短歌の作業ログ。SNSでざっと言ってみて経緯はここに保管すればよい。
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katka
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そうか、偵察ではなく哨戒行動だったな……。でも斥候 と音のひびきで詠んでしまったし、これはこれで置いとこう。
『かげろう』と歌に書いてイメージするカゲロウとは違う種類の昆虫なので、『くさかげろう』と六字消費しなければ正しく伝わらない。名前を言わなくて『虫』か……。そういうとき言葉遊び(頭韻、シャレ)にすればいい
電線の二羽のツバメはお互いに寄り添うわけでもないが、眼下の通りを並んで見下ろし、各々に時おり羽繕いしている。空は高いし、通りも広くてそこに戻ってきて留まるのはお互いに意識はしているわけだ。
発端ではその場に居ないつがいの燕が、待っていれば必ず帰ってくるのだろうと思うと忽然と現れるという叙述の仕方はリアルの文章ではなくて、並んでいるその二羽は心の目で見えているのかもしれんという、和歌の伝統だと思うけど、現代の輪では意識してやらないみたい。
とほ…ぎす…すぎ…とお…おと…とき…きく
この虚構性(人工性)をつくるのが幻想文学の方法になる。それをやらなくて、現代日本に和歌などをする必要はない。
これは遊戯だけ。ホトトギスは先日きいたがアオバズクは今年はまだ聞いていない。
あんまり良い出来でもない。古うぐいす。
古めじろ。野鳥との距離の近さは楽しいものですが、一方で当たり前になっている野生保護観念……あまり人馴れしすぎることも鳥や動物たちにとってよくないことではないか、心に兆し、それ以上接近しない、直視し続けまいと踏みとどまるのも、躊躇う一瞬のことです。
こちらの方がいい。古メジロの印象は一週間くらい保留してあったが上ののきっかけで簡潔に済んだので、一緒にしておく。
こう、二首一対で一人応答歌のようにつくるのがここしばらくトレンドのようで、そんなルールだったわけでもないが、とにかく二首つくるとその日は満足するらしい
というか、歌というのは必ずしも通常の文法や叙法で書かなくてもよい。それではなくて、『思わなくとも』という古文現代文が混じってるようなとりとめのなさのこと。
現代語で短歌……というか、和歌(やまとうた)を造ろうとすると、ことに漢語(漢字)とカタカナ語がネックになる。というか漢字は日本で1600年は使ってるのだが、そんな、「外来語を使うな」という話ではなくて、活用が少ない=「~す」(サ変)に限られるのが、韻を踏む(ライム)のが現在興味のわたしの中では邪魔になると思っていた。
これくらいなら、わたしは漢字使っていい。これだと、漢語を枕詞的に使うということだな……。韻文は和語部分に詰め込む。
カタカナ語は単純に、和語より字数を多く消費するから。活用がないのは同じだが、英語の読みをカタカナには幾らでも崩したり伸ばしたりできるものをあえて三十一文字でやろうと思わない。やろうと思ったことがないだけで……実際どんなものかな。
べつに「松の木」ではない。あえていえば遊歩道の桜だった。
くろ - ろく - むくろ
黒→白
韻よりも叙法による幻想性……に、なっているかな。「自分自身が見えている」という体験は非現実だ。