こうですかわかりません
規則的な電子音が意識を揺らす。高いそれが眠りの底に沈みきった自我を、重く閉じきった瞼を引っ張り上げた。まだ動きの鈍い意識の中、やかましい音の発生源へと腕を伸ばす。煌々と輝く液晶画面をスワイプすると、部屋は静寂に包まれた。
湧き出てくるあくびを噛み殺しながら身を起こす。柔らかで温かなベッドから降り立ち、素足のままぺたぺたと窓辺へ向かう。淡い緑の真ん中に手を入れ、横へと掻き分ける。シャ、と涼やかな音とともに眩しい朝日が部屋へと降り注いだ。
ナイス!
耳に飛び込んできた声に、思わず眉を寄せる。続けざまに鳴り響く発砲音、爆発音、インクを泳ぐ音、掛け声。耳から脳にたっぷり注ぎ込まれる不快感に、急いでカーテンを閉めた。もちろん、薄布二枚程度であんな派手な音が完全に塞げるはずがない。まだ鈍く聞こえるそれから逃げるように、リビングへと続くドアへ早足で向かった。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅街からは少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも生きやすい静かな場所。貯めた、否、いつの間にか貯まっていたお金で引っ越したのは二年ほど前のことだっただろうか。当時は相場より少し高い家賃だが、過ごしやすさへの対価としては十分な額だ。
やかんに水を入れ、火に掛ける。ドリッパーを取り出し、フィルターを付け、粉を入れ。まだ眠気が残る身体で用意している間にすぐにやかんは鳴き声をあげた。火を落とし、ドリッパーへと湯を傾ける。香ばしい臭いが鼻をくすぐった。朝っぱらから胸の奥に落とされた鈍い何かが解けていくようなこことがした。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅街からは少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも生きやすい静かな場所。ナワバリバトルに疲弊しきり折れた心が選んだこの街は、今ではすっかり栄えた。栄えてしまった。逃げたはずの過去が追い掛けてくるほどに。
ドリッパーを外し、マグへと口を付ける。瞬間、ピー、とホイッスルの音がガラスの向こうに鳴り響くのが聞こえた。マグカップを傾けるはずの手の動きが止まる。試合が終わったのだろう。この音を聞く度動きが一瞬止まってしまうのだから、身体は未だに過去を忘れてくれない。厄介ったらないものだ。考えながら、今度こそコーヒーを口にする。苦みが舌の上を広がり、まだけぶった思考を晴らしていった。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅街からは少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも生きやすい静かな場所。ゆっくりと栄えたここは、近年になってナワバリバトルの新たなステージとして開発されてしまった。ステージに選ばれたというニュースを見た時、思わず端末を落としてしまったことをよく覚えている。どうして、と一人きりの部屋で叫んだことも。
おかげでバトルの喧騒と過去に耳を、頭を、心を引っ掻き回される日々を送っている。引っ越すことも考えた。けれど、引っ越したとてそこがまたステージとして栄えたら。もうハイカラ地方に住む以上逃げ場など無いのだ。
ちびちびと飲み進めながら、携帯端末を操作する。今日はゴミの日だ。飲んだらゴミを出さなくては。天気は晴れ。降水確率二〇パーセント。バトルには最高の一日でしょう、のニュースサイトの一言に、また顔をしかめた。
ぐっと飲み干し、マグをシンクに置く。フィルターを捨て、ゴミ袋を縛り、適当に上着を羽織って玄関に向かう。回収時間にはまだ余裕があるが早く済ませるに越したことはない。そんな言い訳をしながら、玄関のロックを解除した。
階段を降り、マンション指定のゴミ捨て場に向かう。エントランスを抜けた途端、きゃらきゃらと可愛らしい声が耳に飛び込んできた。
さっきの試合頑張ったね。すごかったでしょ。あそこでカバーしてくれたのさすがだよ。
自販機の前にたむろした少女らは口々に言葉を交わす。片手には飲み物、片手にはブキ。きっと先ほどまでナワバリバトルをしていた子たちなのだろう。高揚した声と互いを讃え合う声が鼓膜を震わせる。脳を揺らす。心を濁らせる。
早く捨てて戻ろう。部屋に戻ってまたコーヒーでも飲もう。考え、早足で進む。少し乱暴な手つきでゴミを置き、足早に来た道を戻る。
「あっ、またカフェオレなんだ」
「だって苦いの苦手だもん」
エントランスに入る瞬間、そんな会話が聞こえた。
またカフェオレ飲んでる。苦いの苦手だもん。こどもだー。同い年のくせに何言ってんの。
交わした言葉が、記憶が、ぶわりと厳重な蓋を破って湧いて出る。
バトルの後にジュースを飲むのが好きだった。苦い物を苦手な自分をからかってくるあの子とじゃれあうのが好きだった。互いに褒め合い、励まし合い、次のバトルへと向かう合間の穏やかな時間が好きだった。
バトルではいつだって息の合った動きをしていたあの子は今何をしているだろう。考えたところで、自ら逃げた自分には知る方法なんてないのだけど。
いつも間にか目元を強く押さえていた手を下ろす。はぁ、と溜め息一つ吐き、鈍い足取りで自動ドアをくぐった。ガラス戸を隔てた向こう、もうあのかしましい声は聞こえなくなっていた。