そんな心配してやしないだろ。取り越し苦労さ。という感じか。これは前の章。
カーニック・ヴォルク
Kernik lived and rovedからその段落が一巡してKernik Volk was cunning and clever.まで、なにか言われないがあらかじめ暗示しているような循環したものがある。カーニック・ヴォルクは奸 智で謀略 、みたいなここは響きだ。
Volkhavaarという名前は前の章から、本人ではないがバルバヤートがすでにそう呼んでいる。カーニックの生い立ち語りになって、生母が死んだあと山腹の村に引き取られたとき、名前も付けられたが「すぐ忘れた」といい、そこでの四年間は本人の意識では「無名」状態で暮らしていたらしい。
文中でははじめからカーニックと記されているが、ここでは新たにヴォルクと名乗ることになる。そこで、名乗りの由来にその一帯の土地の名から取ったというが、Volkyan Plainなる地名は、いかにも作者がここまで筆任せに書いてきて今思いついたような唐突さで、順序はもともとVolkというキャラ名が先にあって後のここでアドリブで湧いた感じ。
この小説中ではコルキームなどの地名は折々出てくるけど、お話のなかでシャイナとヴォルクの行くところ以外、誰も見ていないところまで緻密な世界設定が広がっているようには思えない。
カーニックという名前についても、ヴォルキヤ平原からヴォルクと名乗った、と言い出すついでに、以前に黒い神からその名を取ったように……と添えて書き足す。前節では山の神と自分を同一視してるとはいっても名乗りのことはとくに書いていなかった。ここで、神の名TakernaとKernikが初めて結びつけられたが、執筆中にはカーニックの名前からあとでタッカーナと思いついて設けたような気分だろう。
物事の由来や語りの順序が始めと終わりが区別なく循環している感覚、上ではwheel(訳:ろくろ)と言っていたかもしれないが、音韻の暗示は必ずしも翻訳には出ていないとはいえ、再読なら読みながら少し気にするか、おとぎ話の不思議さ気分はなぜかと思っていてもいい。
浅羽莢子訳の訳者あとがきは、今読むとなかなか良いことを書いてある。わたしの今のは、お話の叙述の順序、語り方のことで、faithのようなことはべつに上に書いた。この中ではバースグレイブ〈白い魔女〉シリーズにも触れていてそれも、当時ここに書いてあったか、という気分。
わたしは別に浅羽先生を嫌っているわけではないし、もうちょっと言いたいこともある。本作はとくに呪文のところの迫力があるし……。最後のクライマックスがなぜそうなるのか等は、もしかすると今は読み方が違うかもね。
バースグレイブのことは、地名ならエシュコレクやエズランや、マリスマとかシーマ程度はメモっておいて漠然と南北関係くらいは把握していないと混乱するか……というか、くりかえし説明なくて後の方でフッと出てきたりするので、忘れる。深く気にしなくても世界地理は話にそんなに重要じゃない。
シンボルの連想・連環とか、土地や時代によって神の名前の伝わる訛りとか崩れ、似ているものは同一か、それらは継ぎ目なく一つの全体をなすような論理は、説明して「ああ、そういうことか」とわかればいいものではないので。解説を付けようにも難しいところだな。
イニシエーション体験みたいなものがあらかじめ読者にあるといいのか……というか、これはジュブナイルなので、これが初めてでもイニシエーションになれば、いいのか。ちょっと侮れない想像。「連想の環」は持っていたほうがいい。
バースグレイブが思いっきりフェミニズム作品なのは見れば強烈に伝わるけど、フェミニズムにしても色々ある、わたしはタニス・リーのそれは嫌いじゃないタイプ、とも言った。
作者が難しく考えて書いていそうには全然ない。この頃のリーの資料など少しみると大学ノートに手書きで気ままに書き流しているみたい。
少年カーニックの性格、ヒプノティックな支配力というのは伝統的な概念で、そこは新しいとか奇抜というわけじゃない。語り口のよさよね……。上で言ったような内容を短く「シェヘラザード的」というなら、それでもいい。
ジョージ・マクドナルド「かるいお姫さま」(1864) 脇明子訳より。ヴォルクハヴァールの途中で置いてまた方々に行っているところだが、ここのThe Spell had workedとかいうときにこういうのをわたしは思い出す、これは100年前、19世紀の。「ファンタジー」というジャンル名もまだないような頃だが、その書き方の伝統系譜などをわたしはもとより詳しくはない。起源を言うなど……。上のような文は、魔法を働かすのにあえて書かなくてもいい。でもそれを書く、という時代性がみえるだろう。
ヴォルクのこのあと、呪文のところでわたしは『カレワラ』を以前連想していた。というか、『カレワラ』を再読している折にリーのヴォルクあたりを連想していた、というか。カレワラは古典ということになっているが、その出版がされたのは1840年代頃だと思っていてもよい。
マクドナルドは英語ならグーテンベルグで読める。今むしろ脇明子さんの仕事を探して手元にある本を漁っていた。併読また増やすと詰むがマクドナルドくらいいいだろう。
同書にカップリングの「昼の少年と夜の少女」(1879)も読む。この物語のシチュエーションは連想するものを挙げればたくさん言えるけど……ともかく可愛らしいのと、ここはタニス・リーのトピックなのでリー作品の繋がりをいうと、『闇の城』がこれ。ただ、全然違う方向の萌え小説になっている。
純粋培養された男の子と女の子という話は、古代から牧歌小説ではあるけど、宗教的な含蓄をまじえて神秘主義者が好む……だけどあんまりそういう話をしないほうがいい、ということだ。この訳者解説にもいわれてる。可愛いのがいい。
いま『リリス』とか『ファンタステス』はそんなに読みたくない。読むとは思うけど、マクドナルドで単独トピを立てるほど熱心に話はすまい。
ただ、そう書けばいつもそうなる、わけではない。上にもあるようにそれからどんなお話が始まるの、という。
本当におとぎ話なら書かなくていいようなのにマクドナルドの場合わざわざそう書く、のようにもみえる。1860年代くらい。
Volkhavaarは個別トピックに移動。
トピック立ての方針についてはこのよう。リーと富野話題はたぶん作品単位で今後、分けたほうがいい。富野は気づくのが遅すぎた。ル・グインも、続ければ巨大化しそうには見えているところか。
Volkhavaar 読了。次は、The Storm Lordへ。
Wars of Vis、または、Novels of Visとも書かれているが、わたしは初読なのでどういうシリーズなのかは知らない。トピックは今このように立てる。