読書進捗/メモ。シュメール、アッカド、ウガリット、エジプト等。
前回、筑摩世界文学体系「古代オリエント集」から、シュメールの部まで。以下独立トピックで続ける。
宗教史から脱線中。筑摩世界文学体系「古代オリエント集」から、再読……まずシュメールのところまで目標。
いま通読するか、ちょっとわからないが、書いていないことには確実に途中で沈没するから。いま、「人間の創造」「農牧のはじまり」まで。手元でノートを新規につくる仕様をまず整備していた。今ここまで。
これは今、エリアーデ『世界宗教史』から分岐して並走中。
「古典」トピックから。取っかかりになるのは矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)からだったが、フレイザーやその他はあらかじめ別で入っている。
『古代オリエントの神々 文明の興亡と宗教の起源』(小林登志子 中公新書 2019) 2020年代現在に近い、新しいものを一つ入れるために上の新書をちらっと見たが、これは古代エジプトあたりまで、古代中近東各地を扱っている。
今わたしは「概説」が欲しいので、神々の無数にある名士録などは本来興味でない。百科的知識ならウィキペディアでもいいくらい。ともかく範囲がそうなので上の古代オリエント集とエリアーデを交互に読んでエジプトまで一応いったらこれを見てみる。1970年頃のほうを順序は先にしたほうが、逆だと新しい情報を古い情報で印象も上書きすると思うから。エリアーデには独自の古典的価値がある。
エリアーデのシュメールの章すぐに済んだ。筑摩古典に戻り、アッカド。「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」から。本文は長いので今は解説まで。 この章の訳者は、後藤光一郎・矢島文夫・杉勇。
『宗教学概論』の中で、
こうした季節的な儀礼はいずれも、象徴的なくりかえしに先立っておこなわれる。その若干の例を挙げよう。バビロニア人の場合、新年祭アキートゥ akitu(十二日間続く)の間に、マルドゥーク Marduk 寺院で創造詩篇『エヌマ・エリシュ』Enuma Elish を数回詠唱する。それは口誦呪術とそれに伴う儀礼によって、マルドゥークと海の怪物ティアマトとの闘い、すなわちかのはじめの時におこなわれ、最後に神が勝利を収めて、カオスに終止符をうつ闘いを再現する手段なのである。 (第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話/153 宇宙創成の年ごとのくりかえし)
とあったが、寺院でこれを朗誦するのが何の意味のある儀礼なのか、よくわからなかった。その解説はこちらの「エヌマ・エリシュ」解説に詳しい。
この導入部について、『このような代名詞からはじまり名詞、固有名詞へという順序は古代オリエントの修辞法』とある。シュメールのときには全然気づかなかったが、面白いのでこれも憶えておこう。
朗誦するわけでもなくて現代語の文章では仰々しくてくどいが、わざと、劇的な雰囲気を演出するのにはおもしろい。
ここでのこれは、必ずしも「面白いから」や「効果」のことではなく、当時の文がそういう定型になっているということだろう。口誦だからもあるが……追って読む。
第Ⅱ粘土板まで。
第Ⅲ粘土板まで。これ、じっくり読んでて、たしかにこのテキスト用の記号だらけの上に、原文の意を留めるためにあえてぎこちなく見えるほど、きっと逐語的な翻訳で、読むために流麗な文章とは言いかねるけど、この長いリピート部があえてタブレットにくり返し書いてあるものが、朗誦するときの感情というかリズムが、ふっと蘇るような、それも掴みかねるような不思議な感覚になる。
今は手元に書き込むことが多いので全体の話がわからなくなるが、つらっと読み流すとかえって何も感じないだろうとここまで読んでいればわかる。シュメール語の音韻的な質がわからないとこの気分的なものはだめか……。「神話のエピソードを知りたい」わけでは今、ない。
Ⅳ71から
ティアマトは(見なくても分るので) ふり向きもしないで(かれに)呪文を投げつけた。 彼女は原初の人間のように(?) 心にもないことを唇にのせ、(こういった。)
呪文(呪詛)について、「心にもないことを言う」との表現は魔術の話として目をひかれる。もっともシュメール語と翻訳の日本語の差がわからなくては、読者としてはひそかに思っているだけで口にできないことだが……。
英訳と対照すると「偽りを発した」という以外の修辞的な意味はないみたいだけど。根も葉もない言いがかりを飛ばす、はわたしの最近の読書や思案の中でもとくに興味のあるところ。
このあとの、「かれ」なのか「彼女」なのか異文があって定まらないなどは、当時にしてもすでに、原文の伝える物語の意味がよく分からなくなっているということだろう。
わたしは楔形文字のことは読めないが原文の音(のイメージ)を辿りたければオンラインで読める。ウィキペディアから頁下部のリンクにある。今これで十分ではないか?
第Ⅳ粘土板まで。
第Ⅴ粘土板まで。
第Ⅵ、Ⅶ粘土板まで。エヌマ・エリシュおわり。このあと『ギルガメシュ叙事詩』は、このまえその矢島訳電子版を購入したのでそちらを読む。イシュタルの冥界下りも併収。
やはり時間がかかったが、後でもう一度、通し読みしよう。今夜はここまで。
全章の通読一回おわり。エリアーデ『世界宗教史』は21-22まで今読んだ。
矢島文夫訳、このたびは上記の電子版。今、読み始め、第一の書板まで。
第三の書板まで。
この「はじめに」の中に、
いわば翻訳者はこの場合編集者でもあり、まあ多かれ少なかれそれらのばらばらな材料から首尾一貫したイメージを浮き上がらせるためには、かなり主体的な再構成をせざるをえない。
いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、
彼の研究上の特色、すなわちシュメール語を読む際にそれの文法の詳細な分析よりはむしろ自身の主観によって理解することが多いという点(これは文学作品を「なめらかに」読むために有効ではあるが)を鋭く批判して、多くの点でクレイマーの解釈とは異なる見解を提出した A. Falkenstein, (「イナンナの冥界下り」解説から)
わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。
第六の書板まで。
第十の書板まで。
ギルガメシュ叙事詩終わり。本書の解説の内容はこのたび、わたしは既に再三くり返しの内容になっているのでざっと読む。
叙事詩自体の感想といえば、このストーリーを現代に知らない人はいない……一般教養としては、大体知っているだろう。わたしはこれがどんな場面で朗誦なり、演じられたものかの想像をする。それといつも思うのは、古代には人口に膾炙したという物語が文明の興廃とともに一度は忘れ去られたということの、驚き。それも名を変え遠くは近世まで残存していたとも聞くが。二千年、三千年間の時間の経緯を想像してまた呆然とすることも。それはこの叙事詩について思うときたびたび。今夜これだけ。
「アトラ・ハシース物語」杉勇訳 から再開。今、読み始め、第一部第三欄まで。
第二部第七欄まで。ちょっと日を空いたが、それでなくても全然わからん。あとで通し一遍読み返そう。
第三部第四欄まで。
「アトラ・ハシース物語」おわり。今ここまで。訳で示されているこれだけの断片でも、内容を想像するだけならできるが……。
これがどんなときに語られるか、歌われるのか、何故書き記してあるのか等なかなか想像できない。学校の手習いかもしれない。内容は神話のようだがテキストはとくに神聖でもないのか、など。
『お前達の神々を崇拝するな、お前達の女神どもに祈るな』というのは何らかの解説を読まないとよく分からないが、当時の人間達の信仰が頽廃してでもいる意味なのかな。
アッカド時代でもシュメールの神々の時代から何百年も経ているだろうし、信仰や生活態度が堕落していることを当時としても咎めていたとしても不思議とは思わない。人間はいつの時代にも堕落しているかのようだ。
「エヌマ・エリシュ」のときもそうだが、創造主の神が自分の創造したものらを滅ぼすに当たっての理由が「増えすぎて騒々しい、ゆっくり眠れない」というのは、そのままの意味なのか、翻訳を介して何かのニュアンスを汲みとるべきところなのか、それもわたしには分からなくて思案する。神が生き物を滅ぼす気持ちとしては面白いと思う、それも最も古い型だとそういうものだというが、必ずしも原文が理解できてるわけではないので。
これも、叙事詩の最初の作者はこの時代の人ではなく、前時代から受け継がれてきた伝承を改作、文芸としているのだろうけど、「人間が多すぎて煩い」という気持ちや疫病事情を表現するのは、詩人が都市生活者だからか。
「イシュタルの冥界下り」矢島文夫訳。これはこの前の「ギルガメシュ叙事詩」のちくま文庫に併収で前回も読んでいる。今ここまで。
「バビロンの新年祭」まで。
この中の、「天地創造物語(エヌマ・エリシュ)を詠唱する」という部分が他で引用されていて意味がよくわからなかったが、式次第にそう書いてあるわけか。アキートゥ祭の場面がどんな光景なのかは、想像するだけだが、ティアマトとマルドクの闘いといってもその場では、血湧き肉躍る活劇のようではないな。その祭りは百年くらいは継続されたかもしれないが、テキストは当時千年前というわけではないか。
長い上に事務的、かつほとんど意味不明で手こずった。上のような想像をたくましくしないと退屈。「エヌマ・エリシュ」を除けばあとはそれほど長いものはなく、神話と知恵文学かな。
このイメージを得たければアンドレ・パロ「聖書の考古学」から「ニネヴェとバビロン」を参照、と書いてある。それ自体古い本だが……アンドレ・パロという人は「人類の美術」シリーズのシュメールとアッカドの部で名前をおぼえている。それは今でも利用しているが、今どこまで手を伸ばすべきなのか。
「アダパ物語」まで。
アダパは怨んだか
わたしの最近の考えの跡でこうした気分も記憶にあった。
「ネルガルとエレシュキガル」解説と冒頭のあたりまで。前の「アダパ物語」ではその解説がなくて想像したまでだったが、死(生命)の食べ物や飲み物を断れというのはこれだったのかな。日本の神話を連想するのは自然なことだが、世界中にある話だとも知っている。それは「若水」の話だったか。
「ネルガルとエレシュキガル」まで。黙っているといつまでも停まっているが、「断片的で読みづらい」と愚痴を呟くと短時間で進む。難しい、ではなく、モチベーションが続かない、というにすぎない。
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前回、筑摩世界文学体系「古代オリエント集」から、シュメールの部まで。以下独立トピックで続ける。
古代オリエント集(シュメール)
宗教史から脱線中。筑摩世界文学体系「古代オリエント集」から、再読……まずシュメールのところまで目標。
いま通読するか、ちょっとわからないが、書いていないことには確実に途中で沈没するから。いま、「人間の創造」「農牧のはじまり」まで。手元でノートを新規につくる仕様をまず整備していた。今ここまで。
これは今、エリアーデ『世界宗教史』から分岐して並走中。
「古典」トピックから。取っかかりになるのは矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)からだったが、フレイザーやその他はあらかじめ別で入っている。
『古代オリエントの神々 文明の興亡と宗教の起源』(小林登志子 中公新書 2019)
2020年代現在に近い、新しいものを一つ入れるために上の新書をちらっと見たが、これは古代エジプトあたりまで、古代中近東各地を扱っている。
今わたしは「概説」が欲しいので、神々の無数にある名士録などは本来興味でない。百科的知識ならウィキペディアでもいいくらい。ともかく範囲がそうなので上の古代オリエント集とエリアーデを交互に読んでエジプトまで一応いったらこれを見てみる。1970年頃のほうを順序は先にしたほうが、逆だと新しい情報を古い情報で印象も上書きすると思うから。エリアーデには独自の古典的価値がある。
古代オリエント集(アッカド)
エリアーデのシュメールの章すぐに済んだ。筑摩古典に戻り、アッカド。「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」から。本文は長いので今は解説まで。
この章の訳者は、後藤光一郎・矢島文夫・杉勇。
エヌマ・エリシュ
『宗教学概論』の中で、
とあったが、寺院でこれを朗誦するのが何の意味のある儀礼なのか、よくわからなかった。その解説はこちらの「エヌマ・エリシュ」解説に詳しい。
彼らが→神々が→ラハムとラハムが
この導入部について、『このような代名詞からはじまり名詞、固有名詞へという順序は古代オリエントの修辞法』とある。シュメールのときには全然気づかなかったが、面白いのでこれも憶えておこう。
朗誦するわけでもなくて現代語の文章では仰々しくてくどいが、わざと、劇的な雰囲気を演出するのにはおもしろい。
ここでのこれは、必ずしも「面白いから」や「効果」のことではなく、当時の文がそういう定型になっているということだろう。口誦だからもあるが……追って読む。
第Ⅱ粘土板まで。
第Ⅲ粘土板まで。これ、じっくり読んでて、たしかにこのテキスト用の記号だらけの上に、原文の意を留めるためにあえてぎこちなく見えるほど、きっと逐語的な翻訳で、読むために流麗な文章とは言いかねるけど、この長いリピート部があえてタブレットにくり返し書いてあるものが、朗誦するときの感情というかリズムが、ふっと蘇るような、それも掴みかねるような不思議な感覚になる。
今は手元に書き込むことが多いので全体の話がわからなくなるが、つらっと読み流すとかえって何も感じないだろうとここまで読んでいればわかる。シュメール語の音韻的な質がわからないとこの気分的なものはだめか……。「神話のエピソードを知りたい」わけでは今、ない。
Ⅳ71から
呪文(呪詛)について、「心にもないことを言う」との表現は魔術の話として目をひかれる。もっともシュメール語と翻訳の日本語の差がわからなくては、読者としてはひそかに思っているだけで口にできないことだが……。
英訳と対照すると「偽りを発した」という以外の修辞的な意味はないみたいだけど。根も葉もない言いがかりを飛ばす、はわたしの最近の読書や思案の中でもとくに興味のあるところ。
このあとの、「かれ」なのか「彼女」なのか異文があって定まらないなどは、当時にしてもすでに、原文の伝える物語の意味がよく分からなくなっているということだろう。
わたしは楔形文字のことは読めないが原文の音(のイメージ)を辿りたければオンラインで読める。ウィキペディアから頁下部のリンクにある。今これで十分ではないか?
第Ⅳ粘土板まで。
第Ⅴ粘土板まで。
第Ⅵ、Ⅶ粘土板まで。エヌマ・エリシュおわり。このあと『ギルガメシュ叙事詩』は、このまえその矢島訳電子版を購入したのでそちらを読む。イシュタルの冥界下りも併収。
やはり時間がかかったが、後でもう一度、通し読みしよう。今夜はここまで。
全章の通読一回おわり。エリアーデ『世界宗教史』は21-22まで今読んだ。
ギルガメシュ叙事詩
矢島文夫訳、このたびは上記の電子版。今、読み始め、第一の書板まで。
第三の書板まで。
主体と主観
この「はじめに」の中に、
いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、
わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。
第六の書板まで。
第十の書板まで。
ギルガメシュ叙事詩終わり。本書の解説の内容はこのたび、わたしは既に再三くり返しの内容になっているのでざっと読む。
叙事詩自体の感想といえば、このストーリーを現代に知らない人はいない……一般教養としては、大体知っているだろう。わたしはこれがどんな場面で朗誦なり、演じられたものかの想像をする。それといつも思うのは、古代には人口に膾炙したという物語が文明の興廃とともに一度は忘れ去られたということの、驚き。それも名を変え遠くは近世まで残存していたとも聞くが。二千年、三千年間の時間の経緯を想像してまた呆然とすることも。それはこの叙事詩について思うときたびたび。今夜これだけ。
古代オリエント集(アッカド)続き
「アトラ・ハシース物語」杉勇訳 から再開。今、読み始め、第一部第三欄まで。
第二部第七欄まで。ちょっと日を空いたが、それでなくても全然わからん。あとで通し一遍読み返そう。
第三部第四欄まで。
「アトラ・ハシース物語」おわり。今ここまで。訳で示されているこれだけの断片でも、内容を想像するだけならできるが……。
これがどんなときに語られるか、歌われるのか、何故書き記してあるのか等なかなか想像できない。学校の手習いかもしれない。内容は神話のようだがテキストはとくに神聖でもないのか、など。
『お前達の神々を崇拝するな、お前達の女神どもに祈るな』というのは何らかの解説を読まないとよく分からないが、当時の人間達の信仰が頽廃してでもいる意味なのかな。
アッカド時代でもシュメールの神々の時代から何百年も経ているだろうし、信仰や生活態度が堕落していることを当時としても咎めていたとしても不思議とは思わない。人間はいつの時代にも堕落しているかのようだ。
「エヌマ・エリシュ」のときもそうだが、創造主の神が自分の創造したものらを滅ぼすに当たっての理由が「増えすぎて騒々しい、ゆっくり眠れない」というのは、そのままの意味なのか、翻訳を介して何かのニュアンスを汲みとるべきところなのか、それもわたしには分からなくて思案する。神が生き物を滅ぼす気持ちとしては面白いと思う、それも最も古い型だとそういうものだというが、必ずしも原文が理解できてるわけではないので。
これも、叙事詩の最初の作者はこの時代の人ではなく、前時代から受け継がれてきた伝承を改作、文芸としているのだろうけど、「人間が多すぎて煩い」という気持ちや疫病事情を表現するのは、詩人が都市生活者だからか。
「イシュタルの冥界下り」矢島文夫訳。これはこの前の「ギルガメシュ叙事詩」のちくま文庫に併収で前回も読んでいる。今ここまで。
「バビロンの新年祭」まで。
この中の、「天地創造物語(エヌマ・エリシュ)を詠唱する」という部分が他で引用されていて意味がよくわからなかったが、式次第にそう書いてあるわけか。アキートゥ祭の場面がどんな光景なのかは、想像するだけだが、ティアマトとマルドクの闘いといってもその場では、血湧き肉躍る活劇のようではないな。その祭りは百年くらいは継続されたかもしれないが、テキストは当時千年前というわけではないか。
長い上に事務的、かつほとんど意味不明で手こずった。上のような想像をたくましくしないと退屈。「エヌマ・エリシュ」を除けばあとはそれほど長いものはなく、神話と知恵文学かな。
このイメージを得たければアンドレ・パロ「聖書の考古学」から「ニネヴェとバビロン」を参照、と書いてある。それ自体古い本だが……アンドレ・パロという人は「人類の美術」シリーズのシュメールとアッカドの部で名前をおぼえている。それは今でも利用しているが、今どこまで手を伸ばすべきなのか。
「アダパ物語」まで。
アダパは怨んだか
わたしの最近の考えの跡でこうした気分も記憶にあった。
「ネルガルとエレシュキガル」解説と冒頭のあたりまで。前の「アダパ物語」ではその解説がなくて想像したまでだったが、死(生命)の食べ物や飲み物を断れというのはこれだったのかな。日本の神話を連想するのは自然なことだが、世界中にある話だとも知っている。それは「若水」の話だったか。
「ネルガルとエレシュキガル」まで。黙っているといつまでも停まっているが、「断片的で読みづらい」と愚痴を呟くと短時間で進む。難しい、ではなく、モチベーションが続かない、というにすぎない。