空は抜けるように澄んでいた。
雲ひとつなく、ただ凛とした夜の気配だけが、コンクリートの高みに満ちていた。
ワシントンD.C.。
アメリカの心臓たるこの都市も、深夜の帳に沈めば、どこか他人の夢の中のように静けさを纏う。
遠くで犬が鳴き、遠景の高速道路では、赤い尾灯が流星のように地を這う。
ビルの屋上。
足元には整然と並んだ白い礫と、うっすらと濡れたタイル。
冷たい風が、昼には知られることのない屋上の草むらをそっと撫でてゆく。ビル街の狭間にわずかに咲いた野の草、孤独な命。
そこにひとり、黒のスーツに身を包んだ男がいた。
白銀の月を背にして、彼はまるで建築物の一部のように、音もなく佇んでいた。
煙草に火を点ける指の動きは、まるで儀式のようだった。
ジッポライターが淡く火を灯し、その焰が彼の頬に一瞬だけ生温かな色を与えたかと思えば、また夜の闇に吸い込まれてゆく。
指先が震えることはない。吸い込まれる煙も、まっすぐ空へとのぼっていく。
月光が銀糸となって髪に落ち、彼の影は、真下へと深く沈み込んでいた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
ワンコール、ツーコール、そして、繋がる。
「……来たよ」
夜気に溶けるような声だった。
その声は風の一部となって、ペンタゴンの方角へ流れてゆく。
『彼らはロードアイランドに入った。名目は“共同警備”。だが実際には……君もわかっているはずだろう』
電話の向こうから返る声は低く、砂混じりの海風のような質感を持っていた。
「まるで、何かが目覚めるみたいな言い方だな。……例の、アレの話か。また?」
男は微かに目を細めた。
その頬を、都会の風が撫でた。どこか香水のような排気の匂いと、湿った鉄の香り。
『月が見ているよ。君はいつもあそこで電話するだろう?』
ひと呼吸。
彼の吐いた煙が、天頂の月を裂いてゆく。
「現実性の話さ。無垢な物語はそのヒトツだけで終結しようとはしない」
電話の向こうに、沈黙。
そして静かな呟き。
『じゃあ今回は、“檻”に入れる、と?』
男は、足元の舗装に目を落とした。
影が、微かに揺れている。彼の影ではない何かが、揺れていた。
「SASも、火葬屋も、他のも集めた。まるで虹色の6つだ。胸が熱くなるな」
『……芝居ってこと?』
「それでも、観客が信じれば、演目は真実になる。必要なのは、“我々がそう振る舞った”という記録だ」
電話越しに笑い声が混じる。
『演じる正義、ね。お前は昔からそうだった』
「正義じゃない」
月明かりが、彼の瞳に白く射す。
「これは、封印だ」
風が強まる。遠くで航空機の爆音がひとつ、夜を切り裂くように通り過ぎた。
「やつの物語は、終わらせなければならない。少なくとも、観客にそう信じさせる必要がある。……それが、此処で生きるための“役割”だ」
スマートフォンの画面が淡く明滅し、通話が終わる。男はそのままポケットに端末を仕舞い込み、最後の煙草を空に掲げた。月が、その輪郭を金の縁取りで飾った。
そして、深く吸い込む。
夜と、虚構と、茶番。
吐き出すように、白い煙が夜に漂い、都市の淀んだ空へと混ざっていった。