別教の菩薩は、仏を対境とした三昧で
析空で客観を空じ、体空で主観を空じ
この二空を以て仏の空観へ意識が入っていきます。
③唯識三十頌【18頌】増上縁とは二十二根 https://youtu.be/Lrpfg6pb7hw
道元さんの仏性観 https://zenken.agu.ac.jp/zen/story/h15.html
唯識三十頌【18頌】 https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12861538330.html https://www.youtube.com/watch?v=BUHaeC-bWYM
『成唯識論』の縁起思想 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
所縁の見方に関して、『倶舎論』と唯識の間では、行相を相分に見るか見分に見るか、あるいは相分に所縁を見るか見ないかといった、識の構造の理解に関する違いが出てくる。説一切有部でも識に相分にあたるものを認めるが、その相分はすなわち行相であるとして、それを所縁とは言わない。この結果、もっぱら識の外の対象が、所縁ということになる。しかし唯識では、ここにあるように、識内の相分を親所縁縁とし、その外の対象を疎所縁縁として、むしろ識内に所縁縁を認めるのである。
四聖諦説 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0047/DB00470L033.pdf
>> 21から>> 25まで、時間のある時にじっくりと考察する事。(重要課題!)
趙宋天台における修性離合義の解釈について (必読!) https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/2181/files/BungakuKenkyukaKiyo1_60_Yuba.pdf
既に触れたように、智顗は真性軌・観照軌・資成軌の三軌でもって諸の三法を類通し、十種三法を数えることで教学全体の依って立つところの師軌を示した。このことを思えば、湛然のここでの解釈は、修性三因の義に代表される新たな「大綱」で以て、天台の一切法門を該摂することを図ったものとも言い得るだろう。また、文中に「具如 修性不二門説」として指示される『十不二門』修性不二門においては、次のように説かれる。
十不二門 (No. 1927_ 湛然述 ) in Vol. 46
T1927.46.0703b10: 三修性不二門者。性徳秖是界如一念。此内 T1927.46.0703b11: 界如三法具足。性雖本爾。藉智起修。由修照 T1927.46.0703b12: 性。由性發修。存性則全修成性。起修則全性 T1927.46.0703b13: 成修。性無所移修常宛爾。修又二種。順修逆 T1927.46.0703b14: 修。順謂了性爲行。逆謂背性成迷。迷了二心。 T1927.46.0703b15: 心雖不二逆順二性。性事恒殊。可由事不移 T1927.46.0703b16: 心。則令迷修成了。故須一期迷了照性。成修 T1927.46.0703b17: 見性修心二心倶泯。又了順修對性有離有 T1927.46.0703b18: 合。離謂修性各三。合謂修二性一。修二各三 T1927.46.0703b19: 共發性三。是則修雖具九。九秖是三。爲對性 T1927.46.0703b20: 明修故合修爲二。二與一性如水爲波。二亦 T1927.46.0703b21: 無二亦如波水。應知性指三障。是故具三。修 T1927.46.0703b22: 從性成。成三法爾。達無修性唯一妙乘。無所 T1927.46.0703b23: 分別。法界洞朗。此由内外不二門成
十不二の範疇論(2) 池田 魯参 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18560/KJ00005112884.pdf
十不二の範疇論(3) 池田 魯参 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18574/KJ00005112905.pdf
『十不二 門』の第七「自他不二 門・第八「三 業不二 門」の解明 島村 大心 https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/61/0/61_KJ00009011824/_pdf
『百六箇抄』
下種十不二門の本迹 日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり。
>> 21
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170428_223347.pdf
第一節「『法華文句記』所引の『十不二門』」では、『法華文句記』に引用・言及される「十不二門」を取りあげ、「十不二門」が引用された『法華文句記』の内容と「十不二門」との思想的関連性を検討している。「十不二門」は理の強調がみられることはすでに先学によって指摘されているが、松森氏は『法華文句記』所引の「十不二門」の中にも理が強調されていることを明らかにしている。『法華文句』の方便品の品題を解釈する箇所に対する『法華文句記』に出る「具如不二十門所説」と「十不二門」の関係性を理解するために、『法華文句』において後に「十法」として提示される「十双」、すなわち事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別・悉檀に着目し、それら各項目に見出される「権」・「実」の「権」を『法華文句記』は「即実而権」と理解していることを指摘し、ここに示される権実の関係は、「実」を中心として「権」がそれに相即するという縦列的・一方向的な相即関係であることを明らかにしている。また「具如不二十門所説」に関連する『法華文句記』の記述には、「本迹雖殊、不思議一」という言葉が引用されていることに着目し、同じく「本迹雖殊、不思議一」という言葉が多く引用される『法華玄義』とそれに対応する『法華玄義釈籤』の議論を検討して、『法華玄義』には本から迹、迹から本という双方向的な相即関係が提示されていたものが、『法華玄義釈籤』においては理によって事が位置づけられるという一方向的な相即関係のみが示されていること、このような関係性は『法華玄義釈籤』のみに限ったことではなく『法華文句記』においても同様のことがいえること、湛然の不二に関する基本的な発想には、差別相としての「事」を超越し、無差別の「理」に帰結させるという理解が反映されていることを明らかにしている。
『法華文句記』所引の「十不二門」について 松森 秀幸 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/57/1/57_KJ00005130332/_pdf/-char/ja
「具如事理不二門明」は『文句』が方便品の題目を事・理の視点から解釈する際の『文句記』の注釈にみられる。 『文句』では、 理・事を相対する概念として、 理は真如、 本浄(不変易)であり、 事は心意識、 浄・不浄の業(改動不定)であると規定し、 同時に理・事は互いに不可分な相即関係であると指摘している。(T34.37c11-15)
T1718.34.0037c11: 爲十章次第 云云。三解釋者。理是眞如。眞如 T1718.34.0037c12: 本淨。有佛無佛常不變易故。名理爲實事 T1718.34.0037c13: 是心意識等起淨不淨業改動不定故。名 T1718.34.0037c14: 事爲權。若非理無以立事。非事不能顯 T1718_.34.0037c15: 理。事有顯理之功。是故殷勤稱歎方便。理
ここでちょっと考えて頂きたいのですが、>> 2のような「人が認識するまでモノは存在しなし」といった主張に対して次のようなケースを考えてみましょう。
仏はこの人間の五蘊という認識作用を用いません。
「五蘊皆空」と言いまして五蘊の働きを全て空じます。
〝空じる〟とは空っぽにするという意味です。
②を空じて①の人間の認識から離れた〝客観的〟に存在する対象を観ます。
五蘊を空しているので「見る」事は出来ません。
「観る」のです。
何を観るのかと言いますと、そのモノがそのモノと成り得た〝因果〟を観るのです。
我々人間は対象となる①を主観と客観とで認識します。
〝客観〟でまず対象の姿・形を捉え自身の認識として受け止めます。(色→受)
次にそれが何なのかを〝主観〟で考えます。(想)
考えて次にそれをどうするかといった行動が起こります。(行)
そして最後に一連の内容が脳に記憶されます。(識)
これが色・受・想・行・識といった人間の五蘊の働きです。
仏教では仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる初歩の仏道修行者の境涯を声聞と言います。仏の境涯は、肉体から解脱した存在です。肉体が持つ五蘊という働きによって我々人間は②の「実体の世界」の中で生きています。
仏はその肉体から解脱する事で実体の世界が消滅し①の実在の世界を観ます。肉体はありませんので「見る」のではなく「観る」になります。『般若心経』を説く観音さまが音を「聞く」のではなく音を「観る」と書くのも同じ意味です。
仏には五蘊は働いておりません。
五蘊皆空といって五蘊の働きが全て停止しているのです。
②の人間の認識(主観と客観)から離れる訳です。
人間の認識(主観と客観)から離れて①のモノのあり様を「因果」で観るのです。
認識が空観に変わるとどうなるかと言いますと、対象を凡夫の前五識で認識しその現量を因として第六意識で比量が働き結果として対象を「実体」として見ていた認識が、前五識と第六意識が空じられ、それにより第七意識が阿頼耶識に貯蔵されている「そのモノがそのモノと成り得た因果」を拾い上げ、それを因とした阿頼耶識縁起が起こります。
「主観と客観」での第六意識での認識から、末那識での阿頼耶識の因果の認識へと変わる事で対象の真実の姿が観えてきます。
これが『唯識』で説かれる三性説です。
『唯識三十頌』の28頌の「相分と見分」の三性説です。
唯識三十頌 その④ https://zawazawa.jp/bison/topic/28
①相分も見分もない(依他起性) ②相分も見分もある(遍計所執性) ③見分はあるが相分はない(円成実性)
この人間の認識である「主観と客観」空じる事で、我々凡夫が仏の認識に立つことが出来きます。この仏の認識を〝空観〟と言います。
客観は此縁性縁起で起こります。 そして主観は相依性縁起で起こります。
この二つの縁起を空じる事で「主観と客観」が「空観」の認識に変わります。
人間は「主観と客観」で物事を認識し、対象の姿(色相)に定義付けをして概念化することで分別し識別することで様々なモノや出来事を整理して記憶に留めていきます。そういった一連の認識システムが仏教では「五蘊」として解き明かされております。
モノには姿形がありそれを相(色相)と言います。そしてそのモノの定義を人の心が決めていきます。その〝相〟は人の客観で認識される姿(現量)で此縁性縁起によって形成された〝相〟です。
そしてモノの定義は、そのモノを人の心がどういうふうに受け止めているかといった〝性〟にあたり(比量)こちらは相依性縁起によって定義付けされます。
人間によるこの「主観(性)と客観(相)」による認識によって我々は対象のモノを「実体」として認識します。
客観=相 主観=性 実体=体
この析空と体空の二空をもって人間の世界観から離れて「空」の世界観へ意識が入る事を入空観と言います。
析空と体空は人間の「客観と主観」をそれぞれ空じますのでこの二空の事を「人空」と言います。その人空に対して「法空」と呼ばれる空があります。これは人間の深層意識で起きる内縁を対象として起こる縁起を空じる「空」です。
美味しい物をたらふく食べたい、綺麗な服が着たい、カッコいい車に乗りたい、立派な家に住みたいなどといった欲が生まれるのもこの「分別」によるところです。
「美味しいやマズイ」「綺麗とか汚い」「良いとか悪い」「立派だとか貧素だとか」こういった分別は、物事を客観で認識した心が主観で思う事です。
仏教のファースト・ステージでは客観を空じ、次のセカンド・ステージで主観を空じます。
客観を空じる=析空 主観を空じる=体空
人間の認識は「主観と客観」から成ります。この「主観と客観」を空じる事で人間の表層認識は止滅します。
仏教では最初に〝実体〟を空じる教えが説かれます。
「空」のファースト・ステージです。
実体とは我々人間が客観的に見ているモノや出来事(現象)の事です。そういったモノや出来事を自分達の言葉で定義づけして分別し、それが概念として阿頼耶識に蓄えられていきます。そうやって物事を分別していく事は大変便利な反面、その分別によって苦しみが生み出される事もまた事実です。
そういった視点で人の人生を考えてみると、客観的に見えている姿って案外あてにならないもので、人生ってその人の〝主観〟で成り立っているんだなと思いませんか。
そう考えてみると前回、四分の説法でお話しました「相分(客観)は無いが見分(主観)は有る」の言葉の意味するところが読めて来ませんか。
「モノのあり様」を〝人間の客観〟という視点で展開していきますと、科学が発展し様々な便利なモノが沢山造られていきます。医学も進歩します。それによって多くの人達が病から救われます。
しかし、そういった客観的視点で物事を展開していっても幸福な人生に辿り着くとは限りません。
なぜなら人の人生は主観で出来ているからです。
我々昭和の人間は、「いい大学を出れば一流企業に入れて安定した将来が約束される」と教えられてきました。そしてそれが幸せな人生をつかむ一番確実な道筋だと信じて生きて来ました。しかし、「社会的に成功する事」と「幸せな人生を手に入れる事」って果たしてイコールで結ばれるものなのでしょうか。
社会的に成功している人達って裕福な暮らしをされていて、傍から見ると羨ましく思えますが、そんな恵まれた環境にある人達が必ずしも幸せな日々をおくっているとは限りません。
客観的には羨ましい存在に見えていても、当の本人にとっては苦しみの人生だったりする事はよくあります。またその逆で、生活は苦しくてもいつも家族皆が仲良しで、いつも楽しそうに暮らしている人達も沢山おられます。私なんかはまさに後者の方です。
これは「モノのあり様」を説いた実在の真理(此縁性縁起)です。
そのモノがどのようにしてそのモノとして成り立っているか細分化して見ていきます。
科学と全く同じ視点です。
実体は仮和合によって仮在(仮設)する。
条件が変わればそのあり様もまた変化する。
よって変わらずにあり続ける本質は無い。
それが蔵教で説かれた真理です。
人間は主観と客観とで物事を認識します。この働きを仏教では五蘊と言います。この五蘊での認識を止めて対象を縁起で観る事が正しい物事の捉え方であるとお釈迦さまは縁起の法門を説かれたのです。
客観による認識は、此縁性縁起で起こります。客観視の対境である「見られるモノ=六境」は此縁性縁起で成り立っているからです。これは科学や物理と全く同じ概念で、物体の時間経緯によって生じる変化(縁起)です。実体における真理(実在の真理)なので科学や物理学と全く同じ真理となります。
蔵教で説かれた『倶舎論』がこれにあたります。
この空を「モノのあり様」を説いた教えだと思い込んでいる人達が沢山おられます。
実体は仮和合(縁起)であって実在しない。
だから「空」だと。
しかし、実体は仮和合(縁起)によって実在しています。
あなたは今、スマホを手に取っていますよね。
それは幻影ですか?
スマホは因果の法理に基づいて今、あなたの手に握られ、
まぎれもなくそこに実在しております。
此縁性縁起という実体に即した真理によってそこに実在しているんです。
人間がモノを認識する五蘊という働きでその物体をスマホとして認識しているんです。
空とは、その認識を止めましょう(空じる)という教えです。
その認識は正しいモノの認識法ではないと言っているのです。
このように我々人間は阿頼耶識に蓄えられた情報を概念化し、外界の様々なモノや出来事をその概念という色眼鏡でもって認識しています。
しかし、その概念って人間が造り出したものですよね。
仏教では人間の事を凡夫と言います。
迷いの中にある衆生の事を凡夫と言い、凡夫の心は無明と言いまして真実に疎い存在とされます。
そんな迷いの心で人生をどんなに頑張って生きていっても、所詮、迷いの人生でしかありません。
そんなあてにならない凡夫の概念など捨ててしまいなさいというのが「空」の教えです。
スマホを例にとって考えてみますと、かくかくしかじかの機能を備えた物体をスマホと言います。
言葉で定義付けされた物体が「スマホ」です。言葉による定義がなければそれはただのモノ(物体)でしかありません。ですから言葉の概念がない赤ちゃんにはただのモノ(物体)としてしか認識されません。
実体は概念によって造り出されます。
この言葉に依る定義が蓄えられていく処が阿頼耶識という記憶の蔵です。その蔵に収まっている「定義」を深層意識である末那識の自我意識が拾い上げ、それを概念として表層の意識である第六意識に手渡します。本来無分別で存在している対象の見られる側のモノ(物体)を眼識が現量で認識します。それを第六意識が言葉の概念で分別(識別)して、そのモノをスマホとして認識します(比量)。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮> 阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空> 阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中> 阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
別教の菩薩は、仏を対境とした三昧で
析空で客観を空じ、体空で主観を空じ
この二空を以て仏の空観へ意識が入っていきます。
③唯識三十頌【18頌】増上縁とは二十二根
https://youtu.be/Lrpfg6pb7hw
道元さんの仏性観
https://zenken.agu.ac.jp/zen/story/h15.html
唯識三十頌【18頌】
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12861538330.html
https://www.youtube.com/watch?v=BUHaeC-bWYM
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
所縁の見方に関して、『倶舎論』と唯識の間では、行相を相分に見るか見分に見るか、あるいは相分に所縁を見るか見ないかといった、識の構造の理解に関する違いが出てくる。説一切有部でも識に相分にあたるものを認めるが、その相分はすなわち行相であるとして、それを所縁とは言わない。この結果、もっぱら識の外の対象が、所縁ということになる。しかし唯識では、ここにあるように、識内の相分を親所縁縁とし、その外の対象を疎所縁縁として、むしろ識内に所縁縁を認めるのである。
四聖諦説
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0047/DB00470L033.pdf
>> 21から>> 25まで、時間のある時にじっくりと考察する事。(重要課題!)
趙宋天台における修性離合義の解釈について (必読!)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/2181/files/BungakuKenkyukaKiyo1_60_Yuba.pdf
既に触れたように、智顗は真性軌・観照軌・資成軌の三軌でもって諸の三法を類通し、十種三法を数えることで教学全体の依って立つところの師軌を示した。このことを思えば、湛然のここでの解釈は、修性三因の義に代表される新たな「大綱」で以て、天台の一切法門を該摂することを図ったものとも言い得るだろう。また、文中に「具如 修性不二門説」として指示される『十不二門』修性不二門においては、次のように説かれる。
十不二門 (No. 1927_ 湛然述 ) in Vol. 46
T1927.46.0703b10: 三修性不二門者。性徳秖是界如一念。此内
T1927.46.0703b11: 界如三法具足。性雖本爾。藉智起修。由修照
T1927.46.0703b12: 性。由性發修。存性則全修成性。起修則全性
T1927.46.0703b13: 成修。性無所移修常宛爾。修又二種。順修逆
T1927.46.0703b14: 修。順謂了性爲行。逆謂背性成迷。迷了二心。
T1927.46.0703b15: 心雖不二逆順二性。性事恒殊。可由事不移
T1927.46.0703b16: 心。則令迷修成了。故須一期迷了照性。成修
T1927.46.0703b17: 見性修心二心倶泯。又了順修對性有離有
T1927.46.0703b18: 合。離謂修性各三。合謂修二性一。修二各三
T1927.46.0703b19: 共發性三。是則修雖具九。九秖是三。爲對性
T1927.46.0703b20: 明修故合修爲二。二與一性如水爲波。二亦
T1927.46.0703b21: 無二亦如波水。應知性指三障。是故具三。修
T1927.46.0703b22: 從性成。成三法爾。達無修性唯一妙乘。無所
T1927.46.0703b23: 分別。法界洞朗。此由内外不二門成
十不二の範疇論(2) 池田 魯参
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18560/KJ00005112884.pdf
十不二の範疇論(3) 池田 魯参
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18574/KJ00005112905.pdf
『十不二 門』の第七「自他不二 門・第八「三 業不二 門」の解明 島村 大心
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/61/0/61_KJ00009011824/_pdf
『百六箇抄』
下種十不二門の本迹
日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり。
>> 21
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170428_223347.pdf
第一節「『法華文句記』所引の『十不二門』」では、『法華文句記』に引用・言及される「十不二門」を取りあげ、「十不二門」が引用された『法華文句記』の内容と「十不二門」との思想的関連性を検討している。「十不二門」は理の強調がみられることはすでに先学によって指摘されているが、松森氏は『法華文句記』所引の「十不二門」の中にも理が強調されていることを明らかにしている。『法華文句』の方便品の品題を解釈する箇所に対する『法華文句記』に出る「具如不二十門所説」と「十不二門」の関係性を理解するために、『法華文句』において後に「十法」として提示される「十双」、すなわち事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別・悉檀に着目し、それら各項目に見出される「権」・「実」の「権」を『法華文句記』は「即実而権」と理解していることを指摘し、ここに示される権実の関係は、「実」を中心として「権」がそれに相即するという縦列的・一方向的な相即関係であることを明らかにしている。また「具如不二十門所説」に関連する『法華文句記』の記述には、「本迹雖殊、不思議一」という言葉が引用されていることに着目し、同じく「本迹雖殊、不思議一」という言葉が多く引用される『法華玄義』とそれに対応する『法華玄義釈籤』の議論を検討して、『法華玄義』には本から迹、迹から本という双方向的な相即関係が提示されていたものが、『法華玄義釈籤』においては理によって事が位置づけられるという一方向的な相即関係のみが示されていること、このような関係性は『法華玄義釈籤』のみに限ったことではなく『法華文句記』においても同様のことがいえること、湛然の不二に関する基本的な発想には、差別相としての「事」を超越し、無差別の「理」に帰結させるという理解が反映されていることを明らかにしている。
『法華文句記』所引の「十不二門」について 松森 秀幸
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/57/1/57_KJ00005130332/_pdf/-char/ja
「具如事理不二門明」は『文句』が方便品の題目を事・理の視点から解釈する際の『文句記』の注釈にみられる。 『文句』では、 理・事を相対する概念として、 理は真如、 本浄(不変易)であり、 事は心意識、 浄・不浄の業(改動不定)であると規定し、 同時に理・事は互いに不可分な相即関係であると指摘している。(T34.37c11-15)
T1718.34.0037c11: 爲十章次第 云云。三解釋者。理是眞如。眞如
T1718.34.0037c12: 本淨。有佛無佛常不變易故。名理爲實事
T1718.34.0037c13: 是心意識等起淨不淨業改動不定故。名
T1718.34.0037c14: 事爲權。若非理無以立事。非事不能顯
T1718_.34.0037c15: 理。事有顯理之功。是故殷勤稱歎方便。理
ここでちょっと考えて頂きたいのですが、>> 2のような「人が認識するまでモノは存在しなし」といった主張に対して次のようなケースを考えてみましょう。
仏はこの人間の五蘊という認識作用を用いません。
「五蘊皆空」と言いまして五蘊の働きを全て空じます。
〝空じる〟とは空っぽにするという意味です。
②を空じて①の人間の認識から離れた〝客観的〟に存在する対象を観ます。
五蘊を空しているので「見る」事は出来ません。
「観る」のです。
何を観るのかと言いますと、そのモノがそのモノと成り得た〝因果〟を観るのです。
我々人間は対象となる①を主観と客観とで認識します。
〝客観〟でまず対象の姿・形を捉え自身の認識として受け止めます。(色→受)
次にそれが何なのかを〝主観〟で考えます。(想)
考えて次にそれをどうするかといった行動が起こります。(行)
そして最後に一連の内容が脳に記憶されます。(識)
これが色・受・想・行・識といった人間の五蘊の働きです。
仏教では仏門に入っても未だ実体思想から抜けきらないでいる初歩の仏道修行者の境涯を声聞と言います。仏の境涯は、肉体から解脱した存在です。肉体が持つ五蘊という働きによって我々人間は②の「実体の世界」の中で生きています。
仏はその肉体から解脱する事で実体の世界が消滅し①の実在の世界を観ます。肉体はありませんので「見る」のではなく「観る」になります。『般若心経』を説く観音さまが音を「聞く」のではなく音を「観る」と書くのも同じ意味です。
仏には五蘊は働いておりません。
五蘊皆空といって五蘊の働きが全て停止しているのです。
②の人間の認識(主観と客観)から離れる訳です。
人間の認識(主観と客観)から離れて①のモノのあり様を「因果」で観るのです。
認識が空観に変わるとどうなるかと言いますと、対象を凡夫の前五識で認識しその現量を因として第六意識で比量が働き結果として対象を「実体」として見ていた認識が、前五識と第六意識が空じられ、それにより第七意識が阿頼耶識に貯蔵されている「そのモノがそのモノと成り得た因果」を拾い上げ、それを因とした阿頼耶識縁起が起こります。
「主観と客観」での第六意識での認識から、末那識での阿頼耶識の因果の認識へと変わる事で対象の真実の姿が観えてきます。
これが『唯識』で説かれる三性説です。
『唯識三十頌』の28頌の「相分と見分」の三性説です。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
①相分も見分もない(依他起性)
②相分も見分もある(遍計所執性)
③見分はあるが相分はない(円成実性)
この人間の認識である「主観と客観」空じる事で、我々凡夫が仏の認識に立つことが出来きます。この仏の認識を〝空観〟と言います。
客観は此縁性縁起で起こります。
そして主観は相依性縁起で起こります。
この二つの縁起を空じる事で「主観と客観」が「空観」の認識に変わります。
人間は「主観と客観」で物事を認識し、対象の姿(色相)に定義付けをして概念化することで分別し識別することで様々なモノや出来事を整理して記憶に留めていきます。そういった一連の認識システムが仏教では「五蘊」として解き明かされております。
モノには姿形がありそれを相(色相)と言います。そしてそのモノの定義を人の心が決めていきます。その〝相〟は人の客観で認識される姿(現量)で此縁性縁起によって形成された〝相〟です。
そしてモノの定義は、そのモノを人の心がどういうふうに受け止めているかといった〝性〟にあたり(比量)こちらは相依性縁起によって定義付けされます。
人間によるこの「主観(性)と客観(相)」による認識によって我々は対象のモノを「実体」として認識します。
客観=相
主観=性
実体=体
この析空と体空の二空をもって人間の世界観から離れて「空」の世界観へ意識が入る事を入空観と言います。
析空と体空は人間の「客観と主観」をそれぞれ空じますのでこの二空の事を「人空」と言います。その人空に対して「法空」と呼ばれる空があります。これは人間の深層意識で起きる内縁を対象として起こる縁起を空じる「空」です。
美味しい物をたらふく食べたい、綺麗な服が着たい、カッコいい車に乗りたい、立派な家に住みたいなどといった欲が生まれるのもこの「分別」によるところです。
「美味しいやマズイ」「綺麗とか汚い」「良いとか悪い」「立派だとか貧素だとか」こういった分別は、物事を客観で認識した心が主観で思う事です。
仏教のファースト・ステージでは客観を空じ、次のセカンド・ステージで主観を空じます。
客観を空じる=析空
主観を空じる=体空
人間の認識は「主観と客観」から成ります。この「主観と客観」を空じる事で人間の表層認識は止滅します。
仏教では最初に〝実体〟を空じる教えが説かれます。
「空」のファースト・ステージです。
実体とは我々人間が客観的に見ているモノや出来事(現象)の事です。そういったモノや出来事を自分達の言葉で定義づけして分別し、それが概念として阿頼耶識に蓄えられていきます。そうやって物事を分別していく事は大変便利な反面、その分別によって苦しみが生み出される事もまた事実です。
そういった視点で人の人生を考えてみると、客観的に見えている姿って案外あてにならないもので、人生ってその人の〝主観〟で成り立っているんだなと思いませんか。
そう考えてみると前回、四分の説法でお話しました「相分(客観)は無いが見分(主観)は有る」の言葉の意味するところが読めて来ませんか。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
「モノのあり様」を〝人間の客観〟という視点で展開していきますと、科学が発展し様々な便利なモノが沢山造られていきます。医学も進歩します。それによって多くの人達が病から救われます。
しかし、そういった客観的視点で物事を展開していっても幸福な人生に辿り着くとは限りません。
なぜなら人の人生は主観で出来ているからです。
我々昭和の人間は、「いい大学を出れば一流企業に入れて安定した将来が約束される」と教えられてきました。そしてそれが幸せな人生をつかむ一番確実な道筋だと信じて生きて来ました。しかし、「社会的に成功する事」と「幸せな人生を手に入れる事」って果たしてイコールで結ばれるものなのでしょうか。
社会的に成功している人達って裕福な暮らしをされていて、傍から見ると羨ましく思えますが、そんな恵まれた環境にある人達が必ずしも幸せな日々をおくっているとは限りません。
客観的には羨ましい存在に見えていても、当の本人にとっては苦しみの人生だったりする事はよくあります。またその逆で、生活は苦しくてもいつも家族皆が仲良しで、いつも楽しそうに暮らしている人達も沢山おられます。私なんかはまさに後者の方です。
これは「モノのあり様」を説いた実在の真理(此縁性縁起)です。
そのモノがどのようにしてそのモノとして成り立っているか細分化して見ていきます。
科学と全く同じ視点です。
実体は仮和合によって仮在(仮設)する。
条件が変わればそのあり様もまた変化する。
よって変わらずにあり続ける本質は無い。
それが蔵教で説かれた真理です。
人間は主観と客観とで物事を認識します。この働きを仏教では五蘊と言います。この五蘊での認識を止めて対象を縁起で観る事が正しい物事の捉え方であるとお釈迦さまは縁起の法門を説かれたのです。
客観による認識は、此縁性縁起で起こります。客観視の対境である「見られるモノ=六境」は此縁性縁起で成り立っているからです。これは科学や物理と全く同じ概念で、物体の時間経緯によって生じる変化(縁起)です。実体における真理(実在の真理)なので科学や物理学と全く同じ真理となります。
蔵教で説かれた『倶舎論』がこれにあたります。
この空を「モノのあり様」を説いた教えだと思い込んでいる人達が沢山おられます。
実体は仮和合(縁起)であって実在しない。
だから「空」だと。
しかし、実体は仮和合(縁起)によって実在しています。
あなたは今、スマホを手に取っていますよね。
それは幻影ですか?
スマホは因果の法理に基づいて今、あなたの手に握られ、
まぎれもなくそこに実在しております。
此縁性縁起という実体に即した真理によってそこに実在しているんです。
人間がモノを認識する五蘊という働きでその物体をスマホとして認識しているんです。
空とは、その認識を止めましょう(空じる)という教えです。
その認識は正しいモノの認識法ではないと言っているのです。
このように我々人間は阿頼耶識に蓄えられた情報を概念化し、外界の様々なモノや出来事をその概念という色眼鏡でもって認識しています。
しかし、その概念って人間が造り出したものですよね。
仏教では人間の事を凡夫と言います。
迷いの中にある衆生の事を凡夫と言い、凡夫の心は無明と言いまして真実に疎い存在とされます。
そんな迷いの心で人生をどんなに頑張って生きていっても、所詮、迷いの人生でしかありません。
そんなあてにならない凡夫の概念など捨ててしまいなさいというのが「空」の教えです。
スマホを例にとって考えてみますと、かくかくしかじかの機能を備えた物体をスマホと言います。
言葉で定義付けされた物体が「スマホ」です。言葉による定義がなければそれはただのモノ(物体)でしかありません。ですから言葉の概念がない赤ちゃんにはただのモノ(物体)としてしか認識されません。
実体は概念によって造り出されます。
この言葉に依る定義が蓄えられていく処が阿頼耶識という記憶の蔵です。その蔵に収まっている「定義」を深層意識である末那識の自我意識が拾い上げ、それを概念として表層の意識である第六意識に手渡します。本来無分別で存在している対象の見られる側のモノ(物体)を眼識が現量で認識します。それを第六意識が言葉の概念で分別(識別)して、そのモノをスマホとして認識します(比量)。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮>
阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空>
阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中>
阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。