demonを妖魔とすること
パラディスに触れるまえに「平たい地球」について一旦おさらいする。
天空の神々は創造を終えたあと世界を退去し、今は誰にも崇拝されない「暇な神」になっている。今、この世界の諸々の物事を創ったり、人々の運命を振り回すのは活発に活動中の闇のプリンス達で、アズュラーンを始めプリンス達は、無慈悲で容赦ない横暴のため人間世界で大変に恐れられ、また罵られている。
または、やはりそんなに実在が知られていない。無慈悲で冷酷だからこそ、あんなことも、こんなことも人の口に昇ればアズュラーンの仕業とされ、アズュラーンの血も涙もなさはアズュラーンのカリスマとして語られてもいる。「アズュラーンに慈悲はあるか、血も涙もあるか?」はアズュラーンの地位を揺るがす問いでもある。意外に人間に優しいじゃん?……と言われると、権威がない。
アズュラーンのようなものは普通にgod(s)というし、godの厄介な意味を狭めたければdeityでもいい。demonは悪魔というより魔神や、精霊や、自然の諸勢力を司る闇の霊とも言えそうなものを、「妖魔」という。日本のファンタジー界で妖魔の語がどんな使われ方をしたかも、どう辿ればいいのかわからないが興味あること。鬼でも妖精でもない。
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カリスマの終焉
タニス・リー作品の魔法は必ずしも呪文や物事の起源や真の名を呼ぶことは必要なく、しぐさや術式は必要なく、作動原理はどうであれ「それは起こった」と書かれたときにはそれは起こっている。プラグマティックな実践魔術ともいえるが、起源はむしろ古い。むしろ真正の魔術とも思う。マジカルな語りなら、その語りの意図こそ問われるべきでなかったかの疑問はついて回る。
アズュラーンの直接の前身だったヴァズカーは飽き果てるほど血みどろの生きざまをしながら、自分の創造者である母親を殺すことを目的に旅をしていった。魔法に長け、一方で、魔法で何でもできるとわかれば次には一歩先に倦怠に陥る。超能力のテレパシーを使って他者を従わせることは自分が圧制者に成り代わることで、それがどんな憎い相手でも相手の心を破壊してしまった苦悩を負うことになる。思いひとつで世界を変えられるなら、そんな不法に暴力的な魔法をあえて使おうとも思わないアパシーのような境地と紙一重に導く。意思の力を確信したあとに、無関心、無気力から抜けられない目的喪失の長い時間が続く。失ったスリルの再生こそ本当にどうしたらいいかわからないことだ。
無慈悲に身に迫る脅威や恐怖、生死ぎりぎりの戦いに駆る敵対者、追い求めても報いない恋人、等など、数ある呼び名のアズュラーンが世界にいると世界はスリリングになる。
そのアズュラーンの血と涙のありかが言い当てられると「平たい地球」の創作神話は終わってしまうのだろうという危惧はずっと語られていた。補足篇で地球が平たかったことがあらためて確認されたのだったが、その後シリーズが替わり、パラディスの最初のエピソードの中では天使の見せる大地は、残念なことに球体をしていた。
愛すべき恐るべきアズュラーンは去っていったが、タニス・リーの作品中でいえば、似たような人物はその後もたびたび姿を見せ、そのときは名前もルシファーと名乗っている。
日本人にルシファーを語る動機は、本当のところを言うと、ないし、この世に神はいなくても悪は実在するとの確信は、ときに恐ろしいほど強い信仰の源にもなることは、そう書いてあるのを読んでも往々にして理解に遠い。信じがたいものをも信じることができるのは、ファンタジーを読み終えた読者の特権になる。
こうしたファンタジー←→オカルトの相互意識は、作品の「表現の絢爛華麗な華やかさ」や「妖麗なキャラクター、物語の奇想」などをもてはやされるほどには、翻訳を通じて移植されない。日本に受容や影響を語るなら本来そうしたコア部分かもしれない。