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野阿梓作品のルビ編集
もうひとつ特殊な感想があって、本作は文中に猛烈にルビが多い。1ページ中に3箇所は必ずルビが振ってあるので、目で読まずに声に出して音読してはまず意味・意図が伝わらないだろうなと思えるほどだ。
その趣味の良し悪しは置いとく。いやなら作家を読まなければいい。昨年まで、古川日出男でもそうだったが、これらは90年代から一過性の文芸の流行りで、それが現代の読者に「かっこいい」と思えるかどうかは、どうだっていいこと。
それとはまたべつの煩いがある。意味上、特殊な読みを求めるルビ、銃の名前を軽機 と書くような、ルビがなければ絶対に読めないものは、意味上必要だろう。黄昏 と黄昏 のような場合、どちらも文中で使われ、その箇所の文脈からもどちらとも読めるが著者の意図するところ(音の響きの感じ等)はこう読んでほしいとしてルビが振ってあるところも、要る。「黄昏れる」と書いてあればルビがなくても読者はまず確定して読める。
一般書のコードとして、訓みが常用水準ではないから同社の出版物には一律で振られているレベルのルビというのは、この種の著者にはいらない。「頽 れる」のような読み仮名はもはや目に煩わしい。野阿梓作品の場合には「凝視める」「凝っと」などは常に使われるので、ハヤカワ文庫ではそのルビも振られてない。
ユーザーがすること
読者の文芸慣れ、著者慣れのレベルについては、電子書籍版では最低の水準であらかじめ全読者対象、ビギナー向けとして、その筋のファンには無用なルビもたくさん盛りつけてあるだろう。鬱陶しいのはそれになる。
こうなると、電子化としても市販の電子版を求めるより、紙書籍から自炊して個々の読者に応じたレベルまで剪定することが必要になるのだろうがその作業はとてもたいへんだ。しかもそんな利用はあまり大きな声で言われない。
電子書籍に内蔵の機能として低水準のルビはオン・オフできるようにして売るか、あらかじめルビの表示は必要最低限にしてあっても、電子リーダーではもしも読者が漢字の訓み・意味がわからなければその単語選択すれば辞書が起動するからまず要らないよ。ということが、現代の出版物にはまだまだ認知されていないと思う。その現状で、読者がどういう態度をするかは他人に言ってもな。
そういう編集、読者がページにメモ書き込みや、付箋を貼ったりもしないでくださいというなら、元からそんなややこしい文章の書き方をしなきゃいいんだ。このルビ多用については、それほど印象的や美的な効果があるともわたしは思ってない。「作家の特徴」ではあるから出版社や編集が勝手に廃してはだめだ。
欄外情報のトレンド
文学伝統(古典)や、軍事や宗教等々についてあらかじめコンテキストの諒解や、それなりに知識のあることを求めなくても、現代の読者は、もしも文意が噛みこなせなければその場でネット検索して言葉の最低限の意味だけは拾ってこれるのだし、なにも文中にびっしりと注釈めいたものを書き込んでいなくてもいい。
ルビや割注、文中の余談に情報を埋め込んでも、その注釈の質が高いわけでは必ずしもない。漫画の欄外に注記やコメントを埋め尽くすような一時期のトレンドも連想させる。そのコメントが簡潔で適切かどうかも頭悩ませた上で「当時の気分」を喚び起こさなければならないだろう。
文章が簡潔でないこと――紙上にたくさんの文字を列べることに視覚的な「映像効果」を求めたようなもの――も、読者のほうが普段コンピュータも使っていてその処理に長けてくる二十年後くらいにはほとんど効果がなくなると思う。一過的な流行りで、表現としては当時的なもの。1990年代頃のラノベにはよくあるが、今頃ではもうその時代ではないだろうという理解。
65まで。
本当に面白い。このためだけにここまで読んでいるのだろうなと思うのだけど、それだけに、ここまでの作中世界構築に食いついていなければ熱心にのめり込めなさそうだし、この章の真っ最中にさえ、ふと読者の気がそれると陳腐さ・可笑しさの気分に儚く壊れそうで気が気でない。鍼の術のむずかしい字が呪縛しているのか。
すさまじく、燃えたぎり、氾濫し、爆発する……のたぐいの語彙はすぐに印象が飽和するし、羞恥がないか、いやまだあるかは馬鹿げた質問に成り下がるだろうし、そればかりこの何週間も考える。
このあとに、「全体としての感想は、おしなべて退屈だった」となったらひどいだろう。何としても、その退屈が気分に混じってくるのだけを阻止せねば。それだけが思念になるみたい。
でも本作は、孤悲や譲次君の人物は最初からポルノのためにでっち上げたような作り物っぽさで、その舞台に上がるのを予期して待っているものを「退屈するな」は悩ましい。
75まで。
「本当に昨日のことだったのか」など、作中でも言い出すあたりで失笑を禁じえず、上に書いた集中力を結局保っておけない。シャペリエらの一行のほうの話はもうどうだってよかったような、ぐったりした自堕落感に読者の方がなっていた。まだ30ページも残っているのか。
野阿梓作品はあと三冊すでに次を準備しているけど、また少し間を空けたほうがいいかな。作者一連の慣れごとや、ジャンルのお約束めいたものを念頭に思いながら読むのは、時間が勿体ない。
日本語の詩文を作ってその韻律がお笑いを誘うとか、官能的な文章を書いてもそのエスカレーションからあっという間に陳腐さに落ちるとか、わたしは元からそのことにはずっと自分の興味として追っているんだよ。もっと前は、怪談と書いてあっても何一つ怖くないというホラー小説ジャンルのこととか…。
ここには和歌の作業所を置いているだけだが。こういうのを今やっているのはとても勉強になる。
『バベルの薫り』読了。幕引きを預かる譲次君はその役だとはいっても、全部彼が持っていくみたいでずるいよ。やはり鍼のところが断然クライマックスで、主役は孤悲、と思えるんだから間違いではないと思う。
次は『五月ゲーム』を準備しているけど、少し間を空けようかな。そう言っていてもあまり縛るものはなく読んでいるかもしれない。
途中の一箇所、言葉の意味があやふやで通ったのは、
この「繁る」は「発情する」の意味か。繁殖の繁。植物のことかと思い、シベットが何だったかふと忘れた。
いや違う、たしかその「濡れる」ことを「しげる」とか「おしげり」と言うんだったか。上を書いたあとに思い出した。それでなければ忘れたまま通過してただろう。ちょっとこわいな。
『五月ゲーム』を開く。開いてすぐ、文中にルビが振ってある「狂茶党 」――だが、きょうさとうって読むんだったか。もしかして今まで一度も読み方を示されていなかったかな。
ここまで読んだ本を手許で探したところ、きょうちゃとう、とは読み仮名してある本はなかったようだ。なるほど。
『五月ゲーム』の前半、「五月ゲーム」まで。オランジュの出てくる前回の話をもうすっかり忘れていた。誰。後でいったん『花狩人』にもどり、「眼狩都市」だけ読み返しておく。
なんで野阿作品では「りんかく」はいつもひらがなで書かれるんだろう。りん、や、かく、がそのものの縁取りのような響きのイメージがあるんだろうか。
『五月ゲーム』読了。次は『月光のイドラ』かな。
引喩については、現在読んでいるわたしの感想としては『Wiki立てたい』と思うものだが、1980年代、90年頃にその欲求についてはこの本の解説に書いてある。それ自体をまた紙の冊子で頒布しても埒が明かないだろうと思うが……わたし等が今頃することではなさそう、またその任務でもない。
そもそもわたしは今その関心ではないはずだ。コンピュータゲームなんかから得るものがなくて久しいので作業として手頃なテーマがほしいだけだった。
ポルノを読む億劫さ 1 / 2
次、『黄昏郷』。あまり読み進めが早くないのでのんびりしていたら手許に準備した本が尽きてしまった。野阿作品の入手は現在、容易いので、追っていく。
この言葉を、深夜に目が覚めて思い出していた。
催眠術の支配力に柔道の物理で勝ったというのでは、それほど面白くはない。それは、雅君への愛で精神支配を破ったわけでもなかったはず。
精神支配力(カリスマ)の話は、野阿作品でも共通してあるはず。わたしは、ストリンドベリのヴァンピールなどに遡って辿っていたが、父権的や男性的支配という言い方にすれば、男の言いなりになって抵抗もできない女性…というフェミニズム小説のシチュエーションが思い浮かぶ。それをぶっ壊すことをモチベにしている点では、ゲイのサイキックは弱いのか。「LGBTだから」というのでも、それほど強みなのかはどうなのか。
人間性については、『バベル』の譲次は、雅日子を人間と認めることで魔少年の魔性を破ったが、上に言ってるようにわたしは譲次の態度はいけ好かない。それは、今度は「語り」の問題。その点ではタニスはリフレーミングの名手だった。
「クィア」を名乗るのはそんなに格好いいことか。鼻持ちならないことには何にだって反感をもつ。「You are not alone」と歌っているコミュニティになどわたしは絶対にその輪に入れそうにない。……
それはこのまえの現代の音楽、向井航「クィーン」のときに考えていた。群れるのが悪いとは言ってない。
野阿梓作品のゲイはマイノリティの意味では全然ない、あらかじめ。耽美小説のゲイは、純粋に男の子と男の子が美しいし気持ちいいからだ。でもサイキック戦には弱みがあるように思う。
『黄昏郷』
「眼狩都市」だけでも先日、読み返していなければユマジュニートから名前を思い出さなかったと思う。
神林周回を中断してすっかり忘れているけど、『天国にそっくりな星』(1993)がこれと年が近いな。似てる作品なら、もっと別の作家を挙げるべきだろうが、わたしの手もとの。
やっぱり、まず全作品をコレクションしておいて、つぎには、どこから読み返してもいいように野阿梓Wikiがほしい、と思うがわたしがつくるようなものではなさそうだしなあ。初読で。
十周とはいわないけど、五周くらいしたら自分の手のひらを指すように該当箇所を指示できるかもしれない。そこまでファンにはならないのではないかと思う。
『黄昏郷』(1994)読了。順序もどって、つぎ『緑色研究』へ。
いや作為ありすぎだろう。作為的すぎる。
最初から全力でやおいに走っているのに『作為のまったくない』と言い切るのに変な面白さを感じてしまったが、そのくらいなら、しばらくまた野阿作品も脇において一、二か月くらい遠ざけておくべきかな。
それとまた、ここもそうだけど、わたしは美少年のことを語られるのに『少女のような』と表現されるのが、今になってもいまだにカチンとくる。これは伝統なので、とくにそこに引っかかる必要はないとわかっているけどね。
不自然さ・おかしさではなくて、まさにそういう表現――表現より、思想のことを、「やおい」という。いった、と思う。
『そんなわけないだろう』と思われながら、そういうものとして行われる。多少のリアリティは、マジカルなリアルでさえなくても、趣味嗜好を先に淫してよい。現代思想としてはメタフィクションよりはやおいの方が興味あるが、ことばとしては今はもう死語だし、その意味でなければBLの方が今は通る。
みだりがわしさ
『少しもみだりがわしくはなく』――いや、みだりがわしいと思う。
文意に嘘があるが堂々とひけらかす、のような書き方のことをわたしは思っているけど、これはそのつもりがあってしているのか、正直よくわからない。ほんとうに清らかなのかもしれない。
読者のポルノ嗜好については、他人のことなどわたしはどうでもいいと思いたいが、一般に、読者が自分もゲイか無節操でなければ、一般的には女性読者が読むものなのかな。BLを好む女性読者が自分はレズというわけではないだろう。「美しいものが好き」って言うはず。
淫蕩な女王に仕える美しい処女達、として同じように『それは清らか』といっても不潔にならないとしたら。その際でも、わたしは「笑う」より「いけ好かん」という反感のわく癖がよくない。
話はそれまで、長剣を抜いて一切断ち切ってしまえというような、衝動的な攻撃欲をかき立てる。粛清しろ。『みだりがわしい』はその意味、潔癖。
『作為のまったくない』とか『少しもみだりがわしくはなく』と書かれるに対して反射的に激しい敵意を感じているのはたしか。オーラルセックスについては、そうでもない。
併読中のこと。菅野由弘リスニング、「アウラ」から一連。
雅歌の引用などは小説に珍しくないが、まさかオーラルセックスの描写にそれとは恐れ入った。上のように「デジタル・デビル・ストーリー」を併読しているところで、1993年当時に読み合わせていれば面白かったろうな。そちらはイザナギ・イザナミだが、これは「竜陽 の技巧」だから雅歌だという。そんなのありか。
本題にもどり、野阿梓作品にそんな興味はない、という話。こちらは耽美でいく。
『緑色研究』やっと21まで読み終えた。これがどういうものなのか、ふと分からなくなって読めなくなっていた。考えてみれば、西谷作品にはヤクザ女かおぼこ娘しかいないようで、一度そのようなものを引き合いに較べてみるとよくわかる。
それと、文中にあった房中術のような考え(「接して漏らさず」)というのは官能小説そのものについても考え合わされ、面白い。その言葉自体はもとより知ってる。わたしは中国古典のそれは一時読んだが、関心の方向が定まらずにその後忘れてしまった。
こんなに微に入り細にわたって手順を書き連ねるのは、ポルノだからか……ポルノでもそうはないだろう。長々とやっても下品にならないで済むのか。下品になると、まず必ず「笑ってしまう」で、バカバカしさで笑い草にしながら作者に付き合う義理なんかない。
上のエルセイラムのルシファー(ルイ)は女を犯すにも暴力で、悪魔なのに悪魔的誘惑はしない。今読み返してないが、スレイマン王子は性技の手練れのような人物だったはずだけど、性技らしい攻めはなく、やっぱり暴力。『ダビデの刻印』は性愛がテーマだったと思ったけど実はこういうことはしてないな、と思い出していた。そのおり取材して熟知していたらその作者は書かないわけない。レーベルの違いなんかは当時、あってなきものだろう。
スニーカーやログアウト冒険文庫ではレイプはしてもいいけど、じっくりと章を費して弄び官能のとりこにするような書き方をしては「エロ本」になったのかな、当時。嘆声するような気づき。なんでだ。
「性奴隷にする」「黒魔術」という語りならライトノベルでもその基準をクリアしたのかもしれない。「これは悪いことです」と表示すれば。愛に耽るのは良いことよ、といったら少年少女向けにダメ、かな。
でも、雅や千仞の人格は疑うような気分にはなり、千仞は若くして中国にわたり革命思想に情熱を燃やしたが、性愛術にも没頭して学んだ……というのも、(結局革命とは無関係にエロ魔人じゃないか?)のような脳裏に気分がはさむ。雅が清純は信じようがない。
それは、やおいだから不合理ではないんだよ。革命家の英雄は性の道にも貪欲にちがいない、どんなに淫れても美少年の本質は清廉なまま、という論理が通用するはず。
『緑色研究』読了。わたしは結局、ストーリーの指示するところと裏腹に、前作からの執行雅君に嫌悪感が増していって憎悪に近くなったところで終わった。たくましさがどうかよりも、『作者が手の内に保護している、読者に好感を押し付けてくる』と察するのがそれみたいだ。
野阿作品ではこれまでいつもそのようだと思うが。漫画だったらまた印象が違うのかもしれない。
もちろんゲイではなく
『ミッドナイト・コール』から。
『男同士で付き合う話になったこと』については、その点には動揺していない。今読むとそういうところがポイントだと思う。他に奇怪なことは立て続けに起こるが同性愛についてはもとより不問、自明のことのように語りだす。それがやおい、だろうと前回も。
「ええっ? でもボク男ですよ!?」
のように言わない。それは無しで、どんどん進んでいく、だ。BL以外でもいけるだろうと。BL以外ならマジック、というのがわりと思い当たる。
みだりがわしいか潔いかは問題にするが、『男色はけがらわしいか』のような価値観は、ない。その基準はないので問わない。
BL作家全てがその態度ではないだろうし、BL読者にも『男同士なのに……』というそこに倒錯的な愉しみを求める人も少なくないだろうから、一概にこれがジャンルのルールかというとそうではないと思う。マイノリティ主張と耽美は合わない、かな。
『ありとあらゆる怪奇な思い』の中に『男同士で告白されたこと』は入っていないと思う。前回の、『作為のまったくない』というのと似た感じ。
だと……。ばかな。
角川ルビー文庫というのは、わたしはレーベルの存在自体いままで知らなかったのだけど、わりと若い読者向けなのかな。妙にルビが多く、ルビの多いのは野阿梓作品に珍しくないが、バベルの薫りのような例ではなくこれは常用漢字レベルでも仮名が振ってある。
中学生くらいが読む想定なのか。BLを読むのが女子とはかぎらないが、レーベルの想定読者としては少女対象?
「コール・バック」の途中まで。上で書いたような単純素朴なゲイ観ではやはり収まらない、込み入った心理の話になってきた。面白い。
ただ、当り前のこととして本作は1996年当時の時代環境のもとに書かれている。電話という作品の中心的アイテムの存在感が現代とはあまりに違う。当時の通信環境やPC・ソフトで出来ることが現代とは大幅に隔たってしまったのと、防犯意識の常識やリテラシーも。
いうまでもないことながら、今現在に読むにはたびたびの箇所ごとにつまづき、読みにくい。30年で時代は隔ててしまったが、「それはその時代のもの」という、完全に時代劇や異世界ファンタジーにはまだなっていない。新聞や電報やという1950年代を舞台のスリラーを読むほうがまだしも安心して読みやすい……
通信環境以外では、「俺ちょっと風邪ぎみなんだよ」「街では悪い風邪が流行っている」というのがドラマの進行要因になるのも。それはまえにエレGYでもいった。それは2008年だった。
「風邪で寝込むこと」が話の理由に使われても、今だったらそこに若干の別の意味が加わってしまい、「恋愛や怪奇に翻弄されるストーリー以前に、基本的な感染予防意識ないのか」のような、しようのない思いがちょっと兆してしまう。2026年だったら、〈街で流行っていたら登場人物も罹患して不思議ではない〉という語りはなんとなく不自然だろう。ある時期を境に以前・以後を大きく隔ててしまったもの、エポック、のようなことを思う。
ただし、そのことは野阿梓作品という作家の通読には関係ない。最新作は2018年かな。
併読中の『メソポタミアとインダスのあいだ』からの連想のつづき。テレパス戦については、富野由悠季とル・グインの関係について最近までの思案のこと。現在進行中は、∀ガンダム。
本作『ミッドナイト・コール』にも「行政首都と経済首都」「黄海経済圏」といった胡乱なワードが登場している。時代は平行しているのかわからない。宇宙都市はあるのかな。作中で関係なければそれまで。
本作の同名キャラクターがまた別の世界に出てくるだろうという、『黄昏郷』のようなスターシステムは当然。
『二十五億の夢』というのは、ちょっとわからなかったが、地球人口が50億人だったのが1990年頃で、夜には地球の夜の面(半分)が夢見るから25億なんだろう。
当時の地球の人口についての言及は二十世紀の小説作品の中にはたびたびあり、このまえは神林長平『七胴落とし』(1983)の中で「五十億」といっていた。
第二部「コール・バック」のサスペンスのクライマックスでわたしはホラー的なテンション上がったのだけど、第三部でいよいよ、本格的に怪異と官能が始まったとたん、文章の熱意と裏腹にわたしの気分は離れて一回休憩、になった。
これって、生まれつきBL嗜好でないとどうしてもダメなものなのか……気弱になる。でもここまで何冊も読んできたじゃん。『ヘテロだったらどうなのか?』のように考えるのは、その考え自体がヘテロ前提みたいで嫌だ。
わたしの場合、同性愛がどうというのより、『作者は尻にオブセッションがある』のようなことが微笑ましくなってしまい、まじめにグロテスクさや猥褻さをシミュレートし続けるのが難しくなる。読んだ回数が増えてきても難しい。性的紅潮を性的紅潮 と読むようなことはおぼえる。
flushは普通の英単語で今、併読でリーを読んでいてもよくみる。人間以外の景物もたびたびflushしている。今中断、ここまで。
あと、すでに上で書いたけど、作者の文筆は優れているけどルビが多すぎて台無しだ。レーベルが低年齢読者向けなんだろう……とは納得はしたけど。このレベルの漢字が読めないくらいだったらまずその程度学んでからエロに来い、みたいなイラッと癇を逆撫でするのが、またある。
それは、わたしは今後構わないからいいけど。中学生が読者でも、BLで漢字の勉強をするということは、あるのか。考えてみれば。
牧村とまゆりちゃんが登場したところでストーリーの興味が一挙に薄れてしまった。前の章で人物を仄めかしてあった時点で「探偵登場」の展開は予想できたけど……。わたしはミステリには向かん。
この感覚は、むしろ『バベルの薫り』のときに譲次が一挙に解決にかかるところとか、『月光のイドラ』で爆発炎上するとかの印象をまたなぞっているみたい。ミステリの定型にわたしの性格が向いてない、の反復だろう。BLは適性か文芸か、の件とも、コンピュータ降魔の時代変遷とも、それは関係なかった。
牧村(槇菱湖)のプロフィールが紹介された時点で、まだ事件が始まってもいないのにあらかじめ察して敵意を覚えるという読者だから。
コンピュータ降魔については、西谷史のデジタル・デビル・ストーリーはその理論について書かれるのは旧シリーズの一二巻くらいで、それは伝統的な魔術の儀式をコンピュータで再演するとデータとして悪魔が降臨するというアイデアで、当時の解説にもあるようにそこには「飛躍」がある。ディスプレイから悪魔が現実に実体化するについては尚更、そこに「なぜ」はない。
そのあとは伝奇バイオレンスの本領発揮になる。野阿梓は流石にその「なぜ」にこだわる。作家の個性のちがいは無論だけど、80年代と90年代の環境のちがいは大きいだろうとも思うので、今較べてみるには面白かった。そのテーマにしても、他にもっと読まなければならない作品は、まだあるだろう。わたしは取っかかり。
第一の「飛躍」はそもそも、古来、魔術の呪文や儀式によって悪魔が召喚されるのは、なぜか、について。そもそも、悪魔とは何か。それらは措いて、とにかく手続きを実践すれば間はブラックボックスでも悪魔は出てくるという。作者というか、少なくとも中島朱美はそうだ。中島に思想はない。
野阿作品にもどって、本作はこれからオカルトの解説にもなるようだから、最後まで読もう。
わたしはBLや猥褻に向いていないとは思わない。ポルノに性はない。耽美は技術だ。野阿梓作品は現在最新作まで揃えたので、まだ読む。ミステリには向いてないと思う。
牧村が第二の被害者として次に襲われるようなダーク展開だったらわたしは驚くが、でもそれは意味わかんない話だな。BL専門レーベルで女性が襲われて何になるんだ。
『バベル』の孤悲は、小説始まった時点でそういうためのキャラクターだというのは、わかっていたけど、『バベル』ではBLがルールだとはあまり思っていなかったし。
「BLで女性が活躍するのはいやだな」のような気持ちがはたらいていたみたいで、それは、ほんの先週まで『緑色研究』だったしな。野阿作品の感想をさかのぼれば、わたしはキノ・グラースが好かないとも前に言っていたのもあり、その臭いを早くに察したんだろう。
聴罪
だいたい、松島啓一郎君のこれまでのいきさつを『すべてを語った』で語り終えてしまうのは便利すぎるよ。理解を絶するだろう。これどう収拾つけるんだよ……と読者は思っていたはずで。罪など、誰にも聴かれなくていいし、赦されなくてもいいよ。だめか。
『緑色研究』では、事の終わったあとに登場するメンターの鷹辻宮司がやはり、わたしはじわっと嫌悪対象になっていた。それはそんなに強くはなく。
とんとん拍子。いささかの揺るぎもなく、いっさいは、間違いなく、~~だと確認したのだ…
牧村さんに根本的な不信を抱いて読んでいると、霊の居処は発見する端からどんどん余所へ抜け出しているような感覚に思える。もっとも小説の興味(サスペンス)としては、もう消化試合みたいなもの。
『ミッドナイト・コール』読了、つぎ『少年サロメ』。
牧村からランドーを通り越してまゆりちゃんにまで敵意が拡大するちょっと前くらいで物語が終わった。わたしはダークサイド。水郷と啓一郎のことは忘れた。
わたしは三日月……というか、第二部の最後に現れた〈何か〉推し。
野阿梓作品を読むにあたっては以後20年下ってもわたしは態度は変わらないと思う。文中の降霊術や呪文については、わたしはごく微かに以前触れたことがあるのを思い出していたが、こういうものだったか。
まゆりを襲いたい気持ちに一瞬なったが、低年齢向けBLレーベルで適切ではないことをコメントするのは自重した。
あとで気づいたのは、BLといってもハードなポルノ表現やゴアは、月光のイドラや緑色研究のこれまでに較べて本作はやはり抑えてある。比較的抽象的な表現になっているはず。