1930年代~1951年にかけての時期にかけて、スペイン帝国(現在のイベリア帝国)の政情不安を現した言葉。
1918年の帝国敗戦に続いて、国内では共産主義や分離主義、無政府主義などあらゆる思想が書籍などを通じて拡散し、人々の理念に影響を及ぼした。1923年の「社会正義憲章」を皮切りに各地では労働者達が「パン・平和・自由」を掲げてストライキを起こし、独立志向が強かったカタルーニャやバスクでは「民族自決」に目覚め連日暴動が相次いだ。1937年には社会主義青年団による武装蜂起、一部では軍によるクーデターが画策されるなどスペイン内戦の始まりは目前かに思われた。
1921-1925年の第三次リーフ戦争にて頭角を現していた軍のフランシス・フランコは、軍事蜂起の準備を進めていたスペイン陸軍中央軍集団を説得し、軍事蜂起を未然に防いだ。改革を求める共和派側との交渉においては皇帝フェルナンド7世に代わり皇后のイサベル・アナスタシアが対応して両者の間に妥協が成立した。こうした功績から1939年にフランコを宰相としてファランヘ党が政権を獲得しファシストによる政権が樹立され、フランコは改革に取り組んだ。しかし1944年に起きた副王領内での軍事衝突、皇帝フェルナンド7世の心身疲弊による政務能力の欠如などフランコによる改革は思うように進まなかった。フランコ大宰相らは皇帝の権威を取り戻すべくフェルナンド7世の妻であり皇后のイサベル・アナスタシア・フォン・アルコ=ツィンネベルクに協力を求め、1951年にフェルナンド7世を事実上退位させ皇后のイサベル・アナスタシアが次代の皇帝候補であったカルロス6世が即位するまでの間摂政を務めることとなった。
1965年までの間、イサベル皇后とフランコ大宰相の二人によりさまざまな改革が推し進められスペイン帝国の「不安の時代」は終わりを迎えることとなる。
また、1991年の3月蜂起やフェリペ7世の治世、イベリアの火などの出来事を不安の時代として定義する文献もたまたま見かける。