ゴドーを待ちながら
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952)を読む。安堂信也・高橋康也訳(2009新装版)。『アベニールをさがして』この後の章にその話が出てくるから、そのついで。今夜、第一幕まで。訳注に構わなければこんなのすぐ済む。
通報 ...
投稿するにはメンバーである必要があります。
『ゴドーを待ちながら』第二幕、おわり。これは手元にしておいても良い本だ。わたしはこの頃の演劇がそんなに得意分野ではないけど、これをどうやって上演するのかが非常に面白いやつ。今は富野通読の話が主……。
富野作品と不条理劇のようなことは、直接にはあまりないだろう。富野アニメにしても小説にしても、作品自体は不条理な作品はめざしてなく、右肩上がりに上昇していってカタルシスという考え方だと思う。劇中、点々と意味不通な台詞の応答や、何も起こらない、のような要素は感じられてもそれに専念してそれをしようとしているとは思わない。
このたびの通読では前回Vガンダム中のウッソに、強い目的意識をもつことへの疑い、のような台詞が、ちらっと混じった。『Vガンダム』全体がその話になっているかは、べつだが、その順序は憶えておくといいと思う。それはないわ、じゃなくて、ある。
エンジェル・ハィロゥのようなエリアでは、心に思うことが率直に現実に起こる。人の思うことは他人の思いに溶け込んでくるし、全面的にファンタジー世界に突入している。その場では、「何ができるか」より「何を望むか」ではなかったか、もしも意思の強さが問題なら、人類を抹殺する意思が強ければ意図としていいのか、のように反省させられると、そこはむしろ幻想文学がもっぱらにする領域になる。「語り」の興味では、寓意や目的を志向しない・語らないとか、何かをしようと言いながら何も始まらないとか、信じてはいけないと語る、物語の方法もある。
このあと『アベニールをさがして』では、読むのはこれからだが、ここではベケットの古典的な価値とか、不条理劇の面白さの説明などはまた、全くないと思う。読者は知ってる前提だ。そこは日向オノレ君がアケモちゃんの気を引きたい一心で懸命に喋っているところ。たぶんこんな感じ、
「実のところ今だってさ、正確にいえば僕たちが必要なんじゃない。テンダーギアは優しいマシンだし、他の人間にだってこの任務はやってのけるに違いないよ。僕たちより上手くできるかどうかは、別としてさ。インスパイアー・エンジンや、アラフマーンのスペシャリストがいるわけじゃないんだ。ベストン・クーリガの呼びかけは日本人、むしろ人類全体に向けられたものだった。ただし、今現在この場では、この場でアラフマーンにもっとも近い位置にいるのは僕たちだ。これは僕らが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだろ?」
「ごめん、聞いてなかった」
「確かにね。事の賛否を互いに一々検討して考えぬくことも、人間の条件だ。笛吹中尉はサージェイのダイサンカのビジターであるからには、わが身に少しの反省もなく任務に邁進できる。フール・ケアさんはすぐにアウトサイダーを言って、ただちに逃げ出す。でも、問題はそこにはない。「僕らが」「現在」「ここで」何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ。だがさいわいなことに、僕らはそれを知っている。そうだ、この広大な混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、僕らはアベニールをさがしているということだ」
「そりゃそうね」
みたいに、めちゃくちゃ語りたくなるのだがだからといってオノレとアケモちゃんが手に手をとって宇宙に飛び出していくかというと、発進しない。オノレは、ネットゲームでやっているシェイクスピア時代の英語が好きのように書いてあったけど、シェイクスピアを熱読しているかは、わからない。高校生に演劇史や文学史が語れるわけはないだろ。わたしは面白いので、やろうかな。今度は英語を直にと、折角するなら福田恆存作品の延長でつづきだ。
Toward Star
そういえば先日、『アベニール』の想像上のサントラとしてはどうかで、Vガンダム続きイメージで千住明でもどうか、同時期の『沈黙の艦隊』なんか聴くと案外いけそう、という話をしていた。
そのときに大谷幸といっていたのは『アウトロースター』のことで、アウトロースターのOSTも昨日少し聴き直してみたけど、わたしはどうも……今そういう気分でもなかった。伊東岳彦のトワードスター世界もったいなすぎるので、わたしも今でも多少の未練はある。
その繋がりだとゴドーを待ちながらというと、『宇宙英雄物語』の連想の方があるけど、挿絵だけをネタに富野小説であえて語ることはとくにない。インティパ世界ってエーテル宇宙じゃん、でもバイストン・ウェルとの関連や連続を語った方がこちらは強いし。