これまた、『ガーゼィの翼』とは直接関係のわかられにくい連想でべつの本を探す。わたしはこのガーゼィを眺めててふと、
- ログアウト冒険文庫
- 末弥純
の二要素だけで『ウィザードリィだ』と思い当たった。ウィズで今わたしの思い出すのはゲームやそのノベライズ群よりも『組曲ウィザードリィ』(羽田健太郎)、そのうち寺嶋民哉編曲の#5,6であり、寺嶋民哉作品でいちばんおもしろいアルバムがこのアニメ映画のサントラだから。この本は一日で読んだ。作品は今なにか関係があったかというと、「少年が空飛ぶ」くらい。
ブクログのユーザー本棚の整理タグに色々設定できるのだが、「空を飛ぶ」(飛翔)の要素は、ファンタジー小説ではどうしてもストーリーのクライマックスの見せ場になり、個人のそんなところなど誰も見ないとしてもタグ振ってるだけでネタバレに近くなる。積極的に活用すれば便利だが、しにくい。
「竜」(ドラゴン)など設けているけど、ファンタジー小説にドラゴンが出てくるのは物語上の重要度に無関係に当り前だ。むしろドラゴ・ブラーが何巻に出てくるかを識別してる。猫だと多すぎて収拾がつかない。
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心で飛ぶこと
上のアニメ映画(2000)に対して、原作破壊といえばその部分が目立ってわたしはやだなと思う一方、アニメとしてそんなに悪くも言いたくない、わたしはもともとCWニコルのファンでさえなく、劇伴音楽の趣味から来てるという。
原作小説(1983)には、そもそも「風の民」という設定がない。少年が超能力を現したり空を飛べるのは、生まれつき伝説の王族だとか、その遺伝子を受け継いでいるからではなく、少年に人には普通見えないものが見え、聴こえるから。それは何かのきっかけがあれば本当はきっと誰にもできる。現代人に埋もれた能力……心の力、魂で飛ぶ。
83年頃のファンタジー界にはこうした魔法観、現代文明が眠らせた力、心の力という考え方が浸透していたろうし、ニューウェーブなような流行とも合う。今隣で読んでるタニス・リーなんかはその代表ともいえ、不思議を現実にするのは信じて疑わない心、型にはまった呪文や儀式はいらない、という態度が強い。
富野由悠季だって時代の子だが、『リーンの翼』では迫水がもらった古い革靴はたまたまそこにあった品で、本当にその靴が翼の顕現に要るのか実のところ曖昧だ。本当は、「私は飛べる」と思いきれば誰でも飛べたのかもしれないが、「翼の靴なんかなくても飛べる」とまでは、行きそうで行かないようなところだった。
『ガーゼィの翼』には聖器として翼の靴はない。クリスがいればクリスの足に生える。クリスの絶体絶命のピンチで、その際必ずしもクリスの「信念」が生やしているわけでもなかったと思うが、それはこれから読み直してみよう。今日は上のアニメのサントラを聴く。