間蘇伝説と天馬ひとみ伝説
昔、塔低層のとある街にヤムヤムが棲んでいた。街の子供は皆、大人達に隠れてヤムヤムにゴミを運んでいた。低層の都市では地域紛争がたびたび流行り、彼らの住む街の通りにもしばしばロケット弾の降る騒然とした時代だったが、建物の瓦礫を片付ける人手はいつも足らず、廃墟となり放置される区画があちこちに増えていた。
リュックを負った子供達の群れは無人の廃ビルや倒壊した高架道路の間を縫って歩き、かつての街の痕跡に残る廃物を資源として拾い集めた。建物に用いられた建材であれ、住居に遺された家電や日用雑貨であれ、価値のありそうなもの、なさそうなものも何でも拾い、引き剥がし持ち去っていく。リュックいっぱいの廃品をその日の収穫とし、そんな探検行を何日、何度と行き来しても、ストリートのゴミは一向に尽きなかった。新たに街にロケット弾が降るたびに破壊されるストリートは常に増え続け、減ることはなかった。
処理場に棲み着いているクリーナー・ヤムヤムに食わせてはならないものは規則で決まっているが、廃墟を行き交う子供達は規則に頓着しなかった。安全な地上に近い層では子供達は互いの結束を守り、そのつど大人の目を盗んでヤムヤムに禁止さられた餌を食わせ続けた。正規のゴミとして与えてはならない、不正なゴミをヤムヤムに与えるとどうなるかは、だから子供達は皆よく知っていた。たとえば、ヤムヤムにまだ中身が残っているコーヒーのペットボトルを与えてはならない。大変なことになる。
そんなアウトローの子供達に悪事を教え込んでいたのがタンホイザーとアレクだといわれている。ヤムヤムの体内の分子変成炉は与えられた廃物を消化し、再構成して吐き出すリサイクル機関として利用されていたが、これには、アルミの空き缶をスチールの鋳塊に変成するようなアバウトなところがあり、その錬金術の法理を知り尽くしている者は誰もいない。この日も子供達が街から運んできたありふれた銅鉱やジルコニウム、日本刀、古下着、文芸書のファイルを、ヤムヤムは与えられるままにもくもくと食った。お父さんの形見や、さよならの宣告、天下無き視点、闇からの声も、ヤムヤムには食えないゴミではないようだった。ヤムヤムは、どんなに不純や不正なゴミのことも「まずい」と言いながら食うことは食ったので、実験に熱心な子供達もヤムヤムに対してむごいとは思わなかった。
とある女性の眼帯とおぼしきそれは、発見した子供がどのようないきさつで手にしたかはわからない。与えられたゴミを咀嚼したヤムヤムはひとしきり――通常より心持ち長く――ぷるぷるした後、ムムムッと唸ってそれを吐出した。見慣れない生成パターンを見守る子供らの目の前で、それはうごめき、しだいに生きものの姿態として見分けがつくまでに形を成していった。きらめく繊維に埋もれてみえるのは裸の人形のよう。丸びた、幼い顔はやがて金髪の女の子とわかる。息づいて、薄っすらと目を開いて辺りをみとめ、ニコッと笑顔を見せるともう無類に可愛かった。――間蘇だ! 誰かのささやき、そして、讃嘆のためいき。
間蘇の出生には諸説ある。スターダンスの母であったアマンディーヌが死した後、次なる転生の姿が間蘇とされるが、間蘇と呼ばれる少女がどのように発見され、南極老人星に保護されるに至ったかについて定説となる伝承はない。ヤムヤムから生まれたとするのは異説中の異説である。あいまいな人格にかかわらず、間蘇は宇宙の民衆に古来ふしぎな人気があり、商業や宇宙航路の守り神とされた。猫の喫茶店の常連のアストロノーツには今でも間蘇のファンが多い。神話上の役割の重要さと大衆の人気は必ずしも比例しておらず、神話ではスターダンスを見送って幼女から老婆に変わったといわれる間蘇だが、廟に祀られているのは老婆になるまえの姿のままのこともある。
新ゴート機構による教義が広まり、間蘇の前世のアマンディーヌが復活された後も間蘇独自の人気は衰えておらず、民間信仰ではヘカテと同一視される魔術や冥界の神としての間蘇の権威は絶大だった。冥界王朝の都にあっても冥界の民は死神王家の信仰と無関係に間蘇廟を祀った。商売繁盛のご利益をたのんで商店に間蘇のカードが飾られているのはありふれたことだが、スペシャリスト・カードの間蘇の宇宙的価値はことに高く、マニアの間の交換レートはステファニアの五倍、ロマンシアの十五倍以上の相場を常に保った。こうした取引の界隈の過熱ぶりは常識では計りがたいものがあって、レアカードのためには彼氏を売ってもいいというのがこの道の星士だと思われていたし、天馬ひとみは実際に売ったと信じられていた。
生まれ変わりと言い切る
「アマンディーヌとオクタビアンを混同(習合)する」テーマのことは今、忘れていた。その気分ならわかる。
ファウストが見慣れないエーリを見ながら、「エリスの魂はおまえに転生してたんだっけな…」と無理に自分を納得させるような気持ち。魂の定義がなんであれ、そんなのは別人と思ってよくないか。
――これは「同一人物ではないか」「関係がある」と誰でも当り前に(順接的)想像される。
それか、同時に同じ場所に居合わせて会話している。互いに敵対してさえいる
――にもかかわらず、「両者は同じ人」と断言するのが習合という現象の面白いところで、その筋道も語られていい。