やっぱりあいつは、
円融三諦を何も分かっちゃいない、、、
リダンスレを覗いてみるとリダンがこんな事を言っていた。
155.リダン◆gEV3xsS//k
>> 154 阿頼耶識が一切法の拠り所とするなら 虚空は阿頼耶識の中やとなるな
2024/10/09 13:17:53
「後に当に説くべきが故に」とありますが
次にその部分を紹介します。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観 見分=主観 自証分=第六意識 証自証分=第七末那識
という事になる。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説) 難陀(二分説) 陳那(三分説) 護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
どうぞ
ご自由に皆さんで意見なされてください。
結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
まー、そこがリダンの面白いところで
わたしは大好きなんですけどね。
わたしは全く「相依性縁起」を覚れていませ~~~~~ん!
と皆さんに向かって叫んでいる事となんら変わりがありません。
それを第三者に、
「あの理解でいいのか?」
などと疑問を投げかけている時点で
もうアウトでしょ。
同じ教えを聞いても以下の境涯の違いによりその解釈もそれぞれに異なってきます。
声聞の境涯で理解する者
縁覚の境涯で理解する者
菩薩の境涯で理解する者
仏と同等の境涯で理解する者
仏教の世界では、教えはそれを理解する側の境涯で概ね四つの解釈に分かれるものなんです。
やはり、リダンは未だに相依性縁起(縁覚の智慧)を覚れずにいる様子です。
トーク板を覗いて見ますとリダンがこのような書き込みをしておりました。
870.リダン◆gEV3xsS//k
今なんかブログの更新してるが 善法、悪法、無記法は あの理解でいいのか?
2024/10/09 08:14:07
次に本書では、自証分と証自証分についても解りやすく説明されております。
阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。断にも非ず、常にも非ず。恒に転ずるを以ての故なり。恒というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、一類(無記)に相続して常に間断すること無し。是れ(三)界と(五)道・(四)生とを施設する本なるが故に、性は堅にして、種子を持して失せざらしむが故に。 転というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、念念に生滅して前後変異す。因滅すれば果生ずるを以て、常・一に非ざるが故に。転識の為に種子を熏成する可きが故に。 恒と言うのは断を遮し、転というは、常に非ざるを表す。猶お、暴流の如く、因果法爾なり。暴流の水の、断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂し、溺する所ろ有るが如し。此の識も亦爾なり。無始より来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離せざらしむ。
阿頼耶識内では縁起も起きませんし、思慮も生じません。
ですから阿頼耶識は無為なのです。
阿頼耶識の中で種子が変化する訳ではありません。
『成唯識論』で蔵の三義が説かれており
阿頼耶識の中では種子はただ保持し続けるだけです。
阿頼耶識の中で種子が変化するのではありません。
眼識等の他の識において現行する(縁起)ことで種子は「現行薫種子」するのです。
そして「現行薫種子」された種子が今度は因となって「種子生現行」が起こります。
この「現行薫種子」と「種子生現行」の二つの縁起によって「種子生種子」で
種子が常に新しい種子へと相続されていきます。
「阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子」と書きましたが
誤解のないように言っておきます。
やっぱりあいつは、
円融三諦を何も分かっちゃいない、、、
リダンスレを覗いてみるとリダンがこんな事を言っていた。
155.リダン◆gEV3xsS//k
>> 154
阿頼耶識が一切法の拠り所とするなら
虚空は阿頼耶識の中やとなるな
2024/10/09 13:17:53
「後に当に説くべきが故に」とありますが
次にその部分を紹介します。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観
見分=主観
自証分=第六意識
証自証分=第七末那識
という事になる。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説)
難陀(二分説)
陳那(三分説)
護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
どうぞ
ご自由に皆さんで意見なされてください。
結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
まー、そこがリダンの面白いところで
わたしは大好きなんですけどね。
わたしは全く「相依性縁起」を覚れていませ~~~~~ん!
と皆さんに向かって叫んでいる事となんら変わりがありません。
それを第三者に、
「あの理解でいいのか?」
などと疑問を投げかけている時点で
もうアウトでしょ。
同じ教えを聞いても以下の境涯の違いによりその解釈もそれぞれに異なってきます。
声聞の境涯で理解する者
縁覚の境涯で理解する者
菩薩の境涯で理解する者
仏と同等の境涯で理解する者
仏教の世界では、教えはそれを理解する側の境涯で概ね四つの解釈に分かれるものなんです。
やはり、リダンは未だに相依性縁起(縁覚の智慧)を覚れずにいる様子です。
トーク板を覗いて見ますとリダンがこのような書き込みをしておりました。
870.リダン◆gEV3xsS//k
今なんかブログの更新してるが
善法、悪法、無記法は
あの理解でいいのか?
2024/10/09 08:14:07
次に本書では、自証分と証自証分についても解りやすく説明されております。
阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。断にも非ず、常にも非ず。恒に転ずるを以ての故なり。恒というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、一類(無記)に相続して常に間断すること無し。是れ(三)界と(五)道・(四)生とを施設する本なるが故に、性は堅にして、種子を持して失せざらしむが故に。
転というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、念念に生滅して前後変異す。因滅すれば果生ずるを以て、常・一に非ざるが故に。転識の為に種子を熏成する可きが故に。
恒と言うのは断を遮し、転というは、常に非ざるを表す。猶お、暴流の如く、因果法爾なり。暴流の水の、断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂し、溺する所ろ有るが如し。此の識も亦爾なり。無始より来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離せざらしむ。
阿頼耶識内では縁起も起きませんし、思慮も生じません。
ですから阿頼耶識は無為なのです。
阿頼耶識の中で種子が変化する訳ではありません。
『成唯識論』で蔵の三義が説かれており
阿頼耶識の中では種子はただ保持し続けるだけです。
阿頼耶識の中で種子が変化するのではありません。
眼識等の他の識において現行する(縁起)ことで種子は「現行薫種子」するのです。
そして「現行薫種子」された種子が今度は因となって「種子生現行」が起こります。
この「現行薫種子」と「種子生現行」の二つの縁起によって「種子生種子」で
種子が常に新しい種子へと相続されていきます。
「阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子」と書きましたが
誤解のないように言っておきます。