有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
どうぞ
ご自由に皆さんで意見なされてください。
結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
まー、そこがリダンの面白いところで
わたしは大好きなんですけどね。
わたしは全く「相依性縁起」を覚れていませ~~~~~ん!
と皆さんに向かって叫んでいる事となんら変わりがありません。
それを第三者に、
「あの理解でいいのか?」
などと疑問を投げかけている時点で
もうアウトでしょ。
同じ教えを聞いても以下の境涯の違いによりその解釈もそれぞれに異なってきます。
声聞の境涯で理解する者
縁覚の境涯で理解する者
菩薩の境涯で理解する者
仏と同等の境涯で理解する者
仏教の世界では、教えはそれを理解する側の境涯で概ね四つの解釈に分かれるものなんです。
やはり、リダンは未だに相依性縁起(縁覚の智慧)を覚れずにいる様子です。
トーク板を覗いて見ますとリダンがこのような書き込みをしておりました。
870.リダン◆gEV3xsS//k
今なんかブログの更新してるが 善法、悪法、無記法は あの理解でいいのか?
2024/10/09 08:14:07
次に本書では、自証分と証自証分についても解りやすく説明されております。
阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。断にも非ず、常にも非ず。恒に転ずるを以ての故なり。恒というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、一類(無記)に相続して常に間断すること無し。是れ(三)界と(五)道・(四)生とを施設する本なるが故に、性は堅にして、種子を持して失せざらしむが故に。 転というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、念念に生滅して前後変異す。因滅すれば果生ずるを以て、常・一に非ざるが故に。転識の為に種子を熏成する可きが故に。 恒と言うのは断を遮し、転というは、常に非ざるを表す。猶お、暴流の如く、因果法爾なり。暴流の水の、断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂し、溺する所ろ有るが如し。此の識も亦爾なり。無始より来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離せざらしむ。
阿頼耶識内では縁起も起きませんし、思慮も生じません。
ですから阿頼耶識は無為なのです。
阿頼耶識の中で種子が変化する訳ではありません。
『成唯識論』で蔵の三義が説かれており
阿頼耶識の中では種子はただ保持し続けるだけです。
阿頼耶識の中で種子が変化するのではありません。
眼識等の他の識において現行する(縁起)ことで種子は「現行薫種子」するのです。
そして「現行薫種子」された種子が今度は因となって「種子生現行」が起こります。
この「現行薫種子」と「種子生現行」の二つの縁起によって「種子生種子」で
種子が常に新しい種子へと相続されていきます。
「阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子」と書きましたが
誤解のないように言っておきます。
さらに「水の下・上の魚・草等」も流れに乗せて保っている様子を
阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子と重ね合わせながら、
縁起の道理を見事に例示しております。
そして、縁によって眼識などが起こり恒に相続する様子を捉え、
〝相続〟によって生じたり滅したりするので「常にも非ず」
そして、絶えることなく相続するので「断にも非ず」と説かれております。
まず阿頼耶識は「無始」であると。
第四偈より
「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。此の識も亦た爾なり。衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。此の識も亦た爾なり」
非常に分かりやすく、そして的を射た比喩ではないでしょうか。
これについて『成唯識論』は次のように説明しております。
人間が存在し輪廻が続く限り、この阿頼耶識もとどまることなく絶えず変化しながら存続しているさまをこう表現しています。
「恒に転ずること、瀑流の如し」という一節は耳にされた方もいるかと思いますが、これは阿頼耶識の動きを、激しい水の流れにたとえております。
では、その阿頼耶識が無為の真如の世界である根拠を
『成唯識論』の言葉を以て示していきたいと思います。
阿頼耶識というのは欲界・色界・無色界の三界思想で言うところの、無色界にあたります。
この無色界(真如の世界)に三乗の智慧を以て
仏の智慧が無為の法(無漏の種子)として植えつけられます。
そしてこの三乗の智慧を以て最終的に
仏の智慧が阿頼耶識で大円鏡智として開かれます。
声聞の智慧を覚る事で前五識に成所作智が顕れます。
縁覚の智慧を覚る事で第六識に妙観察智が顕れます。
菩薩の智慧を覚る事で第七識に平等性智が顕れます。
と、その前に
>> 8で、加藤氏は
唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。
と言っておりますが、まさにその通り。
唯識で言う四つの転識得智は、空の四義を覚る事で得られる修行の果徳を意味しております。
次に『倶舎論』で阿頼耶識が無為として説かれている事を
加藤氏の書籍から文字を起こして紹介しましょう。
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
どうぞ
ご自由に皆さんで意見なされてください。
結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
まー、そこがリダンの面白いところで
わたしは大好きなんですけどね。
わたしは全く「相依性縁起」を覚れていませ~~~~~ん!
と皆さんに向かって叫んでいる事となんら変わりがありません。
それを第三者に、
「あの理解でいいのか?」
などと疑問を投げかけている時点で
もうアウトでしょ。
同じ教えを聞いても以下の境涯の違いによりその解釈もそれぞれに異なってきます。
声聞の境涯で理解する者
縁覚の境涯で理解する者
菩薩の境涯で理解する者
仏と同等の境涯で理解する者
仏教の世界では、教えはそれを理解する側の境涯で概ね四つの解釈に分かれるものなんです。
やはり、リダンは未だに相依性縁起(縁覚の智慧)を覚れずにいる様子です。
トーク板を覗いて見ますとリダンがこのような書き込みをしておりました。
870.リダン◆gEV3xsS//k
今なんかブログの更新してるが
善法、悪法、無記法は
あの理解でいいのか?
2024/10/09 08:14:07
次に本書では、自証分と証自証分についても解りやすく説明されております。
阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。断にも非ず、常にも非ず。恒に転ずるを以ての故なり。恒というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、一類(無記)に相続して常に間断すること無し。是れ(三)界と(五)道・(四)生とを施設する本なるが故に、性は堅にして、種子を持して失せざらしむが故に。
転というは、謂く、此の識は、無始の時より来た、念念に生滅して前後変異す。因滅すれば果生ずるを以て、常・一に非ざるが故に。転識の為に種子を熏成する可きが故に。
恒と言うのは断を遮し、転というは、常に非ざるを表す。猶お、暴流の如く、因果法爾なり。暴流の水の、断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂し、溺する所ろ有るが如し。此の識も亦爾なり。無始より来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離せざらしむ。
阿頼耶識内では縁起も起きませんし、思慮も生じません。
ですから阿頼耶識は無為なのです。
阿頼耶識の中で種子が変化する訳ではありません。
『成唯識論』で蔵の三義が説かれており
阿頼耶識の中では種子はただ保持し続けるだけです。
阿頼耶識の中で種子が変化するのではありません。
眼識等の他の識において現行する(縁起)ことで種子は「現行薫種子」するのです。
そして「現行薫種子」された種子が今度は因となって「種子生現行」が起こります。
この「現行薫種子」と「種子生現行」の二つの縁起によって「種子生種子」で
種子が常に新しい種子へと相続されていきます。
「阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子」と書きましたが
誤解のないように言っておきます。
さらに「水の下・上の魚・草等」も流れに乗せて保っている様子を
阿頼耶識が種子を保って変化しながら連続する様子と重ね合わせながら、
縁起の道理を見事に例示しております。
そして、縁によって眼識などが起こり恒に相続する様子を捉え、
〝相続〟によって生じたり滅したりするので「常にも非ず」
そして、絶えることなく相続するので「断にも非ず」と説かれております。
まず阿頼耶識は「無始」であると。
第四偈より
「無始よりこの来た、消滅し相続して常にも非ず、断にも非ずして、有情を漂溺して出離せざらしむ。又た瀑流は、風等に撃せられて、諸の波浪を起こすと雖も、而も流すること断ぜらるが如し。此の識も亦た爾なり。衆縁に遇って、眼識等を起こすと雖も、而も恒に相続せり。又た瀑流は、水の下・上の魚・草等の物を漂して、流れに随って捨てざるが如し。此の識も亦た爾なり」
非常に分かりやすく、そして的を射た比喩ではないでしょうか。
これについて『成唯識論』は次のように説明しております。
人間が存在し輪廻が続く限り、この阿頼耶識もとどまることなく絶えず変化しながら存続しているさまをこう表現しています。
「恒に転ずること、瀑流の如し」という一節は耳にされた方もいるかと思いますが、これは阿頼耶識の動きを、激しい水の流れにたとえております。
では、その阿頼耶識が無為の真如の世界である根拠を
『成唯識論』の言葉を以て示していきたいと思います。
阿頼耶識というのは欲界・色界・無色界の三界思想で言うところの、無色界にあたります。
この無色界(真如の世界)に三乗の智慧を以て
仏の智慧が無為の法(無漏の種子)として植えつけられます。
そしてこの三乗の智慧を以て最終的に
仏の智慧が阿頼耶識で大円鏡智として開かれます。
声聞の智慧を覚る事で前五識に成所作智が顕れます。
縁覚の智慧を覚る事で第六識に妙観察智が顕れます。
菩薩の智慧を覚る事で第七識に平等性智が顕れます。
と、その前に
>> 8で、加藤氏は
唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。
と言っておりますが、まさにその通り。
唯識で言う四つの転識得智は、空の四義を覚る事で得られる修行の果徳を意味しております。
次に『倶舎論』で阿頼耶識が無為として説かれている事を
加藤氏の書籍から文字を起こして紹介しましょう。