かとかの記憶

富野由悠季 周回 / 62

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2巻3章。人類のクソエゴイスティックな態度について。『これでなんの問題があろうか? ということなのだ』に続き、

 神が、自然というものを複雑につくったのは、無限の可能性を秘めたものとして創造されたからであろう。
 それを整理統合して、人類が存続するために利用することが、自然の摂理にのっとった行為だとしたら、神は、もともと人類などという種は、創造なさらなかっただろう。

このあとは、人類が現状生き延びるには反省しなければならない、科学で何でもできるから/何でもしていいという態度は通らない、という話が続くが、引用部の文章は何か変な気がする。

まず『神が――』という、著者の富野由悠季が"信仰者"のような態度を普段しているようではなくて、これは宇宙世紀シリーズを書くときにかぎり、(アメリカの)古典SF作家みたいなポーズをまとって語り口にするのような、言われないお約束があるのだから、そこは気にしなくていい。福井晴敏さんなんかは逆に気にしすぎに思う。

自然の複雑さ、後に流行った言葉だが多様性のようなものを神の意思とする。人間が自分都合で生物種を剪定してしまったり、好ましい環境に気候改造することが「整理統合」の意味なら、整理統合は神の御心とは思われない。ここはいい。

前の文がエゴ人類な態度から続いているので、自然の恣意的な整理統合がもしも、摂理にもとった行為だとしたら、神は人類を創造なさらなかったろう……とも言いたくなる。「のっとった」のところ……。何が問題だ? 現に神がお許しのことは良いことだ、との開き直りの常套。でも後続文から推して文意はそうではないようだ。

むしろ、人類が存続上必然的に自然を整理統合するものなら、神は人類を創造なさるべきではなかっただろう、という方が主旨に近く思う。それは痛切な自認だが反面、それはそれでまた不遜な言い方だ。全体として、言いたいことは読者はふわっと読み流すと思うけど、ここも前後かなり長い富野文の激越な調子でとうとうと書いている途中でロレッた感じがする。

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  • 63

    「宇宙世紀の神観」という話は、今かんがえるとあまりオフィシャルに聞かされたことはない気がするけど、これはそうだろ? その話だったかもしれない。メモっておいていいことだ。

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    「でも……そうなら、人の存在そのものを否定しなければならないんだから……それは、自然という存在にとっても、無残なことですよ」
     ウッソは、ひどく寒々とした気持ちになって、そういっていた。

    この気持ちでよかった。ウッソの気持ちがわかる程度には、わたしはわたしでよかった。