男の死に体
サイコBLの話を一日考えていて、やはり今ちょうど迫水のところでもあったので思い出す。
ハロウ・ロイの肉体のなされるままにされ、足腰立たないほど弛緩してしまった迫水は「これでは男ではない」と愕然、慄然と思う。これまでの章にも、迫水の思念のうちには、――男は犯されるものではない、男の狂態は晒してはならない、男として死に体だ、――とバイストン・ウェルに来てたびたびに自戒と慚愧をくり返している。
女性に対してはとくに、女が乱れてはならないとは思っていない。
女のように男が乱れてはならない、というと女性蔑視のようにも思われそうではあるし、実際に時代的には男女の隔て観はある。それとまた、美意識として「女の乱れぬくことは美しい」とは常に語られても、男の崩れは様にならない、滑稽に落ちるという文化も、男女の身体の作りの生理的事情も実際問題ある。
女性蔑視だけのことではないというが――今度は女性から見ると、「女は乱れていい、男は別だ」と格好を繕おうとする男は、やはり腹立たしいかぎりの態度ではあり、そんなガードは引き捲って男も乱れ狂わしてこそ女冥利でもあろう。ハロウが衝動的に怒りを覚えるのはやむないくらいだと思う。
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現代少年のこと
迫水の男女観は、そうは言ってもやはり相当に古い。1945年当時の青年軍人の標準からも異常なほど古武士的だろうとは前章までも思った。上に、ジークアクスの連想を書いたばかりだが、2025年現在の少年だったらもっと自由な態度だろう。……とは、現在、ふつうに概ね言われることだろうと思う。
事実はどうか知らん。女と男が区別なく語れることが「自由」か? 現代の男子高校生だって「女と男ではちがう」意識はないわけがないとわたしは思うし、文化としても、視覚映像ジャンルのキャラクター男女差の描かれ方などはむしろ誇張され、強調されて見えていたりする。男装女装などについてもあれこれ言える話題はあるだろう。
男の子・女の子はイーブンだよ、と言いたい人は良いとして、「それはそれとして、そのコードはあるよね」という踏まえで、女子の口から「もっと自由になっていい」のような台詞を男の子がどう聴くだろうと想像しても可愛い。男子から女子に手引きする場合には言えたことでも、それを後に女子から男子に手ほどきし返されれば、男子には加わる愧じらいはあるんじゃないか。
ボーダーに目を向けるよりは、セクシャリティという言葉遣いを選んだほうが、上の話については多分いいだろう。前回連想するのは『∀の癒やし』より。フェラリオと、リンレイについての場合はまた、どうだったろう。