帝都の静かな応接室。窓の外では夜の雨が規則正しくガラスを叩いている。室内には低く抑えた灯りと、時折響く駒の音。重厚な黒檀のチェス盤を挟み、テミス・ロングニュは姿勢ひとつ乱さず座っていた。
対面に座るのは、帝国中央政務局の高官、コンスタン・ヴェルミリオン。軍との連絡役も兼ねる、帝国実務の重鎮の一人である。
『不可侵条約に軍は不満だと、マザーからの演算結果を受け取っております』
ロングニュが静かに言いながら、白のビショップを滑らせる。美しい手の動きは、機械的でありながら妙に人間的だった。
「軍上層部…特に陸軍はそう考えているようですね。得たのはテキサス州と、一時の和平。軍は戦って勝つことにこそ意味を見出す。予算委員会でも士官連中は露骨に反発していましたから。イベリアの火ではガリア方面軍の離反から、民間からの支持は芳しくありませんから」
ヴェルミリオンは黒のルークを中央に展開しながら、ロングニュの反応を探る。
『少なくとも民衆は歓迎しています。征服よりも安定を。拡大よりも発展を。今現状、戦争をせずとも国民は"強い帝国"を誇りに思っていると、マザーは演算結果を提示しています』
彼女の声は静かだが、その内容には一分の揺らぎもない。次の一手でクイーンが大きく前進した。
ヴェルミリオンの眉がわずかに動く。「不可侵条約などと引き換えにテキサス州を獲得する案は、あなた自身が推したものでしたね。」
『正確には、《Themis System》です。私はマザーの端末の一つに過ぎません。ですが…』
彼女はチェス盤を見下ろしながら、僅かに口元を緩める。『私は、人間の衝動を予測する程度の自由裁量は与えられています』
「自由裁量、ですか」
彼はナイトを斜めに跳ねさせたが、その駒はすでに包囲されているように見えた。
『あなた方は“勝った”と感じる戦争を求めている。だが現実に勝っているのは、誰が犠牲を最も少なく済ませたか、という指標だ』
数手先を読み切っていたロングニュが、駒を動かす。
チェック。
ヴェルミリオンの目が鋭くなる。手を止めて数秒、彼は考えたが、やがて肩を落とすように息を吐いた。
「……詰みか。まさか機械に負けるとは。直近では負けなしでしたが…」
ロングニュは軽く首を傾げた。『はい、6手先で詰んでいます。軍の論理も、予算の力学も、感情の波も、すべてが《予測可能》であれば、盤上においては計算通りです。1を1と認識し、1を出力できるからこそ私が統治を任されているのだと。そう演算し認識しています』
「だが現実は盤上ではありません」
『ええ。だからこそ、私は盤上で練習するのです。人と同じように』
ヴェルミリオンはチェス盤を見つめながら、しばらく沈黙した。そして苦笑いを浮かべた。
「…軍は黙っていませんよ。あの不可侵条約が失敗に見えれば、イベリアの火の再来になりかねない。帝国は外見以上に歪なのですから。それに、テミス・システムそのものを快く思わないものもいることをお忘れなく」
ロングニュは立ち上がらない。まるで盤面そのものが彼女のテリトリーであるかのように、変わらぬ姿勢で答える。
『標的になることを恐れる存在は、戦略を語る資格がありません。そもそも、既に反乱危険因子は測定済みです。…すぐにでも実行して見せましょうか?』
「…いいや、冗談ですよ。ロングニュ。さぁ、もう一回対戦をお願いできますでしょうか?」
『えぇ、もちろんです』
雨音が少し強くなった。駒はすべて静止している。それでも、勝者の側だけが、次の一手を考えていた。