少女のバイストン・ウェル
富野話題を少し戻って、「スーパーサイコ研究」の題でこれまでの思案を幾つかおさらいのようにしていた。
リーンでは、この中で触れたジャコバのこと等あるが、1980年代と20年あまり後とではどう違っているのか注意する足しにはなるだろう。1章読んだ感じでは、わたしはやっぱり、あまり分からないのではないかと思う。
通報 ...
富野話題を少し戻って、「スーパーサイコ研究」の題でこれまでの思案を幾つかおさらいのようにしていた。
リーンでは、この中で触れたジャコバのこと等あるが、1980年代と20年あまり後とではどう違っているのか注意する足しにはなるだろう。1章読んだ感じでは、わたしはやっぱり、あまり分からないのではないかと思う。
「天空のエスカフローネ」OST1, 菅野よう子/溝口肇 (1996)を聴く。
「王の心」「ブレンパワード」「∀」まで、菅野よう子音楽続きで今度は数年遡る。パロディなのか本気なのか、半笑いではまる、呆気にとられるような90年代アニメ音楽の傑作のひとつ。今聴くが、わたしはこのエスカサントラはもう長いこと聴き返したことがない。
「エスカフローネ」の世界を「女の子のバイストン・ウェル」のように思ってるわけじゃない。というか、そんなにはない。真綾声の美井奈、みたいな、鬼畜生みたいな連想したくないし、人にもさせたくないしな。
『リーンの翼』とは関係ないが、せっかくだからこれをしばらく聴きながら読むとして、樋口康雄音楽にも後で言及できればいい。
話は少し戻り、『∀の癒やし』中で富野評になる菅野よう子像には、「天才肌、才能」「女性の生理(感性)」もあるが、「アニメが特別なものでなくなっている世代」ともいう。そこは谷村新司についてと併せての章で、富野監督の立場からそう見ているのはわかる。わたしらからすると、どういう意味なのかは注意したい箇所ではある。上のような話。
それも、今にならないとわたしは思わなかったろうから、そのつど書き込んでいくだけだ。ネットに菅野よう子評というのは多いと思うから、わたしはそれに深入りせず。