阿羅漢果に達するって、どういう事だか分かりますか?
次のような内容が紹介されております。
出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。
こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという[3]。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。
ウィキペディアの阿難の項をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿難
この仏典結集の参加資格に阿羅漢果を習得していなければならないという厳しい条件が設定されておりました。
これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられました。これを三蔵教といいます。
天台教学の「蔵教・通教・別教・円教」の四教の中の蔵教がこれにあたります。
お釈迦さまが亡くなられた後、教えを正しく伝える為に説法を整理して仏典の編集作業が行われました。これを結集といいます。釈迦が亡くなった翌年に、教団の長老たちが集まって開かれた第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われた事になっております。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われております。
教学に疎い方は、ご存じないかと思いますが、仏典を制作するにあたってインドでは、仏典の結集というのが行われており、仏典は勝手に誰かが作ったりは出来ない事になっております。
信仰の世界にあっては、説かれている教えが捏造されたものか、それとも仏が説かれた真実の教えなのかを見極める基準がちゃんと設定されております。
経典が存在しないから捏造だとか、『法華経』で説かれている話は非現実的で作り話だとか、言われて仏の教えを信じようとされません。
ここをはき違えている方も沢山居られます。
学者さん達の研究のように、客観性で成り立つ世界ではありません。
信仰とは、仏が説かれた教えを信ずるといった信心で成り立つ世界です。
客観性を以て証明出来ないこういった話を、仏教学の学者さん達は、絵空話や喩え話だと捉えますが、それは仏教を学術として研究なれておられる学者さん達の見解であって、仏教は学術ではありません。
信仰として説かれているのが仏教です。
ちなみに日蓮大聖人は、
答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、『当体義抄』
南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ『曾谷入道殿許御書』
所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず『妙法曼陀羅供養事』
観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや『五人所破抄』
と述べられ、薬王菩薩が天台智顗に、観音菩薩が南岳大師へと欲界に生まれ出てたと述べられております。
読めば分かりますが、人間ではない事は明らかです。
弥勒菩薩や普賢菩薩、薬王菩薩等と同様
天部の菩薩であることは明らかです。
まず、『法華経』の第二十五に「観世音菩薩普門品」がありまして、ここで観音菩薩について詳しく説かれております。
https://syoubou.wordpress.com/妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(みょうほ/
そこで今回、調べました内容を以て認識を改めたいと思っております。
修正されたのか、わたしの記憶違いなのか、、、、
どちらにしてもそのハッキリとした根拠は、見つかりません。
『般若心経』に登場する観音菩薩についてですが、以前ネットで調べた時、天台宗では釈迦の化身と考えられているといった記述があり、そのように私は覚えていたのですが、今回改めて調べ直しましたところ、その記述が見つからないんですね。
只今、zebさんから知恵袋でこのようなご意見を頂きました。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14307381549
観音菩薩は肉体が無いけど凡夫には肉体があるなんて、まるで仏教をわかっていませんね。 凡夫は本当は仏だけど無明という原因のために間違った認識をして自分を肉体を持った人間であると誤認しているのです。本覚の話で前にも話ましたが理解できなかったようですね。
だから仏教は悟りを開いて本来の自己である仏として目覚めなさいと説くのです。
これに対し、意見がある方は、どしどしここに投稿ください。
ちょっと朝食を食べに行ってきます。
般若心経の出だしのこの部分をまず正しく理解しないと、正しい般若心経の理解には至りません。
この主観と客観の作用の事を五蘊と言い、その作用を完全に停止させる事を五蘊皆空と言います。
その主観と客観の作用を停止させて人間の実在の世界を止滅させるのが色界禅定という瞑想です。
その主観と客観とで、実在の世界が立ち上がります。
人間には五蘊が有り、その五蘊の作用で主観と客観が起こります。
そういう事ではないでしょ。
「五蘊皆空」の意味を全くはき違えておられます。
なのに私には「五蘊はありませ!」とかおかしな事を言われますか?
どうやって朝食を頂いておられますか?
肉体を使って生活をしていますよね。
じゃあ、どうやってパソコンの文字を打っておられますか?
それとも私は元から仏なので人間じゃありませんとでも言われますか?
実体は無いから五蘊も無いんですとかzenさんは言われてますが、
五蘊が無いなら、あ・な・た人間じゃないんですけど、、、、、
幽霊ですか?
五蘊って肉体によって生じる作用です。
では、われわれ凡夫はどうでしょう。
肉体を備えて生きているのが人間です。
なので「五蘊を皆空と照見す」なのです。
観音さまには「五蘊が備わっていない=五蘊が空」、と言われているんです。
我々人間と違って、肉体を備えておりません。
観音さまは六道から解脱して完全に肉体から解脱して、意識として天上界に居られる菩薩さんです。
肉体から解脱している、肉体を備えているかの違いです。
観音さまと凡夫の違いって何だと思いますか?
これは観音さまの話をしているんです。
我々凡夫のお話ではありません。
阿羅漢果に達するって、どういう事だか分かりますか?
次のような内容が紹介されております。
出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。
こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという[3]。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。
ウィキペディアの阿難の項をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿難
この仏典結集の参加資格に阿羅漢果を習得していなければならないという厳しい条件が設定されておりました。
これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられました。これを三蔵教といいます。
天台教学の「蔵教・通教・別教・円教」の四教の中の蔵教がこれにあたります。
お釈迦さまが亡くなられた後、教えを正しく伝える為に説法を整理して仏典の編集作業が行われました。これを結集といいます。釈迦が亡くなった翌年に、教団の長老たちが集まって開かれた第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われた事になっております。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われております。
教学に疎い方は、ご存じないかと思いますが、仏典を制作するにあたってインドでは、仏典の結集というのが行われており、仏典は勝手に誰かが作ったりは出来ない事になっております。
信仰の世界にあっては、説かれている教えが捏造されたものか、それとも仏が説かれた真実の教えなのかを見極める基準がちゃんと設定されております。
経典が存在しないから捏造だとか、『法華経』で説かれている話は非現実的で作り話だとか、言われて仏の教えを信じようとされません。
ここをはき違えている方も沢山居られます。
学者さん達の研究のように、客観性で成り立つ世界ではありません。
信仰とは、仏が説かれた教えを信ずるといった信心で成り立つ世界です。
客観性を以て証明出来ないこういった話を、仏教学の学者さん達は、絵空話や喩え話だと捉えますが、それは仏教を学術として研究なれておられる学者さん達の見解であって、仏教は学術ではありません。
信仰として説かれているのが仏教です。
ちなみに日蓮大聖人は、
答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、『当体義抄』
南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化道の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ『曾谷入道殿許御書』
所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず『妙法曼陀羅供養事』
観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや『五人所破抄』
と述べられ、薬王菩薩が天台智顗に、観音菩薩が南岳大師へと欲界に生まれ出てたと述べられております。
読めば分かりますが、人間ではない事は明らかです。
弥勒菩薩や普賢菩薩、薬王菩薩等と同様
天部の菩薩であることは明らかです。
まず、『法華経』の第二十五に「観世音菩薩普門品」がありまして、ここで観音菩薩について詳しく説かれております。
https://syoubou.wordpress.com/妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(みょうほ/
そこで今回、調べました内容を以て認識を改めたいと思っております。
修正されたのか、わたしの記憶違いなのか、、、、
どちらにしてもそのハッキリとした根拠は、見つかりません。
『般若心経』に登場する観音菩薩についてですが、以前ネットで調べた時、天台宗では釈迦の化身と考えられているといった記述があり、そのように私は覚えていたのですが、今回改めて調べ直しましたところ、その記述が見つからないんですね。
只今、zebさんから知恵袋でこのようなご意見を頂きました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14307381549
観音菩薩は肉体が無いけど凡夫には肉体があるなんて、まるで仏教をわかっていませんね。
凡夫は本当は仏だけど無明という原因のために間違った認識をして自分を肉体を持った人間であると誤認しているのです。本覚の話で前にも話ましたが理解できなかったようですね。
だから仏教は悟りを開いて本来の自己である仏として目覚めなさいと説くのです。
これに対し、意見がある方は、どしどしここに投稿ください。
ちょっと朝食を食べに行ってきます。
般若心経の出だしのこの部分をまず正しく理解しないと、正しい般若心経の理解には至りません。
この主観と客観の作用の事を五蘊と言い、その作用を完全に停止させる事を五蘊皆空と言います。
その主観と客観の作用を停止させて人間の実在の世界を止滅させるのが色界禅定という瞑想です。
その主観と客観とで、実在の世界が立ち上がります。
人間には五蘊が有り、その五蘊の作用で主観と客観が起こります。
そういう事ではないでしょ。
「五蘊皆空」の意味を全くはき違えておられます。
なのに私には「五蘊はありませ!」とかおかしな事を言われますか?
どうやって朝食を頂いておられますか?
肉体を使って生活をしていますよね。
じゃあ、どうやってパソコンの文字を打っておられますか?
それとも私は元から仏なので人間じゃありませんとでも言われますか?
実体は無いから五蘊も無いんですとかzenさんは言われてますが、
五蘊が無いなら、あ・な・た人間じゃないんですけど、、、、、
幽霊ですか?
五蘊って肉体によって生じる作用です。
では、われわれ凡夫はどうでしょう。
肉体を備えて生きているのが人間です。
なので「五蘊を皆空と照見す」なのです。
観音さまには「五蘊が備わっていない=五蘊が空」、と言われているんです。
我々人間と違って、肉体を備えておりません。
観音さまは六道から解脱して完全に肉体から解脱して、意識として天上界に居られる菩薩さんです。
肉体から解脱している、肉体を備えているかの違いです。
観音さまと凡夫の違いって何だと思いますか?
これは観音さまの話をしているんです。
我々凡夫のお話ではありません。