安慧が主張した一分説というのは、自証分だけがあって、相分も見分もないというもので、
初期唯識では「相分=所取」で「見分=能取」でもありますので、相分・見分・所取・能取の全てが無相となります。
この護法と安慧の主張の食い違いは、実は空に対する理解の違いが根底にあったのではないかと考えられます。
この関係を正したのが護法の四分説です。
人間の認識(相分・見分)は、いい加減なもの(妄想分別)で、本来の正しいモノのあり様は人の認識から離れた①の所取にあると主張したのです。
本来、この四者の関係は、第一講でも紹介しましたが、次のような関係にあります。
所取 ①=真実のモノのあり様 能取 ②=人の認識(相分 ③ + 見分 ④ )
①=客体 ②=主体 ③=客観 ④=主観
これ↑が正しい関係(後期唯識)で↓この関係(初期唯識)は正しくありません。
所取(客体)=相分(客観) 能取(主体)=見分(主観)
「客体と主体」というのは、〝見られるモノ〟と〝見る者〟の関係でして、〝見る者〟が居て〝見られるモノ〟がある訳です。これは認識論なんですね。そういう発想で展開した唯識が、無著や安慧が展開した初期唯識です。
ここでは「客体と主体」である所取と能取の二取が、人の認識である相分と見分の二分と重なり合ってきます。
客体(所取)=見られるモノ=人の認識である相分 主体(能取)=見る者=人の認識である見分
その結果、二取と二分とが=で結びつきます。
所取=相分 能取=見分
ここで「客体と主体」と「相分と見分」の混同が生じます。
両者の違いを説明するにあたっては、第一講の最初に紹介しました「所取」と「能取」の二取の捉え方が深く関わってきます。
解りやすく言いますと、「主観と客観」と「主体と客体」の混同が問題となってきます。
認識論である『唯識』には、無著や安慧が展開した初期唯識と、世親や護法が展開した後期唯識とがあって、前者を無相唯識、後者を有相唯識と専門家の中では呼ばれております。
無相唯識=無著・安慧 有相唯識=世親・護法・玄奘
具体的に言いますと三蔵教(蔵教)のアビダルマ(論蔵)として顕された『倶舎論』が実在論で、別教で顕された『唯識』が認識論にあたります。
『倶舎論』=実在論 『唯識論』=認識論
『倶舎論』に於いては、人の在り方さえも実在論(有る無しの二元論)で説かれております。
このようにモノを状態で見ることを実在論といいます。
それに対し、大乗が用いた『空大経』は、モノの方ではなくそのモノを見る側である人の認識を四つの空で説き明かしております。
こちらは、認識論になります。
「有る無し」の空とは、モノの状態をとらえた空で、物理や科学と同じモノの見方です。
水は個体として認識されますので「有る」という状態です。
しかし、その水が蒸発して水素と酸素に分解すると気体となって認識されない状態の「無し」になります。
このように無くなった訳ではないのですが、認識されない状態で存在していることを空というのが『小空経』で説かれる空です。
『小空経』では、「有る無し」の二元論で空が説かれ、『空大経』では、四段階で空が説かれております。いわゆる「析空・体空・法空・非空」の空の四義です。
空を説く経典に『小空経』と『空大経』がありまして、小乗仏教は『小空経』で説かれる空を、大乗仏教では『空大経』で説かれる空をもとにして空思想が展開されております。
小乗仏教=『小空経』 大乗仏教=『空大経』
仏教は、大きく分けて小乗仏教と大乗仏教とに分かれます。
二分する最も大きな要因に、仏教の重要概念である「空」の理解の相違があります。
二取・二分論 勝呂 信静 https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_第8号_二取・二分論.pdf
修正
唯識における業について https://core.ac.uk/download/pdf/231050144.pdf
『成唯識論』の三性説の解釈について 吉村 誠 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36083/rbb047-06-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』の伝える安慧の一分説について 吉村 誠 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34873/jbk073-03-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』訳注(三) https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『十地経』第五難勝地における 菩薩と衆生の関係性 松岡 明子 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_1027/_pdf/-char/ja
『成唯識論』第二講 へ続きます。 https://zawazawa.jp/bison/topic/33
「大円鏡智」として開かれる第八識については後ほど詳しくお話しようと思います。
ここでは唯識の意見が分かれる有相・無相の問題を
まづは取り上げてお話を進めて行きたいと思います。
この三乗の智慧が開かれてはじめて究極の仏の智慧が顕れます。
どこに顕れるのかと言いますと、
第八識に無為の法として「大円鏡智」として顕れます。
順に示すと次のように第八識はその呼び名が変ります。
析空で変化を見ることで第八識が「異熟識」となり、---(声聞の智慧)
体空で因果を観ることで第八識が「種子識」となり、---(縁覚の智慧)
法空で我と法を空じる事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。---(菩薩の智慧)
阿羅漢(菩薩)は、その「阿頼耶識」という呼び名を捨てて、仏の覚り(大円鏡智)を得ると言います。
大乗の菩薩(別教の菩薩)は、二空で主観と客観を空じ仏の空観へ意識が入ります。
そして法空を覚る事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。
自相の第八識は、別教の菩薩の境涯で覚る「阿頼耶識」です。
>> 32
因相の「種子識」と呼ぶ場合の境涯は縁覚です。
種子生現行(順観)と現行薫種子(逆観)の縁起を
「色即是空」と「空即是色」として覚った境涯です。
この第八識の三つの呼び名には更に深い意味が含まされております。
果相の「異熟識」と呼ぶ場合、そこでの境涯は声聞です。
因果の〝果〟としての種子が時間の変化(異時熟)でその姿が変化し(変異熟)、前六識で転変(第三能変)し現行して顕れる分別の色相(姿・形・風景)です。
>> 12の「執蔵=執我の義」が、逼計所執性で
>> 13の「所蔵=受薫の義」が、依他起性で
>> 14の「能蔵=持種の義」が、円成実性となります。
では、自相である「阿頼耶識」は、と言いますと、
逼計所執性・依他起性・円成実性からなる三性説です。
分別の相として顕れる十界の色相です。
過去世の自身の業によって生まれ出た
今のあなたの姿とあなたを取り巻く環境です。
(過去世の業によって生じた結果の色相)
そこに気づくと、更にもう一つ重要な事にも気づきます。
果相として観る「異熟識」が何を意味しているかという事です。
>> 16の「界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に」
の言葉がそれを顕しております。
ここでは、色即是空が順観の縁起として説かれ ---(種子生現行)
空即是色が逆観の縁起として説かれております。 ---(現行薫種子)
しかし、この因相(種子識)が
仏の認識である空観を説いていると気づける人は、
そんなには居られないかと思います。
ここで言う「展転力」が何を意味するのか、 それは学者さんの中でも広く知られていることです。
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」による相続がここで説かれております。
>> 24の文章を読んである事に気づかれた方は、大した境涯の方でしょう。
学者さんでそれに気づけている人は
まず、居られないかと思います。
此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
この因相としての「種子識」については、第18頌で詳しく説かれております。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。
第八識を「種子識」と呼ぶ時は、識の中の種子を顕しております。種子を持った識を顕しているのではありません。その意味はこの後に詳しく説かれております。
果の相に対し因の相として第八識をみるのが「種子識」です。
諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。
「執持」とは、しっかりと保持することを意味します。
変異熟は、姿や形、あり様が「縁」によって変化した様。
異時熟は、時間の相違を「縁」として生じた結果。
異類熟は、善や悪を因として生じる結果。
このような果の相として見る第八識が「異熟識」です。
〝異熟〟の意味は>> 19のような内容かと思われます。
そして、この異熟識には、次の三つの熟があると言われます。
変異熟・異時熟・異類熟
種子説の研究 近藤 伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/HB/A085/HBA0851L001.pdf
異熟生には二つの意味があり、一つ目は「異熟という性質によって」、つまり異熟という過程を経て生じるが故に異熟生と呼ばれ、二つ目は異熟=アーラヤ識から生じるが故に異熟生と呼ばれる。この二つ目はでも説かれていたが、一つ目はアーラヤ識あるいは種子から果が生じる「過程」を異熟と名づけている。そして『成唯識論』になると、より明確に、異熟がアーラヤ識と現行識の間に生じる「変化の過程」であると語られることになる。
~省略~
アーラヤ識から現行識が生じること、及び現行識からアーラヤ識が生じることが異熟果であると述べられている。これに従えば、アーラヤ識と現行識は互いにとって、それぞれ異熟因であり、異熟果であることになる。すなわちアーラヤ識と現行識は相互に因となり果となる関係にありながら、互いに異質であるため、両者の間の変化は必ず異熟とされなければならない。これが唯識における異熟の意味するところである。そのことは、『成唯識論』の次の箇所からも明らかである。
安慧が主張した一分説というのは、自証分だけがあって、相分も見分もないというもので、
初期唯識では「相分=所取」で「見分=能取」でもありますので、相分・見分・所取・能取の全てが無相となります。
この護法と安慧の主張の食い違いは、実は空に対する理解の違いが根底にあったのではないかと考えられます。
この関係を正したのが護法の四分説です。
人間の認識(相分・見分)は、いい加減なもの(妄想分別)で、本来の正しいモノのあり様は人の認識から離れた①の所取にあると主張したのです。
本来、この四者の関係は、第一講でも紹介しましたが、次のような関係にあります。
所取 ①=真実のモノのあり様
能取 ②=人の認識(相分 ③ + 見分 ④ )
①=客体 ②=主体 ③=客観 ④=主観
これ↑が正しい関係(後期唯識)で↓この関係(初期唯識)は正しくありません。
所取(客体)=相分(客観)
能取(主体)=見分(主観)
「客体と主体」というのは、〝見られるモノ〟と〝見る者〟の関係でして、〝見る者〟が居て〝見られるモノ〟がある訳です。これは認識論なんですね。そういう発想で展開した唯識が、無著や安慧が展開した初期唯識です。
ここでは「客体と主体」である所取と能取の二取が、人の認識である相分と見分の二分と重なり合ってきます。
客体(所取)=見られるモノ=人の認識である相分
主体(能取)=見る者=人の認識である見分
その結果、二取と二分とが=で結びつきます。
所取=相分
能取=見分
ここで「客体と主体」と「相分と見分」の混同が生じます。
両者の違いを説明するにあたっては、第一講の最初に紹介しました「所取」と「能取」の二取の捉え方が深く関わってきます。
解りやすく言いますと、「主観と客観」と「主体と客体」の混同が問題となってきます。
認識論である『唯識』には、無著や安慧が展開した初期唯識と、世親や護法が展開した後期唯識とがあって、前者を無相唯識、後者を有相唯識と専門家の中では呼ばれております。
無相唯識=無著・安慧
有相唯識=世親・護法・玄奘
具体的に言いますと三蔵教(蔵教)のアビダルマ(論蔵)として顕された『倶舎論』が実在論で、別教で顕された『唯識』が認識論にあたります。
『倶舎論』=実在論
『唯識論』=認識論
『倶舎論』に於いては、人の在り方さえも実在論(有る無しの二元論)で説かれております。
このようにモノを状態で見ることを実在論といいます。
それに対し、大乗が用いた『空大経』は、モノの方ではなくそのモノを見る側である人の認識を四つの空で説き明かしております。
こちらは、認識論になります。
「有る無し」の空とは、モノの状態をとらえた空で、物理や科学と同じモノの見方です。
水は個体として認識されますので「有る」という状態です。
しかし、その水が蒸発して水素と酸素に分解すると気体となって認識されない状態の「無し」になります。
このように無くなった訳ではないのですが、認識されない状態で存在していることを空というのが『小空経』で説かれる空です。
『小空経』では、「有る無し」の二元論で空が説かれ、『空大経』では、四段階で空が説かれております。いわゆる「析空・体空・法空・非空」の空の四義です。
空を説く経典に『小空経』と『空大経』がありまして、小乗仏教は『小空経』で説かれる空を、大乗仏教では『空大経』で説かれる空をもとにして空思想が展開されております。
小乗仏教=『小空経』
大乗仏教=『空大経』
仏教は、大きく分けて小乗仏教と大乗仏教とに分かれます。
二分する最も大きな要因に、仏教の重要概念である「空」の理解の相違があります。
二取・二分論 勝呂 信静
https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_第8号_二取・二分論.pdf
修正
唯識における業について
https://core.ac.uk/download/pdf/231050144.pdf
『成唯識論』の三性説の解釈について 吉村 誠
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36083/rbb047-06-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』の伝える安慧の一分説について 吉村 誠
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34873/jbk073-03-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『十地経』第五難勝地における 菩薩と衆生の関係性 松岡 明子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_1027/_pdf/-char/ja
『成唯識論』第二講 へ続きます。
https://zawazawa.jp/bison/topic/33
「大円鏡智」として開かれる第八識については後ほど詳しくお話しようと思います。
ここでは唯識の意見が分かれる有相・無相の問題を
まづは取り上げてお話を進めて行きたいと思います。
この三乗の智慧が開かれてはじめて究極の仏の智慧が顕れます。
どこに顕れるのかと言いますと、
第八識に無為の法として「大円鏡智」として顕れます。
順に示すと次のように第八識はその呼び名が変ります。
析空で変化を見ることで第八識が「異熟識」となり、---(声聞の智慧)
体空で因果を観ることで第八識が「種子識」となり、---(縁覚の智慧)
法空で我と法を空じる事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。---(菩薩の智慧)
阿羅漢(菩薩)は、その「阿頼耶識」という呼び名を捨てて、仏の覚り(大円鏡智)を得ると言います。
大乗の菩薩(別教の菩薩)は、二空で主観と客観を空じ仏の空観へ意識が入ります。
そして法空を覚る事で第八識が「阿頼耶識」と変わります。
自相の第八識は、別教の菩薩の境涯で覚る「阿頼耶識」です。
>> 32
因相の「種子識」と呼ぶ場合の境涯は縁覚です。
種子生現行(順観)と現行薫種子(逆観)の縁起を
「色即是空」と「空即是色」として覚った境涯です。
この第八識の三つの呼び名には更に深い意味が含まされております。
果相の「異熟識」と呼ぶ場合、そこでの境涯は声聞です。
因果の〝果〟としての種子が時間の変化(異時熟)でその姿が変化し(変異熟)、前六識で転変(第三能変)し現行して顕れる分別の色相(姿・形・風景)です。
>> 12の「執蔵=執我の義」が、逼計所執性で
>> 13の「所蔵=受薫の義」が、依他起性で
>> 14の「能蔵=持種の義」が、円成実性となります。
では、自相である「阿頼耶識」は、と言いますと、
逼計所執性・依他起性・円成実性からなる三性説です。
分別の相として顕れる十界の色相です。
過去世の自身の業によって生まれ出た
今のあなたの姿とあなたを取り巻く環境です。
(過去世の業によって生じた結果の色相)
そこに気づくと、更にもう一つ重要な事にも気づきます。
果相として観る「異熟識」が何を意味しているかという事です。
>> 16の「界と趣と生とを引く善・不善の業の異熟果なるが故に」
の言葉がそれを顕しております。
ここでは、色即是空が順観の縁起として説かれ ---(種子生現行)
空即是色が逆観の縁起として説かれております。 ---(現行薫種子)
しかし、この因相(種子識)が
仏の認識である空観を説いていると気づける人は、
そんなには居られないかと思います。
ここで言う「展転力」が何を意味するのか、
それは学者さんの中でも広く知られていることです。
「種子生現行」と「現行薫種子」による「種子生種子」による相続がここで説かれております。
>> 24の文章を読んである事に気づかれた方は、大した境涯の方でしょう。
学者さんでそれに気づけている人は
まず、居られないかと思います。
此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。謂く、生の位より転じて熟の時に至る。変ぜられる種は多なりということを顕さんとして、重ねて如是と言う。謂く、一切種に三熏習と共・不共等の識種を摂め尽くすが故に。展転力とは、謂く八の現識と及び彼の相応と相・見分等なり。彼は皆互いに相い助ける力有るが故に。即ち現識等を総じて分別と名づく。虚妄分別をもって自性と為すが故に。分別の類多きが故に彼彼と言えり。此の頌の意の説かく、外縁は無しと雖も、本識の中に一切種の転変する差別有るに由り。及び現行の八種の識等の展転する力を以ての故に、彼彼の分別而も亦た生ずることを得る。何ぞ外縁を仮って方に分別を起こさんや。諸々の浄法の起こることも、応に知るべし。亦た然なり。浄種と現行とを縁と為して生ずるが故に。
この因相としての「種子識」については、第18頌で詳しく説かれております。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。
第八識を「種子識」と呼ぶ時は、識の中の種子を顕しております。種子を持った識を顕しているのではありません。その意味はこの後に詳しく説かれております。
果の相に対し因の相として第八識をみるのが「種子識」です。
諸法の種子を執持して、失せざらしむるが故に、一切種と名づく。此に離れて、余の法、能く遍く諸法の種子を執持すること、得可からざるが故に、此は即ち、初能変の識に所有る因相を顕示す。この識の因相は、多種有りと雖も、種を持することは不共なり。
「執持」とは、しっかりと保持することを意味します。
変異熟は、姿や形、あり様が「縁」によって変化した様。
異時熟は、時間の相違を「縁」として生じた結果。
異類熟は、善や悪を因として生じる結果。
このような果の相として見る第八識が「異熟識」です。
〝異熟〟の意味は>> 19のような内容かと思われます。
そして、この異熟識には、次の三つの熟があると言われます。
変異熟・異時熟・異類熟
種子説の研究 近藤 伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/HB/A085/HBA0851L001.pdf
異熟生には二つの意味があり、一つ目は「異熟という性質によって」、つまり異熟という過程を経て生じるが故に異熟生と呼ばれ、二つ目は異熟=アーラヤ識から生じるが故に異熟生と呼ばれる。この二つ目はでも説かれていたが、一つ目はアーラヤ識あるいは種子から果が生じる「過程」を異熟と名づけている。そして『成唯識論』になると、より明確に、異熟がアーラヤ識と現行識の間に生じる「変化の過程」であると語られることになる。
~省略~
アーラヤ識から現行識が生じること、及び現行識からアーラヤ識が生じることが異熟果であると述べられている。これに従えば、アーラヤ識と現行識は互いにとって、それぞれ異熟因であり、異熟果であることになる。すなわちアーラヤ識と現行識は相互に因となり果となる関係にありながら、互いに異質であるため、両者の間の変化は必ず異熟とされなければならない。これが唯識における異熟の意味するところである。そのことは、『成唯識論』の次の箇所からも明らかである。