<メモ書き>
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html
比丘たちよ、では、行(意志のうごき)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの行がある。すなわち、身における行と、口における行と、心における行とがそれである。比丘たちよ、これを行というのである。
比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。
いわゆる、因縁、等無間縁、所縁縁、 増上縁の四種を縁として起こる縁起です。
この四縁がどのように縁起するのかは後ほど詳しくお話するとして、
ここでは『成唯識論』巻の第二の内容に沿って先に進みたいと思います。
心法を「有る無し」の二元論で説いてしまっているんですね。
無我は自分が無いんです、とか
自分は存在しないんです、といった「有る無し」で語っている仏教がそれにあたります。
そういった「有る無し」の理論は、所取の客体に於ける縁起(所縁)にのみ適応されるものであって、能縁側である主体は、客観(相分)と主観(見分)を踏まえた複雑な理論で成り立っております。
決して「有る無し」の二元論で語れるものではありません。
『成唯識論』ではその人の認識(客観と主観)を四つの縁起を用いて詳しく解き明かしておりま。
人の客観認識はシンプルな構造なんですね。
それは「モノの見え方」の問題ですので。
しかし、人の主観となるとそうはいきません。
主観が起こる仕組みってとても複雑なんです。
なので所縁が縁じて所縁縁だから、能縁が縁って能縁縁って事ではないんです。
それをやってしまっているのが『倶舎論』で心法を説いている上座部や初期唯識思想になります。
①が所縁で③が所縁縁になります。
では②が能縁で④が能縁縁になるのかと言いますと、
そうはなりません。
①所縁・③所縁縁=〇 ②能縁・④能縁縁=×
『成唯識論』では能縁縁なる言葉は、使われておりません。
この<後期唯識>の構図が、護法等が主張した四分説の構図となります。
初期唯識では、この客体と客観が似ている為、どちらも同じくくりで扱われておりました。
「相分」というくくりです。
似ているのですが、ここはちゃんと別ものとして扱わないとおかしなことになりますよって主張し出したのが、護法等による後期唯識思想です。
<初期唯識> 相分=客観・客体(所取)--- ① 見分=主観・主体(能取)--- ②
<後期唯識> 客体(所取①)=モノのあり方 主体(能取②)=認識のあり様「客観(相分③)と主観(見分④)」
この所縁と所縁縁とは、似ていますが別モノです。
所縁=客体 --- ① 所縁縁=客観 --- ②
これは、
見られるモノ=客体① 見る者=主体②(客観③と主観④)
という位置関係にあります。
それを真横から見ている人には
それは長方形の物体として認識されます。
これも「所縁縁」です。
同じ対象を見ても、見る人に依って認識のされようが異なって見えます。
それは所縁である対象に縁する人が変わるからです。
なので「所縁縁」なのです。
その所縁を自身の自我意識で認識することで所縁に似た「所縁縁」となります。
例えば、缶ジュースを所縁の姿・形とします。
それを真上から見ている人には円形の物体として認識されます。
これが「所縁縁」です。
自我意識によって起こる所縁の事を「自の所縁」と言います。
後で出てくると思いますが「所縁縁」という「所縁」と似たような用語が出てきます。
実は、この「所縁縁」がこの「自の所縁」にあたります。
所縁=実際の対境の姿・形 --- ①
この①の姿・形は此縁性縁起で形成された姿・形です。
なので所(客体)の縁(縁起)で所縁です。
「仗して」という意味は、「まもる」という意味があるようです。
という事は、行相がこれ(所縁)を守ろうとして起こるのが「自の所縁」という事になります。
自衛として起こる所縁のようなものでしょうか。
自衛って何の事だかわかりますか
自我です。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
ここで「自の所緣」と論では言っております。
ただの所縁ではないんです、「自」の所縁です。(←ここ要注意!)
なぜ「自の所縁」なのか、
それは「行相」がこれに仗して起るからです。
「仗して起る」?
聞きなれない言葉ですよね。
又心心所若細分別應有四分,三分如前,復有第四證自證分。
又、心心所を若し細く分別するに、四分有るべし。三分は前の如し、復第四の證自證分有り。
此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。
此いい若し無くんば、誰か第三を證せむ、心分をいうは既に同なるをもって、皆證すべきが故に。
又自證分應無有果,諸能量者必有果故。
又、自證分は、果有ること無かるべし、諸の能量は必ず果有るが故に。
不應見分是第三果,見分或時非量攝故。
見分は是れ、第三が果には應ぜず、見分は或時には、非量にも攝するが故に。
由此見分不證第三,證自體者必現量故。
此に由って見分は第三を證せず、自体を證するは、必ず現量なるが故に。
此四分中,前二是外、後二是內。
此の四分の中に、前の二は是れ外なり、後の二は是れ內なり。
『成唯識論』巻の第二 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,
此の中に、了とはいわく、異熟識いい自の所緣に於て了別の用有るなり。
此了別用見分所攝。
此の了別の用は、見分に攝めらる。
然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。
然も有漏識の自体生ずる時に、皆所緣・能緣に似る相現ず。
彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。
彼の相應法も應に知るべし亦爾なり。所緣に似る相をば、說いて相分と名け、能緣に似る相をば、說いて見分と名く。
若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,
若し心心所の所緣の相無くんば、自の所縁の境を縁ずること能はざるべし。
或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。
或は一一いい、能く一切を縁ずべじ、自境も餘の如く餘も自の如くあるべきが故に。
若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,
若し心心所いい能緣の相無くんば、能緣にあらざるべし、虛空等の如し。
或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。如契經說 一切唯有覺, 所覺義皆無,能覺所覺分, 各自然而轉。
或は虛空等も、亦是れ能緣なるべし。故に心心所は、必ず二の相有り。契經に說けるが如し、一切は唯覺み有り、 所覺の義は皆無し、能覺と所覺との分いい、各々自然にして而も転ずという。
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。
識に離れたる所緣の境有りと執する者、彼が說かく、外境は是れ所緣なり、相分をば行相と名け、見分をば事と名く、是れ心心所の自体の相なるが故に。
心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。
心と心所とは、所依・緣同なり、行相相似せり。事は數等しと雖、而も相各々異り、識と受と想との等きいい、相各別なるが故にという。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,
識に離たる所緣の境無しと達せる者則ち說かく、相分は是れ所緣なり、見分をば行相と名く。
相見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。
相と見とが所依の自体をば事と名く、即ち自證分なり。此いい若し無くんば、自ら心心所法をば憶せざるべし、曾更ざりし境をば、必ず憶すること能はざるが如くなるが故に。
心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,
心と心所とは所依の根同なり、所緣相似せり、行相各別なり、了別し領納するが等き作用各々異が故に。
事雖數等而相各異,識受等體有差別故。
事は數等しと雖も、而も相各々異り、識と受との等き、体差別有るが故に。
然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。
然も心と心所とは、一一いい生ずる時に、理を以て推徵するに、各々三の分有り、所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは、必ず所依の体有るが故に。
如《集量論》伽他中說 似境相所量, 能取相自證,即能量及果, 此三體無別。
『集量論』の伽他の中に說くが如し、境に似たる相は所量なり、能く相を取ると自證とは、即ち能量と及び果となり、此の三は体無なること無しという。
ここから論(成唯識論)は、
なぜその無相唯識が起きたのかの詳しい説明に入って行きます。
それまでの認識は、「外境無し」だったんです。---(無相唯識)
この無相の唯識を
初期唯識とか古典唯識とかいいます。
『成唯識論』では、この時点ではっきりと、
「外境有り」を宣言しているんですね。
識変に依ってその人が生きて行く環境世界が
こころの外に出来る(生じる)と言っているのです。
いわゆる、外境です。
ここで注意して見て欲しいのが、
「内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」
の部分です。
執受に依って自体と為すと。
執受とは、執着するこころです。
その執着するこころに依って、自身の身体と環境世界がとが生じると。
種子については、『成唯識論』第一講と『成唯識論』第二講とで詳しく紹介して来ました。
有根身は、
とありますように自身の体(肉体)の事を言います。
有根身=身体
次に執受とは、
と、ありますように執受には、種子と有根身の二つが有ると。
そういった、人間の生まれながらの不自由は、この有情に依って起こる現象(縁起)なんですね。
有情は非情に対する言葉で、
感情を持っている生き物に起こるこころ(識)です。
器世間というのは、人を取り巻く環境世界の事です。
人には生まれながらにしての身体の違いがあります。
健康な体で生まれて来る人もいれば、不自由な体で生まれ出なければならない人。
また、優しい親の元に生まれる人もいれば、DVを振るう親の元に生まれなければいけない人。
戦下に絶えない国に生まれる人もいれば、日本のような平和な国に生まれる人もいる。
では、執受と處と了は、どういう事かと言いますと、
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。 處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
と、ありますように、處は器世間であり、それは有情に依って起こる器世間であると。
了別とは、立て分ける事を了解するという意味です。
了解するのは自分です。
なのでこの行相は能取(主体)側で起こる縁起になります。---(能縁)
行相=能縁
と、あります通り、執受と處と了とを了別することを行相といいます。
不可知(ふかち)と言うのは、人知では知ることができないという意味です。
人が知り得ない、執受と処と了についての説明です。
引用しております>> 12の文章は、その第三頌の
「不可知の執受処と了となり」について書かれている個所です。
『成唯識論』巻の第二では、『唯識三十頌』の以下の二頌の説明がなされております。
3不可知執受 處了常與觸 作意受想思 相應唯捨受 4是無覆無記 觸等亦如是 恒轉如瀑流 阿羅漢位捨
『成唯識論』巻の第二 からの引用です。 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
語訳は、『国訳大蔵経』 論部第十 によるところです。
謂假必依真事似事共法而立
仮は必ず真事と似事と共法とに依って立つ
如有真火 有似火人
真の火有り、火に似る人有り
有猛赤法乃可假說此人為火
猛赤の法有るをもって、乃ち仮って此の人を説いて人とす可きが如し
假說牛等應知亦然
仮って牛等と説くことも、應(まさ)に知るべし亦然なり
我法若無 依何假說
我法いい若し無くんば、何に依ってか仮って説かむ
依何假說 無假說故
仮って説くべきこと無きが故に、似も亦成ぜずなぬ
似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理
如何ぞ、心いい外境に似て転ずと説くという、彼が難ずること理に非ず
離識我法前已破故 依類依實假說火等 俱不成
識に離れたる我法は、前に己(すで)に破してしが故に、類に依り実に依って仮って火等を説くという 俱(とも)に成ぜざるが故に
依類假說理且不成,猛赤等德非類有故
類に依って仮説すという理いい且つ成ぜず、猛と赤との等(ごと)きの徳は、類に有るものには非ざるが故に
若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。
若し、共徳は無けれども、而も仮って彼を説くといはば、亦水等の於(うえ)にも仮って火等の名を説くべし
若謂猛等雖非類德而不相離故可假說 此亦不然 人類猛等現見亦有互相離故。
若しいわく、猛等は類が徳には非ずと雖も、而も相離せず、故に仮って説く可しといはば、此れも亦然らず、人類と猛等とは、現に見るに、亦互に相離れたることるが故に
類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。
類いい既に徳無く、又互に相離れたり、然るを、人の於(うえ)に仮って火等を説くこと有るべけむや、故に知る、仮説は類に依っては成ぜずということを
依實假說理亦不成 猛赤等德非共有故
実に依って仮説すということ、理いい亦成ぜず、猛赤等の徳は共有に非ざるが故に
謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故
いわく、猛赤の等(ごと)きは、火に在ると人に在ると其の体各別なり、所依異るが故に
お話を中断して
ここから文字お越し作業をやります。
『成唯識論述記』訳注(一) https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『成唯識論述記』訳注(三) https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/551/files/09曾根訳注.pdf
この三頌を玄奘は、『成唯識論』の中で、
この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
と述べ、「恒審思量」の説明から始めております。
『成唯識論』卷第四 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
5次第二能變, 是識名末那, 依彼轉緣彼, 思量為性相。 6四煩惱常俱, 謂我癡我見, 并我慢我愛, 及餘觸等俱。 7有覆無記攝, 隨所生所繫, 阿羅漢滅定, 出世道無有。
論曰:次初異熟能變識後,應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恒審思量勝餘識故。此名何異第六意識。此持業釋,如藏識名,識即意故。彼依主釋,如眼識等,識異意故。
この末那識について説明しているのが第五頌・第六頌・第七頌です。
【第五頌】 次第二能變 是識名末那 依彼轉緣彼 思量為性相
【第六頌】 四煩惱常俱 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等俱
【第七頌】 有覆無記攝 隨所生所繫 阿羅漢滅定 出世道無有
そもそも〝仏〟と言っている時点で他との分別が起きております。
そこのところを龍樹が『中論』で鋭く指摘しております。
2.仏と如来の違い https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
仏さまには、自我はあります。
自分と他者の区別があるから一切衆生(他者)を救いたいという意識(思慮)が起こります。
<メモ書き>
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html
比丘たちよ、では、行(意志のうごき)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの行がある。すなわち、身における行と、口における行と、心における行とがそれである。比丘たちよ、これを行というのである。
比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。
いわゆる、因縁、等無間縁、所縁縁、 増上縁の四種を縁として起こる縁起です。
この四縁がどのように縁起するのかは後ほど詳しくお話するとして、
ここでは『成唯識論』巻の第二の内容に沿って先に進みたいと思います。
心法を「有る無し」の二元論で説いてしまっているんですね。
無我は自分が無いんです、とか
自分は存在しないんです、といった「有る無し」で語っている仏教がそれにあたります。
そういった「有る無し」の理論は、所取の客体に於ける縁起(所縁)にのみ適応されるものであって、能縁側である主体は、客観(相分)と主観(見分)を踏まえた複雑な理論で成り立っております。
決して「有る無し」の二元論で語れるものではありません。
『成唯識論』ではその人の認識(客観と主観)を四つの縁起を用いて詳しく解き明かしておりま。
人の客観認識はシンプルな構造なんですね。
それは「モノの見え方」の問題ですので。
しかし、人の主観となるとそうはいきません。
主観が起こる仕組みってとても複雑なんです。
なので所縁が縁じて所縁縁だから、能縁が縁って能縁縁って事ではないんです。
それをやってしまっているのが『倶舎論』で心法を説いている上座部や初期唯識思想になります。
①が所縁で③が所縁縁になります。
では②が能縁で④が能縁縁になるのかと言いますと、
そうはなりません。
①所縁・③所縁縁=〇
②能縁・④能縁縁=×
『成唯識論』では能縁縁なる言葉は、使われておりません。
この<後期唯識>の構図が、護法等が主張した四分説の構図となります。
初期唯識では、この客体と客観が似ている為、どちらも同じくくりで扱われておりました。
「相分」というくくりです。
似ているのですが、ここはちゃんと別ものとして扱わないとおかしなことになりますよって主張し出したのが、護法等による後期唯識思想です。
<初期唯識>
相分=客観・客体(所取)--- ①
見分=主観・主体(能取)--- ②
<後期唯識>
客体(所取①)=モノのあり方
主体(能取②)=認識のあり様「客観(相分③)と主観(見分④)」
この所縁と所縁縁とは、似ていますが別モノです。
所縁=客体 --- ①
所縁縁=客観 --- ②
これは、
見られるモノ=客体①
見る者=主体②(客観③と主観④)
という位置関係にあります。
それを真横から見ている人には
それは長方形の物体として認識されます。
これも「所縁縁」です。
同じ対象を見ても、見る人に依って認識のされようが異なって見えます。
それは所縁である対象に縁する人が変わるからです。
なので「所縁縁」なのです。
その所縁を自身の自我意識で認識することで所縁に似た「所縁縁」となります。
例えば、缶ジュースを所縁の姿・形とします。
それを真上から見ている人には円形の物体として認識されます。
これが「所縁縁」です。
自我意識によって起こる所縁の事を「自の所縁」と言います。
後で出てくると思いますが「所縁縁」という「所縁」と似たような用語が出てきます。
実は、この「所縁縁」がこの「自の所縁」にあたります。
所縁=実際の対境の姿・形 --- ①
この①の姿・形は此縁性縁起で形成された姿・形です。
なので所(客体)の縁(縁起)で所縁です。
「仗して」という意味は、「まもる」という意味があるようです。
という事は、行相がこれ(所縁)を守ろうとして起こるのが「自の所縁」という事になります。
自衛として起こる所縁のようなものでしょうか。
自衛って何の事だかわかりますか
自我です。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
ここで「自の所緣」と論では言っております。
ただの所縁ではないんです、「自」の所縁です。(←ここ要注意!)
なぜ「自の所縁」なのか、
それは「行相」がこれに仗して起るからです。
「仗して起る」?
聞きなれない言葉ですよね。
又心心所若細分別應有四分,三分如前,復有第四證自證分。
又、心心所を若し細く分別するに、四分有るべし。三分は前の如し、復第四の證自證分有り。
此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。
此いい若し無くんば、誰か第三を證せむ、心分をいうは既に同なるをもって、皆證すべきが故に。
又自證分應無有果,諸能量者必有果故。
又、自證分は、果有ること無かるべし、諸の能量は必ず果有るが故に。
不應見分是第三果,見分或時非量攝故。
見分は是れ、第三が果には應ぜず、見分は或時には、非量にも攝するが故に。
由此見分不證第三,證自體者必現量故。
此に由って見分は第三を證せず、自体を證するは、必ず現量なるが故に。
此四分中,前二是外、後二是內。
此の四分の中に、前の二は是れ外なり、後の二は是れ內なり。
『成唯識論』巻の第二
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,
此の中に、了とはいわく、異熟識いい自の所緣に於て了別の用有るなり。
此了別用見分所攝。
此の了別の用は、見分に攝めらる。
然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。
然も有漏識の自体生ずる時に、皆所緣・能緣に似る相現ず。
彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。
彼の相應法も應に知るべし亦爾なり。所緣に似る相をば、說いて相分と名け、能緣に似る相をば、說いて見分と名く。
若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,
若し心心所の所緣の相無くんば、自の所縁の境を縁ずること能はざるべし。
或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。
或は一一いい、能く一切を縁ずべじ、自境も餘の如く餘も自の如くあるべきが故に。
若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,
若し心心所いい能緣の相無くんば、能緣にあらざるべし、虛空等の如し。
或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。如契經說 一切唯有覺, 所覺義皆無,能覺所覺分, 各自然而轉。
或は虛空等も、亦是れ能緣なるべし。故に心心所は、必ず二の相有り。契經に說けるが如し、一切は唯覺み有り、 所覺の義は皆無し、能覺と所覺との分いい、各々自然にして而も転ずという。
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。
識に離れたる所緣の境有りと執する者、彼が說かく、外境は是れ所緣なり、相分をば行相と名け、見分をば事と名く、是れ心心所の自体の相なるが故に。
心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。
心と心所とは、所依・緣同なり、行相相似せり。事は數等しと雖、而も相各々異り、識と受と想との等きいい、相各別なるが故にという。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,
識に離たる所緣の境無しと達せる者則ち說かく、相分は是れ所緣なり、見分をば行相と名く。
相見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。
相と見とが所依の自体をば事と名く、即ち自證分なり。此いい若し無くんば、自ら心心所法をば憶せざるべし、曾更ざりし境をば、必ず憶すること能はざるが如くなるが故に。
心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,
心と心所とは所依の根同なり、所緣相似せり、行相各別なり、了別し領納するが等き作用各々異が故に。
事雖數等而相各異,識受等體有差別故。
事は數等しと雖も、而も相各々異り、識と受との等き、体差別有るが故に。
然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。
然も心と心所とは、一一いい生ずる時に、理を以て推徵するに、各々三の分有り、所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは、必ず所依の体有るが故に。
如《集量論》伽他中說 似境相所量, 能取相自證,即能量及果, 此三體無別。
『集量論』の伽他の中に說くが如し、境に似たる相は所量なり、能く相を取ると自證とは、即ち能量と及び果となり、此の三は体無なること無しという。
ここから論(成唯識論)は、
なぜその無相唯識が起きたのかの詳しい説明に入って行きます。
それまでの認識は、「外境無し」だったんです。---(無相唯識)
この無相の唯識を
初期唯識とか古典唯識とかいいます。
『成唯識論』では、この時点ではっきりと、
「外境有り」を宣言しているんですね。
識変に依ってその人が生きて行く環境世界が
こころの外に出来る(生じる)と言っているのです。
いわゆる、外境です。
ここで注意して見て欲しいのが、
「内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」
の部分です。
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受に依って自体と為すと。
執受とは、執着するこころです。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
その執着するこころに依って、自身の身体と環境世界がとが生じると。
種子については、『成唯識論』第一講と『成唯識論』第二講とで詳しく紹介して来ました。
有根身は、
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
とありますように自身の体(肉体)の事を言います。
有根身=身体
次に執受とは、
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
と、ありますように執受には、種子と有根身の二つが有ると。
そういった、人間の生まれながらの不自由は、この有情に依って起こる現象(縁起)なんですね。
有情は非情に対する言葉で、
感情を持っている生き物に起こるこころ(識)です。
器世間というのは、人を取り巻く環境世界の事です。
人には生まれながらにしての身体の違いがあります。
健康な体で生まれて来る人もいれば、不自由な体で生まれ出なければならない人。
また、優しい親の元に生まれる人もいれば、DVを振るう親の元に生まれなければいけない人。
戦下に絶えない国に生まれる人もいれば、日本のような平和な国に生まれる人もいる。
では、執受と處と了は、どういう事かと言いますと、
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
と、ありますように、處は器世間であり、それは有情に依って起こる器世間であると。
了別とは、立て分ける事を了解するという意味です。
了解するのは自分です。
なのでこの行相は能取(主体)側で起こる縁起になります。---(能縁)
行相=能縁
謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
と、あります通り、執受と處と了とを了別することを行相といいます。
不可知(ふかち)と言うのは、人知では知ることができないという意味です。
人が知り得ない、執受と処と了についての説明です。
引用しております>> 12の文章は、その第三頌の
「不可知の執受処と了となり」について書かれている個所です。
『成唯識論』巻の第二では、『唯識三十頌』の以下の二頌の説明がなされております。
3不可知執受 處了常與觸
作意受想思 相應唯捨受
4是無覆無記 觸等亦如是
恒轉如瀑流 阿羅漢位捨
『成唯識論』巻の第二 からの引用です。
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
語訳は、『国訳大蔵経』 論部第十 によるところです。
謂假必依真事似事共法而立
仮は必ず真事と似事と共法とに依って立つ
如有真火 有似火人
真の火有り、火に似る人有り
有猛赤法乃可假說此人為火
猛赤の法有るをもって、乃ち仮って此の人を説いて人とす可きが如し
假說牛等應知亦然
仮って牛等と説くことも、應(まさ)に知るべし亦然なり
我法若無 依何假說
我法いい若し無くんば、何に依ってか仮って説かむ
依何假說 無假說故
仮って説くべきこと無きが故に、似も亦成ぜずなぬ
似亦不成,如何說心似外境轉彼難非理
如何ぞ、心いい外境に似て転ずと説くという、彼が難ずること理に非ず
離識我法前已破故 依類依實假說火等 俱不成
識に離れたる我法は、前に己(すで)に破してしが故に、類に依り実に依って仮って火等を説くという 俱(とも)に成ぜざるが故に
依類假說理且不成,猛赤等德非類有故
類に依って仮説すという理いい且つ成ぜず、猛と赤との等(ごと)きの徳は、類に有るものには非ざるが故に
若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。
若し、共徳は無けれども、而も仮って彼を説くといはば、亦水等の於(うえ)にも仮って火等の名を説くべし
若謂猛等雖非類德而不相離故可假說 此亦不然 人類猛等現見亦有互相離故。
若しいわく、猛等は類が徳には非ずと雖も、而も相離せず、故に仮って説く可しといはば、此れも亦然らず、人類と猛等とは、現に見るに、亦互に相離れたることるが故に
類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。
類いい既に徳無く、又互に相離れたり、然るを、人の於(うえ)に仮って火等を説くこと有るべけむや、故に知る、仮説は類に依っては成ぜずということを
依實假說理亦不成 猛赤等德非共有故
実に依って仮説すということ、理いい亦成ぜず、猛赤等の徳は共有に非ざるが故に
謂猛赤等在火在人其體各別,所依異故
いわく、猛赤の等(ごと)きは、火に在ると人に在ると其の体各別なり、所依異るが故に
お話を中断して
ここから文字お越し作業をやります。
『成唯識論述記』訳注(一)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/551/files/09曾根訳注.pdf
この三頌を玄奘は、『成唯識論』の中で、
この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
と述べ、「恒審思量」の説明から始めております。
『成唯識論』卷第四
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
5次第二能變, 是識名末那,
依彼轉緣彼, 思量為性相。
6四煩惱常俱, 謂我癡我見,
并我慢我愛, 及餘觸等俱。
7有覆無記攝, 隨所生所繫,
阿羅漢滅定, 出世道無有。
論曰:次初異熟能變識後,應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恒審思量勝餘識故。此名何異第六意識。此持業釋,如藏識名,識即意故。彼依主釋,如眼識等,識異意故。
この末那識について説明しているのが第五頌・第六頌・第七頌です。
【第五頌】
次第二能變 是識名末那
依彼轉緣彼 思量為性相
【第六頌】
四煩惱常俱 謂我癡我見
并我慢我愛 及餘觸等俱
【第七頌】
有覆無記攝 隨所生所繫
阿羅漢滅定 出世道無有
そもそも〝仏〟と言っている時点で他との分別が起きております。
そこのところを龍樹が『中論』で鋭く指摘しております。
2.仏と如来の違い
https://butudou.livedoor.blog/archives/17702360.html
仏さまには、自我はあります。
自分と他者の区別があるから一切衆生(他者)を救いたいという意識(思慮)が起こります。