無我の事を「自分が無い」とか「自他の分別が無い」とか言う人達(主に学者さん)が沢山おられます。
しかし、そういった無我の解釈が間違いであった事は、昨今の仏教学界でも認識が改められております。
間違いだらけの仏教の常識 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
七識とハ識の違いは、意識が働くか働かないかの違いでもあります。
末那識の煩悩がなくなると汚れのない無漏の智慧が意識として働き出します。
それが一切衆生を苦しみから救ってあげたいという仏の慈悲の心です。
その慈悲のこころが一大事の因縁となって仏は欲界に顕れます。
『成唯識論』に、
此の意は四煩悩の等きと相応す。是れ染法なるが故に、聖道を障侭し自心を隠蔽す。説いて有覆と名づく。善不善に非ず、故に無記と名づく。
とありまして、末那識も本来は、阿頼耶識と同じように無記なのですが、その無記が煩悩に覆われてしまっているので末那識は、有覆無記となります。
四煩悩とは、我癬、我見、我愛、我慢のことで、これらの煩悩が相応して起こると、聖道である無漏の智慧を覆い隠してしまいます。この煩悩が無くなった末那識の状態のことを「無我」といいます。
我々人間(凡夫)は、行いを善と悪とに分けて考えますが、実は善・悪を超えたところに真理はあります。
仏は善・悪ではなく「無記」で対象を認識します。
その無記に、有覆無記(うふくむき)と無覆無記(むふくむき)とがあります。
有覆無記が第七末那識で、
無覆無記が第八阿頼耶識になります。
『唯識三十頌』では第五頌から、末那識について語られます。
唯識において阿頼耶識は、善・悪の判断が生じない「無記」であることは、
良く知られております。
しかし、この末那識も無記であるという事はあまり知られておりません。
成唯識論卷第一 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_001
成唯識論卷第二 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
成唯識論卷第三 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_003
成唯識論卷第四 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
成唯識論卷第五 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_005
成唯識論卷第六 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_006
成唯識論卷第七(14~18頌 ) https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_007
成唯識論卷第八 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_008
成唯識論卷第九 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_009
成唯識論卷第十 https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_010
唯識はいかに他者を語るか 近藤伸介 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0045/DB00450L035.pdf
新古唯識における相違点 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/1/63_KJ00009742248/_pdf
「本質」 と 「疎所縁縁」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/1/60_KJ00007730064/_pdf/-char/ja
唯識08 第十八頌 縁 https://renshouji.com/唯識08 第十八頌 縁/
『成唯識論』第三講 へ続く
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
ましてこころ(識)というものは、人間だけとは限りません。
阿頼耶識では色別が生じませんので人だろうが犬だろうが豚だろうがカマキリだろうが、分別されることなくあらゆる心がそこには収まっていきます。
阿頼耶識は、そういった一人一人の個別の世界が分別されることなく一つの蔵に全て収まっている訳です。
唯識をあるのは唯(ただ)自身の心(識)のみと言い、独我論や独在論と勘違いされている方が沢山おられます。
しかし、唯識で言っていのはそういった独我論や独在論ではなく、一人一人に各々の世界があると言っているのです。
所変に依って識が起きると言っているんです。
所取である客体が変じる事を所変と言います。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
まず能取とは別に所取があるという設定を玄奘は立てております。
『唯識三十頌』の第一頌の「彼依識所変 此能変唯三」の文句を真諦が、
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり
と訳していたところを玄奘は、
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
とまず、所取と能取を分けるところから始めている。
唯識における二取と二分の混同も、実はこの二種の客観の混同から生じております。その混同を正していったのが世親・護法・玄奘等が展開していった有相唯識になります。
哲学の世界では、この二つの客観を「主観的実在」と「客観的実在」という言葉で使い分けております。
あなたの認識から離れたところにある世界、それも世界です。
例えば人類が生息していなかった時代にあっても世界やモノは客観的に存在しております。
〝客観〟というのは人間の認識に限った言葉ではありません。
人間の「主観と客観」という認識における客観と、存在の有無を言い表す客観の二つの意味がこの客観という言葉には含まれます。
あなたが住んでいる地球の裏側の世界を、
あなたは認識出来ていますか?
私達人間が見ている世界は、客観的に実在している対象です。
それは自身の〝客観〟という認識で見ている世界です。
しかし、世界は私達が認識している世界だけが
世界の全てではありません。
そしてこの〝観〟を造り出す心を〝性分〟と言います。
凡夫の世界観(仮観)は、我執と法執に覆われた末那識によって形成されます。
その濁った凡夫の末那識の性分を「遍計所執性」といいます。
仏道に身をおいていない人達は、概ねこの外道というモノの見方をします。
なぜなら、人は〝客観〟の世界の中で生活しているからです。
仏門に入ってもなお、この客観の世界観から離れなれない修行者の境涯を仏教では声聞と言います。
この客観によって立ち上がる世界観を仮観といい、我々凡夫の世界観がこれにあたります。
「有る」と見るを常見、「無し」と見るを断見。
お釈迦さまはこの二つのモノの見方を外道の見解としてしりぞけました。
この外道の見解は、「有る無し」でのモノの見方で客観的なモノの見方なんですね。
「有る無し」でのモノの見方=客観認識
この護法の解説文って、何を言っているのかお解かりでしょうか。
「有る無し」で相分・見分を説いているのではなく、
「縁起」で相分・見分を説いているのです。
相分・見分は、依他起でもあり遍計所執でもあるといっているのです。
縁に依りて変化するものであると。
我々世間の凡夫は、その「依他性」に我執と法執というフィルターがかぶさってくる訳です。
同じ「所変の相分・見分」なのですが、凡夫の場合、所変が所執になってしまうのです。
我執と法執に覆われてしまうからです。
「世間の凡夫は」と言っておりますので、前半の部分は「仏の見解」だという事がわかります。
識の自証分によって変じた所変の相分・見分は「依他起」であり、そこには主宰も作用もなく、本性として言葉から離れている。
と護法は言っております。
「主宰も作用もなく」の意味は、後半へ読み進めば分かります。
「護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故」
護法釈して云く。識の自証分の所変の相・見の依他の二分は、我にも非ず法にも非ず。主宰無きが故に。作用無きが故に。性、言を離るるが故に。
「世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。」
世間の凡夫は、識所変の相・見二分に依りて、依他性の上に執して我・法と為す。此の所変の者の彼の妄情に似るを、「[諸識の生ずる時に変じて]我・法に似る」と名づく。彼の妄所執の我・法は実には無し。
中国の法相宗を起した基が注釈した『成唯識論述記』(659年)に、護法の主張が次のように紹介されております。
護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故。聖教名我法者是強目彼。如世説火口不被燒。所説火言明非目火。世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1830_,43,0242b14&key=後諸識起變似我法。護法釋云。識自&ktn=&mode2=2
と言いますのも、見分〝あり〟とか相分〝あり〟とか、見分〝なし〟とか相分〝なし〟とか言ってる時点で、思考が「有る無し」の空の二元論での発想なんですね。
無我の事を「自分が無い」とか「自他の分別が無い」とか言う人達(主に学者さん)が沢山おられます。
しかし、そういった無我の解釈が間違いであった事は、昨今の仏教学界でも認識が改められております。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16
七識とハ識の違いは、意識が働くか働かないかの違いでもあります。
末那識の煩悩がなくなると汚れのない無漏の智慧が意識として働き出します。
それが一切衆生を苦しみから救ってあげたいという仏の慈悲の心です。
その慈悲のこころが一大事の因縁となって仏は欲界に顕れます。
『成唯識論』に、
此の意は四煩悩の等きと相応す。是れ染法なるが故に、聖道を障侭し自心を隠蔽す。説いて有覆と名づく。善不善に非ず、故に無記と名づく。
とありまして、末那識も本来は、阿頼耶識と同じように無記なのですが、その無記が煩悩に覆われてしまっているので末那識は、有覆無記となります。
四煩悩とは、我癬、我見、我愛、我慢のことで、これらの煩悩が相応して起こると、聖道である無漏の智慧を覆い隠してしまいます。この煩悩が無くなった末那識の状態のことを「無我」といいます。
我々人間(凡夫)は、行いを善と悪とに分けて考えますが、実は善・悪を超えたところに真理はあります。
仏は善・悪ではなく「無記」で対象を認識します。
その無記に、有覆無記(うふくむき)と無覆無記(むふくむき)とがあります。
有覆無記が第七末那識で、
無覆無記が第八阿頼耶識になります。
『唯識三十頌』では第五頌から、末那識について語られます。
唯識において阿頼耶識は、善・悪の判断が生じない「無記」であることは、
良く知られております。
しかし、この末那識も無記であるという事はあまり知られておりません。
成唯識論卷第一
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_001
成唯識論卷第二
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
成唯識論卷第三
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_003
成唯識論卷第四
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
成唯識論卷第五
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_005
成唯識論卷第六
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_006
成唯識論卷第七(14~18頌 )
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_007
成唯識論卷第八
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_008
成唯識論卷第九
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_009
成唯識論卷第十
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_010
唯識はいかに他者を語るか 近藤伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0045/DB00450L035.pdf
新古唯識における相違点
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/1/63_KJ00009742248/_pdf
「本質」 と 「疎所縁縁」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/1/60_KJ00007730064/_pdf/-char/ja
唯識08 第十八頌 縁
https://renshouji.com/唯識08 第十八頌 縁/
『成唯識論』第三講 へ続く
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
ましてこころ(識)というものは、人間だけとは限りません。
阿頼耶識では色別が生じませんので人だろうが犬だろうが豚だろうがカマキリだろうが、分別されることなくあらゆる心がそこには収まっていきます。
阿頼耶識は、そういった一人一人の個別の世界が分別されることなく一つの蔵に全て収まっている訳です。
唯識をあるのは唯(ただ)自身の心(識)のみと言い、独我論や独在論と勘違いされている方が沢山おられます。
しかし、唯識で言っていのはそういった独我論や独在論ではなく、一人一人に各々の世界があると言っているのです。
所変に依って識が起きると言っているんです。
所取である客体が変じる事を所変と言います。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
まず能取とは別に所取があるという設定を玄奘は立てております。
『唯識三十頌』の第一頌の「彼依識所変 此能変唯三」の文句を真諦が、
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり
と訳していたところを玄奘は、
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
とまず、所取と能取を分けるところから始めている。
唯識における二取と二分の混同も、実はこの二種の客観の混同から生じております。その混同を正していったのが世親・護法・玄奘等が展開していった有相唯識になります。
哲学の世界では、この二つの客観を「主観的実在」と「客観的実在」という言葉で使い分けております。
あなたの認識から離れたところにある世界、それも世界です。
例えば人類が生息していなかった時代にあっても世界やモノは客観的に存在しております。
〝客観〟というのは人間の認識に限った言葉ではありません。
人間の「主観と客観」という認識における客観と、存在の有無を言い表す客観の二つの意味がこの客観という言葉には含まれます。
あなたが住んでいる地球の裏側の世界を、
あなたは認識出来ていますか?
私達人間が見ている世界は、客観的に実在している対象です。
それは自身の〝客観〟という認識で見ている世界です。
しかし、世界は私達が認識している世界だけが
世界の全てではありません。
そしてこの〝観〟を造り出す心を〝性分〟と言います。
凡夫の世界観(仮観)は、我執と法執に覆われた末那識によって形成されます。
その濁った凡夫の末那識の性分を「遍計所執性」といいます。
仏道に身をおいていない人達は、概ねこの外道というモノの見方をします。
なぜなら、人は〝客観〟の世界の中で生活しているからです。
仏門に入ってもなお、この客観の世界観から離れなれない修行者の境涯を仏教では声聞と言います。
この客観によって立ち上がる世界観を仮観といい、我々凡夫の世界観がこれにあたります。
「有る」と見るを常見、「無し」と見るを断見。
お釈迦さまはこの二つのモノの見方を外道の見解としてしりぞけました。
この外道の見解は、「有る無し」でのモノの見方で客観的なモノの見方なんですね。
「有る無し」でのモノの見方=客観認識
この護法の解説文って、何を言っているのかお解かりでしょうか。
「有る無し」で相分・見分を説いているのではなく、
「縁起」で相分・見分を説いているのです。
相分・見分は、依他起でもあり遍計所執でもあるといっているのです。
縁に依りて変化するものであると。
我々世間の凡夫は、その「依他性」に我執と法執というフィルターがかぶさってくる訳です。
同じ「所変の相分・見分」なのですが、凡夫の場合、所変が所執になってしまうのです。
我執と法執に覆われてしまうからです。
「世間の凡夫は」と言っておりますので、前半の部分は「仏の見解」だという事がわかります。
識の自証分によって変じた所変の相分・見分は「依他起」であり、そこには主宰も作用もなく、本性として言葉から離れている。
と護法は言っております。
「主宰も作用もなく」の意味は、後半へ読み進めば分かります。
「護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故」
護法釈して云く。識の自証分の所変の相・見の依他の二分は、我にも非ず法にも非ず。主宰無きが故に。作用無きが故に。性、言を離るるが故に。
「世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。」
世間の凡夫は、識所変の相・見二分に依りて、依他性の上に執して我・法と為す。此の所変の者の彼の妄情に似るを、「[諸識の生ずる時に変じて]我・法に似る」と名づく。彼の妄所執の我・法は実には無し。
中国の法相宗を起した基が注釈した『成唯識論述記』(659年)に、護法の主張が次のように紹介されております。
護法釋云。識自證分所變相・見依他二分。非我非法。無主宰故。無作用故。性離言故。聖教名我法者是強目彼。如世説火口不被燒。所説火言明非目火。世間凡夫。依識所變相・見二分依他性上。執爲我法。此所變者似彼妄情名似我法。彼妄所執我法實無。
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1830_,43,0242b14&key=後諸識起變似我法。護法釋云。識自&ktn=&mode2=2
と言いますのも、見分〝あり〟とか相分〝あり〟とか、見分〝なし〟とか相分〝なし〟とか言ってる時点で、思考が「有る無し」の空の二元論での発想なんですね。