英国人のファンタジー作家について「ダンセイニの影響がみられる」といってもそれは当り前レベルで何も言っていないのに等しいので、「多作家で普段そうは言っていないのに、ここは珍しく明示的に言及しているように見受ける。その目で見返せばそこここに暗示らしきものがある」……のような言い方したい。その言い方は、ハイコスト。
それも、本当あるのかないのか、はっきり言い切れないことで、チャンスかフェイトか、のような簡単に決着つかない論議を持ち上げるのがいい。
「チャンスかフェイトか」というのは初期のペガーナ作品の冒頭のスローガンだけど、今だったらもっと後年、1930年代か40年代の話を主にしたいよね。後期のは、中野先生とかの訳で比較的最近になって日本では流布するようになってきた経緯だと思うから、日本語で言えたら、まだ新しい話のはずだ。
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今日、『神林長平トリビュート』を読み返そうと思い、その序文まで読んでいた。「自問自答が小説になっている」とのところ。
書き手に何らかの自問、迷い、葛藤がなければ小説にならないはずだ。それはスペキュレイティブ・フィクションにかぎらず、たとえば……主人公よりも物語上悪いやつの方が言ってることは正しいのかもしれん、戦いに負けて死ぬ方が相応しい話なのかもしれない(でも生きたい)とか、……この恋は禁忌で結ばれることはない、求めてはいけないのだろう、その先は破滅しかない(でも好き)とか。そういう動機のことをチャンスと呼ぶとしたら、リーはそういう解釈は好きそうだ。
結末は最後までわからない。決着ついたと思っても、終章の末文まで、最後にひるがえるかもしれない。ダンセイニについてリー作品の印象から言ったのは、前回はリフレーミング手法について。