再生しない一般人/一度だけ復活する救世主
宗教学概論のつづきで手元で今夜開いている章からだが、ここはたまたま月と不死のシンボリズムについてと、月と加入儀礼の話なのだけど事例だけを又引してみる。
月からのことづけ(伝言)を帯びてウサギやトカゲが人間のもとに走る。
月は、そのことづけの中で、「私が死んで、よみがえるように、あなたも死んで、再び生を得るだろう」と確約しているのだが、その「伝言者」は、うっかりしてか、悪意からか、その正反対を伝え、人間は月とは違って、いったん死んだら、二度とよみがえらないだろうと断言するのである。この神話はアフリカには、ざらにあるが、フィジー島、オーストラリア、アイヌ人などにもみつけだされる。
ここの文脈は、『この神話は、人間の死という具体的な事実と、加入儀礼、その両方を根拠づけるものである。月相は、復活信仰の好例を提供してくれる――』ということなのだが、それはキリスト教護教諭においてさえそうであるといい、
アウグスチヌスはこう書いている。「月は毎月生れ、成長し、完成し、減じ、また新しくなる。このことは月において毎月起るのであるが、復活においては、一度かぎり起る」。
こういう恣意的な引用は本当はあまりよくない。ただ、道具としての言葉の使い方という富野通読の関心の続きで、ここは歴史観ではないが、たとえば不滅観または英雄観についてのシンボル操作も上のような民族英雄だけではないと言うために言っておく。このストーリーでは、民族の不滅性ではなく月の不死性と人の再生を関連づける。話によっては、月は再生するが人は再生しないという語りでもある。何度でもではなく一回だけと但しをつけることもある。
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