富野由悠季が三枝成彰の「ヤマトタケル」(1989)に触発されたかは、わたしはわからないが、当時「知らない」と考えるのはあんまりだろう。富野監督の感想は不明として、客観的にみれば同じヤマトタケルを扱っても『ガーゼィの翼』は負けてるので、その想像するのは楽しい。
上では「民族」のところを強調しておいた。あらかじめこれを書くわたし自身、民族や日本人というテーマに深く傾倒するものでもない。ほかには、アベニールの作中の笛吹の気持ちみたいなものもわかる。その「ロジックが好き」というわけを、『ガーゼィ』のことは閉じておいて今もう少し触れたい。
三枝成彰やなかにし礼はアナクロニズムではなくて、1990年頃に70年前くらいのロマン的な熱さを現代音楽のアプローチで展開しつつ、現代日本の「新・古典」「ネオ・神話」のライブイベントにしていた。攻めた音楽だが、文字は現代の日本人に向けてわかりやすいメッセージを歌っている。
日本武尊のオペラでは近い頃に團伊玖磨の「建 TAKERU」(1997)もある。もくろみは似ているがテキストは平易とはいいがたい。
人々の心が呼ぶかぎり、ヤマトタケルは何度でも帰ってくる。民衆(われら、民族)は不滅だから英雄は不滅、英雄=民族のシンボル。「民族は永遠である」と説くか、その民族を永遠ならしめんとする(みんなで永遠にしていこう)のは民族主義運動のスローガン。その主張するところの論理。
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再来する巨像
たとえば∀だと、作品のキャッチを上のようにいうとき、では「ガンダムを呼ぶと人は癒やされる」とはいうのか、いわないのか、とこの前おもった。いま、人は癒やされる、人は呼ぶ、の癒やしについては先にして、「人はガンダムを呼ぶ」ガンダム伝説、英雄伝説の続き。
「ガンダムは人々の心の願い、呼びかけにより、時代の要請に応えて帰ってくる不滅の巨像」のように説けば、時を超えてなぜガンダムがよみがえるのかは、人類が永遠だからだ。過激派 だろう。それは現実ではないが、全ての人をガンダムファンにしようとする宣言に、今してもわるいことはない。わたしはそういう理屈には微笑ましくて、なごむ。人類が未来に永遠かは、これから永遠にすればいいこと。
「ガンダムがなければ人類は滅びる」のような主張を説けば今現在は
「同族たる人間を殺すことに長けたのが現代の人間」とするのがアーマゲドン人間観なら、「ガンダムを呼ぶものが人である」「ガンダムで癒やされるのが人間」と説くのはガンダミズム人間観としておく。
再生しない一般人/一度だけ復活する救世主
宗教学概論のつづきで手元で今夜開いている章からだが、ここはたまたま月と不死のシンボリズムについてと、月と加入儀礼の話なのだけど事例だけを又引してみる。
月からのことづけ(伝言)を帯びてウサギやトカゲが人間のもとに走る。
ここの文脈は、『この神話は、人間の死という具体的な事実と、加入儀礼、その両方を根拠づけるものである。月相は、復活信仰の好例を提供してくれる――』ということなのだが、それはキリスト教護教諭においてさえそうであるといい、
こういう恣意的な引用は本当はあまりよくない。ただ、道具としての言葉の使い方という富野通読の関心の続きで、ここは歴史観ではないが、たとえば不滅観または英雄観についてのシンボル操作も上のような民族英雄だけではないと言うために言っておく。このストーリーでは、民族の不滅性ではなく月の不死性と人の再生を関連づける。話によっては、月は再生するが人は再生しないという語りでもある。何度でもではなく一回だけと但しをつけることもある。