『法華経』は釈迦が説いた教えではないなどと主張している人達は
仏教が何たるかも分かっていない人達です。
文献学的(人間の認識)に立証出来るのは、
人間の認識レベルで説かれた蔵教の初期仏典ぐらいでしょう。
文献学的にはそれは証明されません。
なぜなら仏の説法は人間の認識の及ばない世界(天上界)で
なされていたからです。
龍樹も世親も『法華経』を知っていました。
蔵教の舎利弗も阿難も釈迦の直弟子達も皆、最終的に『法華経』を聴聞しております。
最終的に『法華経』の教えを聴聞して三乗は成仏します。
では、蔵教・通教・別教の三乗の教えでは成仏に至った者は居なかったのかと言いますと、それは違います。
ですから唯識では、
無漏の種子を先天的に持たない者は、
いくら仏道に励んでも仏の覚りを得るには至らないと説かれております。
いやいや「無覆無記」は阿頼耶識でしょ、阿頼耶識を説いているのが唯識でしょ。
と思われるかもしれませんが、
唯識では「無覆無記」の存在を示しているだけで
実際の「無覆無記」の内容は『法華経』に至ってはじめて明かされます。
それが「有覆無記」の意味です。
唯識では「無覆無記」は解き明かされておりません。
要するに概念として造り出された〝仏〟という事です。
概念の範疇ですから、
それは完全な無漏では無いという事です。
だから、法相宗では阿弥陀佛を対境として三昧を行います。
自身の心から阿弥陀佛を造り出す訳です。
心生の仏(阿弥陀佛)です。
「心が世界を造り出す」と説く唯識では、心から生じた「心生の十界」なんですね。
唯識が説かれた別教では、この「十界互具」は未だ解き明かされておりません。
これは『法華経』に至ってはじめて明かされる法門です。
「心具の十界」というのは、人界の凡夫の心に更に十界の心が具足して備わっていると説く「十界互具の法門」の事をいいます。
この御書で最も重要なのは次の突っ込みである、
「心具の十界を知らないでしょ」
という内容です。
この前、リダンと説一切有部における道諦が如何なるものだったかを話し合いました。
蔵教における道諦って結局、覚りは説かれていないんですよね。
蔵教のそれは無余涅槃な訳ですから。
しかも、実際のところ六道輪廻からも解脱出来ていなかったと日蓮さんは言われている訳です。
という事は、瞑想でいくら煩悩を寂滅しても
現実の生活においては何も煩悩を退治出来てはいないではないですかと、
日蓮さんは、突っ込んでおられる訳です。
虫歯が痛くてまさに地獄の苦しみを味わっている時、
瞑想で五蘊を完全停止させたら痛みから離れる事は可能です。
これは煩悩を寂滅させている訳です。
しかし、その状態で日常生活が出来ますか?
出来ませんよね。
我々人間は、五蘊の働き無しでは現実の世界で生活する事は不可能です。
どういう事なのか、解りやすく説明するのに以前こんな話をしたのを覚えてますか。
『十法界事』について説明します。
これは日蓮さんが天台宗側に突っ込みを入れている御書になります。
最初の突っ込みは、
「二乗は実際には見思惑を断じていないじゃないか」
困り果てた仏はこう言います。
おまえは山本リンダでも歌って来い!
と
しかし、二空を習得しきれていない仏道者は、
「俺は自力で瞑想がいいんや!」
とか、
「信仰なんてすがるみたいでカッコ悪いやん!」
と言って仏に対する信がなかなか起こりません。
二空を習得している仏道者は、自身の先入観や自身の価値観とらわれる事無く、言われるがままに仏に対する信仰心を起こします。
先ほどお話しました別教の菩薩は、析空で客観を空じ、体空で主観を空じてこの二空で人間の主観と客観が空じられます。すると次のステップで仏は、『大乗起信論』で仏に対する「信」を起こしなさいと説かれます。
析空・体空・法空・非空の四つの空なのですが、析空が蔵教で説かれ、体空が通教で説かれ、法空が別教で説かれ、非空が円教でそれぞれ詳しく解き明かされていきます。
ここでの「空」は、大空経で説かれる四空となります。
それに対し通教では、見る側の「人間の認識」のあり方が『唯識』で詳しく説き明かされます。
科学と同じ視点なので、ここでの「空」は『小空経』で説かれる「有る無し」の二元論となります。
いわゆる、俗世間における真理が『倶舎論』として説かれております。
ここでは人間のあり様も〝客観〟という視点で説き明かされておりますが、この視点(客観)は、科学や物理学と全く同じ視点となります。
客体(見られる側)=真実のモノのあり様 --- ① 主体(見る側) =凡夫の認識(主観と客観)--- ②
蔵教では客観として存在する客体の真理 ① が詳しく説き明かされます。
能変=変化せしめるもの 所変=変化せしめられたもの
唯識では能取を主体、所取を客体とするが、
見られる側(所取)=客体 見る側 (能取)=主体
この主体と客体の関係と、主観と客観である相分と見分とをごちゃにしないように注意が必要である。
主観=見分 客観=相分
最初に加藤氏は、「識転変」について次のように説明している。
そもそも仏教では永遠不滅な「我」や「法」というものは存在しないと考える。中観派の人々はそれを「空」であると表現していることは有名であるが、唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。スティラマティの注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
しかも、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。また、玄奘は漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところであり、ここではこれ以上立ち入らないことにする。同じ「転変」という意味で理解されたい。
あと新潟市の図書館に「唯識三十頌」を読む 加藤 弘二郎 著書
は置いてないようだったので(再販もされてないもよう)
重要な個所をここで文字お越しをやっていきます。
この御書の重要なポイントを後ほど詳しく解説致します。
ここで馬ちゃんに『十法界事』という御書を紹介します。
以前にも法介スレで紹介した御書ですが、
今回の内容と大変関係が深い内容なので
出来たら下のリンク先の講義を直接目を通される事をお勧めします。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html
過去に結縁が無い者の場合、有漏の種子が熏習されます。
それにより自身の阿頼耶識に意識は向きます。
ここで過去世に仏と結縁がある者は無漏の種子を拾い上げる事が出来ます。
これが先天性の無漏の種子です。
凡夫の主観と客観から離れる事で、意識が表層の第六意識から深層の第七末那識に変わります。
『法華経』は釈迦が説いた教えではないなどと主張している人達は
仏教が何たるかも分かっていない人達です。
文献学的(人間の認識)に立証出来るのは、
人間の認識レベルで説かれた蔵教の初期仏典ぐらいでしょう。
文献学的にはそれは証明されません。
なぜなら仏の説法は人間の認識の及ばない世界(天上界)で
なされていたからです。
龍樹も世親も『法華経』を知っていました。
蔵教の舎利弗も阿難も釈迦の直弟子達も皆、最終的に『法華経』を聴聞しております。
最終的に『法華経』の教えを聴聞して三乗は成仏します。
では、蔵教・通教・別教の三乗の教えでは成仏に至った者は居なかったのかと言いますと、それは違います。
ですから唯識では、
無漏の種子を先天的に持たない者は、
いくら仏道に励んでも仏の覚りを得るには至らないと説かれております。
いやいや「無覆無記」は阿頼耶識でしょ、阿頼耶識を説いているのが唯識でしょ。
と思われるかもしれませんが、
唯識では「無覆無記」の存在を示しているだけで
実際の「無覆無記」の内容は『法華経』に至ってはじめて明かされます。
それが「有覆無記」の意味です。
唯識では「無覆無記」は解き明かされておりません。
要するに概念として造り出された〝仏〟という事です。
概念の範疇ですから、
それは完全な無漏では無いという事です。
だから、法相宗では阿弥陀佛を対境として三昧を行います。
自身の心から阿弥陀佛を造り出す訳です。
心生の仏(阿弥陀佛)です。
「心が世界を造り出す」と説く唯識では、心から生じた「心生の十界」なんですね。
唯識が説かれた別教では、この「十界互具」は未だ解き明かされておりません。
これは『法華経』に至ってはじめて明かされる法門です。
「心具の十界」というのは、人界の凡夫の心に更に十界の心が具足して備わっていると説く「十界互具の法門」の事をいいます。
この御書で最も重要なのは次の突っ込みである、
「心具の十界を知らないでしょ」
という内容です。
この前、リダンと説一切有部における道諦が如何なるものだったかを話し合いました。
蔵教における道諦って結局、覚りは説かれていないんですよね。
蔵教のそれは無余涅槃な訳ですから。
しかも、実際のところ六道輪廻からも解脱出来ていなかったと日蓮さんは言われている訳です。
という事は、瞑想でいくら煩悩を寂滅しても
現実の生活においては何も煩悩を退治出来てはいないではないですかと、
日蓮さんは、突っ込んでおられる訳です。
虫歯が痛くてまさに地獄の苦しみを味わっている時、
瞑想で五蘊を完全停止させたら痛みから離れる事は可能です。
これは煩悩を寂滅させている訳です。
しかし、その状態で日常生活が出来ますか?
出来ませんよね。
我々人間は、五蘊の働き無しでは現実の世界で生活する事は不可能です。
どういう事なのか、解りやすく説明するのに以前こんな話をしたのを覚えてますか。
『十法界事』について説明します。
これは日蓮さんが天台宗側に突っ込みを入れている御書になります。
最初の突っ込みは、
「二乗は実際には見思惑を断じていないじゃないか」
という内容です。
困り果てた仏はこう言います。
おまえは山本リンダでも歌って来い!
と
しかし、二空を習得しきれていない仏道者は、
「俺は自力で瞑想がいいんや!」
とか、
「信仰なんてすがるみたいでカッコ悪いやん!」
と言って仏に対する信がなかなか起こりません。
二空を習得している仏道者は、自身の先入観や自身の価値観とらわれる事無く、言われるがままに仏に対する信仰心を起こします。
先ほどお話しました別教の菩薩は、析空で客観を空じ、体空で主観を空じてこの二空で人間の主観と客観が空じられます。すると次のステップで仏は、『大乗起信論』で仏に対する「信」を起こしなさいと説かれます。
析空・体空・法空・非空の四つの空なのですが、析空が蔵教で説かれ、体空が通教で説かれ、法空が別教で説かれ、非空が円教でそれぞれ詳しく解き明かされていきます。
ここでの「空」は、大空経で説かれる四空となります。
それに対し通教では、見る側の「人間の認識」のあり方が『唯識』で詳しく説き明かされます。
科学と同じ視点なので、ここでの「空」は『小空経』で説かれる「有る無し」の二元論となります。
いわゆる、俗世間における真理が『倶舎論』として説かれております。
ここでは人間のあり様も〝客観〟という視点で説き明かされておりますが、この視点(客観)は、科学や物理学と全く同じ視点となります。
客体(見られる側)=真実のモノのあり様 --- ①
主体(見る側) =凡夫の認識(主観と客観)--- ②
蔵教では客観として存在する客体の真理 ① が詳しく説き明かされます。
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
唯識では能取を主体、所取を客体とするが、
見られる側(所取)=客体
見る側 (能取)=主体
この主体と客体の関係と、主観と客観である相分と見分とをごちゃにしないように注意が必要である。
主観=見分
客観=相分
最初に加藤氏は、「識転変」について次のように説明している。
そもそも仏教では永遠不滅な「我」や「法」というものは存在しないと考える。中観派の人々はそれを「空」であると表現していることは有名であるが、唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。スティラマティの注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
しかも、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。また、玄奘は漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところであり、ここではこれ以上立ち入らないことにする。同じ「転変」という意味で理解されたい。
あと新潟市の図書館に「唯識三十頌」を読む 加藤 弘二郎 著書
は置いてないようだったので(再販もされてないもよう)
重要な個所をここで文字お越しをやっていきます。
この御書の重要なポイントを後ほど詳しく解説致します。
ここで馬ちゃんに『十法界事』という御書を紹介します。
以前にも法介スレで紹介した御書ですが、
今回の内容と大変関係が深い内容なので
出来たら下のリンク先の講義を直接目を通される事をお勧めします。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html
過去に結縁が無い者の場合、有漏の種子が熏習されます。
それにより自身の阿頼耶識に意識は向きます。
ここで過去世に仏と結縁がある者は無漏の種子を拾い上げる事が出来ます。
これが先天性の無漏の種子です。
凡夫の主観と客観から離れる事で、意識が表層の第六意識から深層の第七末那識に変わります。