オーバーマン キングゲイナー (2002)について。関連書籍等。
『キングゲイナー』についてはわたしは「そんなに好きでもない」と思っていて、今は富野小説の文章の興味でもあったし消極的に避けていたけど結局ぼつぼつとメモが増えてきそうなのでトピックを分けておく。
今、「イントロダクション」を閲覧しているのは『∀ガンダム』『リーンの翼』を振り返っている今その間の経緯、最初どういう気持ちや構想から発したのかのような印象がほしい。本作アニメについての富野発言等は当時の雑誌や、現在はきっとBDのライナーetc.にテキストは爆散してる。書籍は他にもあるがわたしは網羅しない。このイントロダクションは企画の発端や初期構想について。
シンシア・レーンは一貫して好きなのとサウンドトラックより「デビルズ・アイシング」が今頃は単独の音楽楽曲としても好きなのでその詞について考えたりはしていた。
月は凍りつき 太陽はなく 冷気門を開き 存在を撃つ ヤェーエェーヤァー(それは事実か)
「人の心がわかるマシンはいいな。そのくせ、暇なときに話し相手にはならないのは物足りないけど」 「言葉で語り足りるなら、存在本来の意味もないからだろう」 「なるほど。戦うマシンが『戦わなくていいや』ってなるんじゃ本末転倒なのか。それは言えてる」 「マシンを使いこなしたものはいない」
氷もって築(つ)く息吹の主は 知恵と記憶それに 命そのものを
アァーエーヤァ(それは事実だった)
「言葉がマシンとして作動するとき、過去は事実となり知恵はただ記憶の内なる葛藤となる」 「フーム。毎日つらそうな話ばかり聞かされてつらいというあれか。泣いていいところ?」 「泣くことが慰めになるなら」 「過去の記憶って、心の傷ってこと? あたしにはそんな重い過去なんてないよ。ゲームで最強の自信はある」 「全てはゲームだと思う者もいる」 「そこまでお馬鹿でもないかな……。そうか、馬鹿だと思われたのは傷つくな」 無意味なほどに軽い涙は頬を落ちて、膝に届くまでに凍り粒となる。それだけの感傷が、 ……命そのものを 氷の結晶にすべて埋め込み 存在そのものを消すのだという 人の為したこと 汚濁であるから
「そんな理由で世界も滅ぼすのか。世界を滅ぼすってどういう気持ちなんだ? 動画見れる?」 「自ら望んでしたことではなくても、結果としてそれに加担してしまうことはある。やってしまったことは酷すぎるので、そんなものを見てはいけません! そういう言い方がある。デビルを信じてはいけない」 「そっかー。デビルもつらいんだ?」 「やはり馬鹿か……」
ヤォーヤォーヤァー(それは事実とする) ヤォーアアー(悲しいが) アアーオオー(悲しめよ) 人よ
長い引用だな。このときは富野監督の文芸にみえる「蓋然的な言い方」やマジックについてと、テレパシーと他者を説得することのコミュニケーションのことをル・グイン等見比べながら追っていた続き。これは二次創作。
オーバーデビルというメカ(キャラクター)を好みとか、面白いと思っている富野ファンは現代にも、まず未来にもいまいと思うからそういうキャラの語りはわたしが独り占めにする。デビルを語らずにシンシアを語ろうというのは、ちょっとね。
「イントロダクション」より この基礎知識のところにミイヤ等のエクソダス主義者のことを「リターニスト」と書いてあるがわたしはその言葉は初めて見たかな。面白い響き。
ミイヤの祭り 冬至の日に行われる、豊作への感謝祭。豊穣の大地へとエクソダスした最初の故郷主義者(リターニスト)であるミイヤにちなんでミイヤ祭りと呼ばれるようになった。
その主義(故郷主義)としては「リターニズム」というのか。
昔のゲーム、ファイナルファンタジーⅥにリターナーというレジスタンス組織が出てくるのをふと連想したけどあれはどういう意味でリターンだったのか今だに知らない。「やり返す、抵抗」のつもりを表したかったのか。
リターニズムも現代の用語としてある分野で使うことがあるようだが、ここは作中語。シオニズムのような連想なら、ヤーパンを目指そうという意味なら「ヤポニズム」になったりはしないか?
エクソダス運動の目的地は、ヤーパン以外もたとえばインダスだったりする。後続作でなら、レコンギスタ運動とでは言葉の意味合いはどう違うんだ。
雑にネット検索したら古い記事でも「リターニズム」(故郷主義)の語はストーリーあらすじとしていくつも見つかった。わたしは見ていても憶えていなかったよう。
ミイヤの祭りについて、冬至の祭りと豊穣儀礼という話題なら近代の宗教研究の分野から膨大な言及が得られるだろう。しない。
ドームポリスの住民に大地の恵みに思いを寄せる心性があるとは思えない。ドーム住まいのピープルと化した現代人と、イベントとしてまるで古来土俗かのような謳い文句の祭のちぐはぐさは作中のこの「イズム」には折込みだろう。ゲインのシニカルな目線が向いていそうなところ。
「ミイヤの祭り」の歌詞の中で面白いのは
鑿と金床 持ってさえいりゃ もっと遠くへ エクソダス
突然、なんで鑿と金床? のように不思議ではある。中世文化史のような何かイメージがあるのか……。文意では、「もっと遠く」だから手ぶらで出発するより鍛冶道具があるか、鍛冶師がいればもっと本格的な路上生活ができるわ、という意味だな。
そういうのはたとえばラスタファリアンとかいうんじゃないかな。
ミイヤ運動にはそれに付随して麻薬のようなイメージはない。ヤーパンのエクソダスは規律には厳しい。エクソダスが失敗し、路上で立往生となると悲惨な結果になることは知られていて、計画の決行にはリアリストの請負人がつく。
「路上の人」といえばわたしはいささか別の連想もする。それは中世文化史、というほう。
鑿と金床でする作業ってなんだ……? 蹄鉄打ち、とまず思い浮かんだがシルエットマシンのイメージじゃない。それも古い時代の、その世界なら馬でもなく毛長牛のためのそれかもしれない。
ロングインタビュー、三節め、情報化とともに賢くなったかのところまで。こないだのデビルズの詞などにはやはりそういう気持ちも、またこの夏に∀を見返しなどしていても感じられた。それは確認まで、今ここまで。
お祭りについては上の通り。ロングインタビュー後半の作品の実務に入っていく内容はまた興味ある……中村さんと西村さんの仕事場のような内幕は今読んでも興味津々ものだが、実のところその後も現在までに色々な折に漏れ聞いているエピソードでもあり、今は他でも読める。
シベリア取材メモは六日間の駆け足でもあり、「富野監督の目線だからセクシュアリティに着目するだろう」のような深読みするには、エッセイでもないのであくまでメモ。
「オーバーテクノロジーとしてのシルエット・エンジン」は今頃に読むには本当にオタ的な色つきで読む読み物にしてしまうだろうけど、最後に書き足してあるメモ書き
〈追加〉フライング・リングが物を切断して消失させる機能の説明。気の問題も書き落とし。
「気の問題」とはなにか? 『リーンの翼』を読んでいるので「気」というと簡単に見過ごせない。そこの剣術のような気の概念がオーバーマン(ゲイナー君)にあったか? それとも「元気」ともいえばGレコにも通じただろうか。不明。
オーラバトラー的な物語の展開もたぶん想定していたが、アニメではそんな期待通りにしたとはかぎらない。大河内氏でなく富野監督が御自分の欲求に任せて小説版を書いたならいつも通りその話も書いたかもしれない。あるいは、アニメもその目つきで見ればそう見えるかもしれない。ゲイナー君が八方眼を会得していないはずがない。
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『キングゲイナー』についてはわたしは「そんなに好きでもない」と思っていて、今は富野小説の文章の興味でもあったし消極的に避けていたけど結局ぼつぼつとメモが増えてきそうなのでトピックを分けておく。
今、「イントロダクション」を閲覧しているのは『∀ガンダム』『リーンの翼』を振り返っている今その間の経緯、最初どういう気持ちや構想から発したのかのような印象がほしい。本作アニメについての富野発言等は当時の雑誌や、現在はきっとBDのライナーetc.にテキストは爆散してる。書籍は他にもあるがわたしは網羅しない。このイントロダクションは企画の発端や初期構想について。
シンシア・レーンは一貫して好きなのとサウンドトラックより「デビルズ・アイシング」が今頃は単独の音楽楽曲としても好きなのでその詞について考えたりはしていた。
氷雪の歌
月は凍りつき 太陽はなく
冷気門を開き 存在を撃つ
ヤェーエェーヤァー(それは事実か)
「人の心がわかるマシンはいいな。そのくせ、暇なときに話し相手にはならないのは物足りないけど」
「言葉で語り足りるなら、存在本来の意味もないからだろう」
「なるほど。戦うマシンが『戦わなくていいや』ってなるんじゃ本末転倒なのか。それは言えてる」
「マシンを使いこなしたものはいない」
氷もって築 く息吹の主は
知恵と記憶それに 命そのものを
アァーエーヤァ(それは事実だった)
「言葉がマシンとして作動するとき、過去は事実となり知恵はただ記憶の内なる葛藤となる」
「フーム。毎日つらそうな話ばかり聞かされてつらいというあれか。泣いていいところ?」
「泣くことが慰めになるなら」
「過去の記憶って、心の傷ってこと? あたしにはそんな重い過去なんてないよ。ゲームで最強の自信はある」
「全てはゲームだと思う者もいる」
「そこまでお馬鹿でもないかな……。そうか、馬鹿だと思われたのは傷つくな」
無意味なほどに軽い涙は頬を落ちて、膝に届くまでに凍り粒となる。それだけの感傷が、
……命そのものを
氷の結晶にすべて埋め込み
存在そのものを消すのだという
人の為したこと 汚濁であるから
「そんな理由で世界も滅ぼすのか。世界を滅ぼすってどういう気持ちなんだ? 動画見れる?」
「自ら望んでしたことではなくても、結果としてそれに加担してしまうことはある。やってしまったことは酷すぎるので、そんなものを見てはいけません! そういう言い方がある。デビルを信じてはいけない」
「そっかー。デビルもつらいんだ?」
「やはり馬鹿か……」
ヤォーヤォーヤァー(それは事実とする)
ヤォーアアー(悲しいが)
アアーオオー(悲しめよ) 人よ
長い引用だな。このときは富野監督の文芸にみえる「蓋然的な言い方」やマジックについてと、テレパシーと他者を説得することのコミュニケーションのことをル・グイン等見比べながら追っていた続き。これは二次創作。
オーバーデビルというメカ(キャラクター)を好みとか、面白いと思っている富野ファンは現代にも、まず未来にもいまいと思うからそういうキャラの語りはわたしが独り占めにする。デビルを語らずにシンシアを語ろうというのは、ちょっとね。
リターニズム
「イントロダクション」より
この基礎知識のところにミイヤ等のエクソダス主義者のことを「リターニスト」と書いてあるがわたしはその言葉は初めて見たかな。面白い響き。
その主義(故郷主義)としては「リターニズム」というのか。
昔のゲーム、ファイナルファンタジーⅥにリターナーというレジスタンス組織が出てくるのをふと連想したけどあれはどういう意味でリターンだったのか今だに知らない。「やり返す、抵抗」のつもりを表したかったのか。
リターニズムも現代の用語としてある分野で使うことがあるようだが、ここは作中語。シオニズムのような連想なら、ヤーパンを目指そうという意味なら「ヤポニズム」になったりはしないか?
エクソダス運動の目的地は、ヤーパン以外もたとえばインダスだったりする。後続作でなら、レコンギスタ運動とでは言葉の意味合いはどう違うんだ。
雑にネット検索したら古い記事でも「リターニズム」(故郷主義)の語はストーリーあらすじとしていくつも見つかった。わたしは見ていても憶えていなかったよう。
ミイヤの祭りについて、冬至の祭りと豊穣儀礼という話題なら近代の宗教研究の分野から膨大な言及が得られるだろう。しない。
ドームポリスの住民に大地の恵みに思いを寄せる心性があるとは思えない。ドーム住まいのピープルと化した現代人と、イベントとしてまるで古来土俗かのような謳い文句の祭のちぐはぐさは作中のこの「イズム」には折込みだろう。ゲインのシニカルな目線が向いていそうなところ。
鑿と金床
「ミイヤの祭り」の歌詞の中で面白いのは
突然、なんで鑿と金床? のように不思議ではある。中世文化史のような何かイメージがあるのか……。文意では、「もっと遠く」だから手ぶらで出発するより鍛冶道具があるか、鍛冶師がいればもっと本格的な路上生活ができるわ、という意味だな。
そういうのはたとえばラスタファリアンとかいうんじゃないかな。
ミイヤ運動にはそれに付随して麻薬のようなイメージはない。ヤーパンのエクソダスは規律には厳しい。エクソダスが失敗し、路上で立往生となると悲惨な結果になることは知られていて、計画の決行にはリアリストの請負人がつく。
「路上の人」といえばわたしはいささか別の連想もする。それは中世文化史、というほう。
鑿と金床でする作業ってなんだ……? 蹄鉄打ち、とまず思い浮かんだがシルエットマシンのイメージじゃない。それも古い時代の、その世界なら馬でもなく毛長牛のためのそれかもしれない。
ロングインタビュー、三節め、情報化とともに賢くなったかのところまで。こないだのデビルズの詞などにはやはりそういう気持ちも、またこの夏に∀を見返しなどしていても感じられた。それは確認まで、今ここまで。
お祭りについては上の通り。ロングインタビュー後半の作品の実務に入っていく内容はまた興味ある……中村さんと西村さんの仕事場のような内幕は今読んでも興味津々ものだが、実のところその後も現在までに色々な折に漏れ聞いているエピソードでもあり、今は他でも読める。
シベリア取材メモは六日間の駆け足でもあり、「富野監督の目線だからセクシュアリティに着目するだろう」のような深読みするには、エッセイでもないのであくまでメモ。
気の問題
「オーバーテクノロジーとしてのシルエット・エンジン」は今頃に読むには本当にオタ的な色つきで読む読み物にしてしまうだろうけど、最後に書き足してあるメモ書き
「気の問題」とはなにか? 『リーンの翼』を読んでいるので「気」というと簡単に見過ごせない。そこの剣術のような気の概念がオーバーマン(ゲイナー君)にあったか? それとも「元気」ともいえばGレコにも通じただろうか。不明。
オーラバトラー的な物語の展開もたぶん想定していたが、アニメではそんな期待通りにしたとはかぎらない。大河内氏でなく富野監督が御自分の欲求に任せて小説版を書いたならいつも通りその話も書いたかもしれない。あるいは、アニメもその目つきで見ればそう見えるかもしれない。ゲイナー君が八方眼を会得していないはずがない。