雨が止んだばかりの、音を忘れた街。
舗道に溜まった水たまりは、うっすらと紫がかっていた。頭上でまたたく“ELECTRIC ROSE”のネオンが、それを優しく照らしている。
ピンクと藍の光がアスファルトににじみ、まるで割れたステンドグラスのようだった。
彼はその真ん中にいた。
背中を薄汚れたコンクリートの壁に預け、片膝を立てて座っている。グレーのシャツが脇腹のあたりから深紅に染まり、黒革のコートの裾も濡れていた。
血の感触にはもう慣れているはずだった。
なのに今日だけは、体のどこかが違和感を訴えている。妙に静かで、やけに鮮明で。
“Now and then I think of when we were together…”
遠く、誰かの車のラジオが曲を流している。“Somebody That I Used To Know”。
旋律が雨上がりの夜気に溶けて、路地に漂う。
耳に届くたび、心臓の鼓動がゆっくりになるのがわかる。
この曲は、エリーが初めてこの街に連れてきてくれた夜に聴いたやつだ。
――そうだった、あれは確か、ラズベリー・ジントニックのカクテルバー。
彼女はグラス越しに笑いながら言った。
『この曲、悲しいけど、なんか……甘いでしょ。あんたの背中みたいにさ』
背中、ね――
彼は苦笑した。少しだけ喉の奥に熱いものが込み上げて、また咳き込む。そのたびに、舌の上に鉄と泥の味が滲む。
ゆっくりと、指先が胸ポケットを探る。
出てきたのは、小さな写真。ポラロイドだ。
もう随分前に撮った、二人のツーショット。
エリーの髪は金に近い赤で、ネオンに照らされて炎みたいに揺れていた。彼は、その隣で少しだけ居心地悪そうに笑っている。
「撮るなら言えよ」って文句を言いかけた瞬間の顔だ。その写真のエリーは、今でもまるでそこにいるようで。
“You can get addicted to a certain kind of sadness…”
彼は写真を胸に戻し、深く息を吐いた。
目を閉じると、浮かぶのはいつもあの夜の記憶。
冷たい風、騒がしいネオンサイン、ミントと煙草の混じった彼女の香り。
頬にそっと触れた細い指――そして、その声。
『……あんた、さ。いつかこの街に殺されるよ』
その言葉が、今になって胸に突き刺さる。
まるで、未来を見透かしたような顔で彼女は言った。当時は笑い飛ばした。
『街なんかに殺されるもんかよ。俺は……俺はこの街で生きるんだ』
でももう、何の意味もなかった。
足元に落ちた血のしずくが、ネオンの光を反射して薄く煌めく。誰にも知られない場所で、名前のない夜に沈んでいく。彼は目を開けたまま、夜の向こうを見つめていた。
もしも、彼女がこの路地を通りかかるなら。
もしも、ネオンの色で彼を見つけたら。
そのとき彼は、もう一度、名前を呼ぶかもしれない。けれど、そんな奇跡は起きないと、もうわかっている。
ネオンが、また一つ切れた。
“ELECTRIC ROSE”の“R”が消え、“ELECT IC _OSE”になった。意味のない綴り。けれど、今の彼にはちょうどよかった。名前のない夜には、意味のない文字が似合う。
“But you didn’t have to cut me off…”
彼は最後に、ネオンの光を見上げた。
瞼の裏には、かつて愛した人と、もう会えない約束と、終わってしまった音楽。全てが混じり合い、夜に溶けていった。
その姿は、まるで一幅の絵画だった。
濡れたアスファルトの上で、ネオンの光を浴びて。
彼の名前も、罪も、過去も、誰にも知られぬまま、夜がすべてを包んでいく。
雰囲気好き
こっちも海南島の茶番の続き書くか…
モチーフ曲…を使用した動画()
https://youtu.be/N-M6-Y5RbKA?si=q_fce3I6a2TKz4xO