高度に統治された蘇州高等自治特区の中にも緑豊かな場所がある。
「静機園」は、近未来的な都市の中に取り残された古い文化地区…といえば聞こえはいいが、実際はテミス・システムの「適切な心理安定指数」に基づいて管理された人工制御庭園群に過ぎない。ここには歴史的建造物が並んでいたが、蘇州動乱の際に帝国軍とこれに抵抗する現地勢力との戦闘によって荒廃した。静機園はこうした文化物に似せて作ったものに過ぎないが、一目では本物の庭園と大差ないだろう。
「クラルテから少ししかたってないけれど随分と都市の姿は変わったのね。写真で見たときとは大違い」
遠くに臨む龍門の都市は高層ビルがいくつもたっており、戦後わずかであることを感じさせない。人工的に発生させられたそよ風が木々を揺らし、水面は小さなさざ波を立てる。
ー、その中央、石橋の端に立つ女性の姿。白を基調とし青の色とりどりの装飾が施されたチャイナドレスと、長い黒髪に編み込まれた金色の飾りが、周囲の景観に溶け込みつつも異質な存在感を放っていた。可憐な竜人は彼女の存在を既に探知していたようであり、驚いた様子もなく彼女らに向かって一礼をした。
『静機園は市民の要望を元に、戦跡の上に再建された庭園です。文化を模倣しつつ、電子技術により現代的に調和するように仕上げられています。シュルヴィア・ニナ・エレオノーラ・アンナ=リーサ・ベールヴァルド情報宰相様』
「…あなたがそう感じたのなら、それはきっと正確なのでしょう。……けれど、私は『人工美』というものにまだ慣れないわ。」
『時に人工とは、自然からの乖離でしょうか。それとも、精密な模倣でしょうか?』
シュルヴィアは視線を池の鯉へと向ける。
鯉は立体的に動いているが、本物ではなく電子的に構築されたホログラムが漂っているに過ぎない。
「あなたがこのような姿を選んだのも、模倣の一種かしら。――龍の意匠。中国文化における支配と調和の象徴。」
『私はこの地を監視する存在であると同時に、理解しようとする存在でもあります。彼らの記憶に語りかける姿こそが、最も効率的に感情的接続を生む。』
「合理的ね。感情をもってして感情を動かす。人間らしい戦術。テミス、あなたはこの都市の神様みたいなものよ」
ロングニュは、少し考えこむような動作を行い数秒の沈黙の後、ゆっくりと応えた。
『神…ですか。蘇州全てがテミス・システムの影響下にはなく“灰域”は各地に点在しています。人々の定義では神は完全なものとして定義されています』
「それでいいのよ。女神が地上に降りるには、まず“人間の足”で歩くことを覚えることから始めるのだから」
きょとんとした表情を見せるロングニュに対して、シュルヴィアはわずかに口角を上げ、空を泳ぐホログラムの鯉を指でなぞる。指が鯉に触れると暖かい感覚が指を包んだ。
・蘇州動乱
台北条約後、帝国統治下となった蘇州で起きた紛争。帝国側では「オペレーション・クラルテ」と呼ばれる。
・シュルヴィア
ュルヴィア・ニナ・エレオノーラ・アンナ=リーサ・ベールヴァルド。旧名はシュルヴィア・ニナ・エレオノーラ・アンナ=リーサ・フォン・イサベルティア。帝国の情報・宣伝宰相。
・灰域
スラム街。テミス・システムに適正なしとされた人やテミス・システムに認知されなかった人々が集まっており、ENノクターン・セキュリティーによる掃討作戦が連日行われている。たまにエレナ・ニーナやANHなどが被検体欲しさに襲撃を実行することもある