インド論理学に四句分別というのがありまして、仏教でも心のあり方をこの四句分別を用いて言い表したりもします。
いわゆる、「無為」という事です。
では、「非空」はと言いますと、
縁起が起きないという事です。
具体的に言いますと、
人間の概念から完全に離れているということになります。
それが「非有」の意味するところです。
どういう内容かと言いますと、
まず、
実有から完全に離れている事(非有)。
それが「非有非空」です。
空を空じたところに真如が顕われると言いますが、
この中道としての空を非空とするのが「空を空じたところ」となります。
お釈迦さまが初期仏教で示された「中道」がこれにあたります。
有=常見 無=断見 非有非無=中道(空=縁起)
「非有非無」の空は、有でもなく無でもない空です。
ここでの空は縁起です。有為の法としての縁起です。
空には「非有非無」の空というのもあります。
正確には三身即一の「非有非空」の空です。
それに対し『大空経』で説かれてる空は、四元論の空です。
四元論という言い方はおかしいのですが、ここでは皆さんやれ一元論や二元論だと科学の次元と仏教の真理諦の違いも分からずにごちゃで次元論を語っておられるようなので、分かりやすくあえて間違った言い方なのですが「四元論」と言わせて頂いております。
そこで説かれている空は、「有る無し」の二元論で語られる空でした。
昨日は『小空経』で説かれている空が、
時間軸の中で起こる此縁性縁起として説かれているというお話をしました。
その手掛かりとなるのが今回お話しております
『小空経』と『大空経』の二つの空を説く
『阿含経典』とパーリ仏典です。
学者さん達がその事に
未だ気づけていないだけの話です。
が、
しかし
お釈迦さまは『阿含経典』において既に唯識を法理的に示されておられます。
しかし唯識思想の法理的原点は、その十地経よりも新しい『解深密経』における認識論的側面からの観念論的な表現に由来すると学界では考えられておられるようです。
お釈迦さまが初期仏典の般舟三昧(179年)の中で「三界唯心」という言葉を示されていた事は既に知られております。
十地経でもこの「三界唯心」の一文は出てきますが、その十地経よりも古いとされる般舟三昧です。
以下の論文が「般舟三昧経」や「三界唯心」に関連する研究として挙げられます:
「三昧と生活規範 : 般舟三昧経を事例として」
「般舟三昧と仏随念の関係について」
「三界唯心考」
これらの研究は、般舟三昧経や三界唯心の詳細な理解を深めるための重要な資料です。それぞれの詳細については、該当する論文をお読みになると良いでしょう。
今日お話する内容は、
お釈迦さまも唯識を説かれていた
というお話です。
では、お話に入ります。
日本男児であるならば。
お話を聞かれて意見を述べられたい方は、
正々堂々と「我が氏は、、、」とまずご自身の仏教的立ち位置を
潔く名乗られてから回答覧にてご投稿くだされまし。
学者視点で気づけていない
仏法者視点で気づいた
とても重要なお話です。
そういう学者さん達に
耳の穴をかっぽじいて
よ~~~~~~く聞いて頂きたいお話を
今日はさせて頂きます。
もしかしてあなたも
仏教にたずさわっておられる学者さんのお一人さんですか。
そういう卑屈な者に限って
自分の事は棚に上げ
相手の落ち度を揚げ足を取るかのように
得意げに語って去って行かれます。
わたしが問われて、自らの素性をお伝えしましても
ご自身の素性をあかそうとされない質問者さんも前スレに居られました。
戦国時代、お侍さん達は
戦の場において
まずは「是が氏は!」と自らの素性を声高らかに発したものです。
それが縁起というものです。
関わる人が変われば
仏教のあり方もまた
変って来ます。
その世界観に意識がある人が語る仏教と、
凡夫の仮観に意識がある人が語る仏教とが
同じである訳がありません。
それが空観と呼ばれる仏独特の世界観です。
本当の仏教と言いますのは、その客観から離れ、主観からも離れ、
人間の「主観と客観」から完全に離れたところに視点が置かれます。
そこで論じられる仏教は、先日お話しました世間一般水準であるところの世俗の真理、即ち仮諦でしかありません。
学者さんは、自身の研究内容の正当性を客観性を以て示さなければなりません。
それに対し私は、物心ついた時から教学にたけた父から仏教の法理法門を叩きこまれ、自身の人生に起こり得る出来事を全て己心の一法で受け止めよと、徹底した仏教思想で育てられ、日蓮さんのお言葉どおりに、
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
と、信心実践に励んできた仏道者の立場で意見を述べさせて頂いております。
わたしはここで、学者さんが語る仏教は、客観に視点を置いて捉えた仏教で、それは凡夫視点で語る仏教でしかないと主張させて頂いております。
(※ 中には実際に僧侶の立場で学術研究なされておられる学者さんも居られます)
実際に、前に立てました質問にもその様に自ら言われておられた回答者さんがお見えでしたが、わたしとのやり取りにおいて、体裁が悪くなったのか投稿を削除されて去っていかれました。
インド論理学に四句分別というのがありまして、仏教でも心のあり方をこの四句分別を用いて言い表したりもします。
いわゆる、「無為」という事です。
では、「非空」はと言いますと、
縁起が起きないという事です。
具体的に言いますと、
人間の概念から完全に離れているということになります。
それが「非有」の意味するところです。
どういう内容かと言いますと、
まず、
実有から完全に離れている事(非有)。
それが「非有非空」です。
空を空じたところに真如が顕われると言いますが、
この中道としての空を非空とするのが「空を空じたところ」となります。
お釈迦さまが初期仏教で示された「中道」がこれにあたります。
有=常見
無=断見
非有非無=中道(空=縁起)
「非有非無」の空は、有でもなく無でもない空です。
ここでの空は縁起です。有為の法としての縁起です。
空には「非有非無」の空というのもあります。
正確には三身即一の「非有非空」の空です。
それに対し『大空経』で説かれてる空は、四元論の空です。
四元論という言い方はおかしいのですが、ここでは皆さんやれ一元論や二元論だと科学の次元と仏教の真理諦の違いも分からずにごちゃで次元論を語っておられるようなので、分かりやすくあえて間違った言い方なのですが「四元論」と言わせて頂いております。
そこで説かれている空は、「有る無し」の二元論で語られる空でした。
昨日は『小空経』で説かれている空が、
時間軸の中で起こる此縁性縁起として説かれているというお話をしました。
その手掛かりとなるのが今回お話しております
『小空経』と『大空経』の二つの空を説く
『阿含経典』とパーリ仏典です。
学者さん達がその事に
未だ気づけていないだけの話です。
が、
しかし
お釈迦さまは『阿含経典』において既に唯識を法理的に示されておられます。
しかし唯識思想の法理的原点は、その十地経よりも新しい『解深密経』における認識論的側面からの観念論的な表現に由来すると学界では考えられておられるようです。
お釈迦さまが初期仏典の般舟三昧(179年)の中で「三界唯心」という言葉を示されていた事は既に知られております。
十地経でもこの「三界唯心」の一文は出てきますが、その十地経よりも古いとされる般舟三昧です。
以下の論文が「般舟三昧経」や「三界唯心」に関連する研究として挙げられます:
「三昧と生活規範 : 般舟三昧経を事例として」
「般舟三昧と仏随念の関係について」
「三界唯心考」
これらの研究は、般舟三昧経や三界唯心の詳細な理解を深めるための重要な資料です。それぞれの詳細については、該当する論文をお読みになると良いでしょう。
今日お話する内容は、
お釈迦さまも唯識を説かれていた
というお話です。
では、お話に入ります。
日本男児であるならば。
お話を聞かれて意見を述べられたい方は、
正々堂々と「我が氏は、、、」とまずご自身の仏教的立ち位置を
潔く名乗られてから回答覧にてご投稿くだされまし。
学者視点で気づけていない
仏法者視点で気づいた
とても重要なお話です。
そういう学者さん達に
耳の穴をかっぽじいて
よ~~~~~~く聞いて頂きたいお話を
今日はさせて頂きます。
もしかしてあなたも
仏教にたずさわっておられる学者さんのお一人さんですか。
そういう卑屈な者に限って
自分の事は棚に上げ
相手の落ち度を揚げ足を取るかのように
得意げに語って去って行かれます。
わたしが問われて、自らの素性をお伝えしましても
ご自身の素性をあかそうとされない質問者さんも前スレに居られました。
戦国時代、お侍さん達は
戦の場において
まずは「是が氏は!」と自らの素性を声高らかに発したものです。
それが縁起というものです。
関わる人が変われば
仏教のあり方もまた
変って来ます。
その世界観に意識がある人が語る仏教と、
凡夫の仮観に意識がある人が語る仏教とが
同じである訳がありません。
それが空観と呼ばれる仏独特の世界観です。
本当の仏教と言いますのは、その客観から離れ、主観からも離れ、
人間の「主観と客観」から完全に離れたところに視点が置かれます。
そこで論じられる仏教は、先日お話しました世間一般水準であるところの世俗の真理、即ち仮諦でしかありません。
学者さんは、自身の研究内容の正当性を客観性を以て示さなければなりません。
それに対し私は、物心ついた時から教学にたけた父から仏教の法理法門を叩きこまれ、自身の人生に起こり得る出来事を全て己心の一法で受け止めよと、徹底した仏教思想で育てられ、日蓮さんのお言葉どおりに、
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
と、信心実践に励んできた仏道者の立場で意見を述べさせて頂いております。
わたしはここで、学者さんが語る仏教は、客観に視点を置いて捉えた仏教で、それは凡夫視点で語る仏教でしかないと主張させて頂いております。
(※ 中には実際に僧侶の立場で学術研究なされておられる学者さんも居られます)
実際に、前に立てました質問にもその様に自ら言われておられた回答者さんがお見えでしたが、わたしとのやり取りにおいて、体裁が悪くなったのか投稿を削除されて去っていかれました。