心で飛ぶこと
上のアニメ映画(2000)に対して、原作破壊といえばその部分が目立ってわたしはやだなと思う一方、アニメとしてそんなに悪くも言いたくない、わたしはもともとCWニコルのファンでさえなく、劇伴音楽の趣味から来てるという。
原作小説(1983)には、そもそも「風の民」という設定がない。少年が超能力を現したり空を飛べるのは、生まれつき伝説の王族だとか、その遺伝子を受け継いでいるからではなく、少年に人には普通見えないものが見え、聴こえるから。それは何かのきっかけがあれば本当はきっと誰にもできる。現代人に埋もれた能力……心の力、魂で飛ぶ。
83年頃のファンタジー界にはこうした魔法観、現代文明が眠らせた力、心の力という考え方が浸透していたろうし、ニューウェーブなような流行とも合う。今隣で読んでるタニス・リーなんかはその代表ともいえ、不思議を現実にするのは信じて疑わない心、型にはまった呪文や儀式はいらない、という態度が強い。
富野由悠季だって時代の子だが、『リーンの翼』では迫水がもらった古い革靴はたまたまそこにあった品で、本当にその靴が翼の顕現に要るのか実のところ曖昧だ。本当は、「私は飛べる」と思いきれば誰でも飛べたのかもしれないが、「翼の靴なんかなくても飛べる」とまでは、行きそうで行かないようなところだった。
『ガーゼィの翼』には聖器として翼の靴はない。クリスがいればクリスの足に生える。クリスの絶体絶命のピンチで、その際必ずしもクリスの「信念」が生やしているわけでもなかったと思うが、それはこれから読み直してみよう。今日は上のアニメのサントラを聴く。
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