『ガーゼィの翼』1巻のダラガウとリーリンスの挿絵は挿入する章を間違っているみたい。
剣道少年の実戦化
クリスはこういう子だからそのことに今不審でもないが、最初の困惑から「軟弱な現代っ子」の態度を出したあと、始まってみればわりと戦闘マシーン――そのつど「偶然である」「運がよかったのだ」と補われるけど、読者には最初から着実に戦ってみえる。殺傷の場が収まるとまた一転してヘタレかのように書かれ、周囲の見る目も、しばらく、かなりのあいだ評価が低い。
クリスはもと剣道部で現代剣道にも弓道にもそれなりに造詣がある。本文では事毎につけ『現実がコンピュータゲームとは違うところ』を書き込まれるが、富野由悠季が現代っ子にワイルドさを求めたいような、それとこれとは違う気がする。銃の訓練の話でだが、シミュレーターから現実の武器への移行のこと「移行射撃」について、FPS慣れした現代の子供が実銃で人に弾を当てられるまでの移行のスムーズさは軍隊以上という話があった。
剣術の場合、スポーツ剣道から異世界での実戦移行する実例がないからわからないが、戦国の終わりから実戦のない江戸時代を通じて道場での稽古研鑽で理論的に磨かれ、明治以降は道として精神性に重きを置かれるようになった(とされる)剣道が、スポーツとしての修得者も短時間の「移行期間」を経れば実戦化しうる、そのときは物凄く強いという説はあるし、ガーゼィのこの後でもあったかな。迫水は直心影流……クリスは示現流を見学したことがあるらしく、初めての乱戦ですでに思い出している。
嫌われたら死、卑屈も死
『誰も知ってくれる人のいない世界(or宇宙)では、人に嫌われたら終わりだ』という思いは、このまえ日向オノレ君が言っていたばかり。その如才なさは卑屈に見えれば人に侮られる、というか、まず読者に嫌われそうか。カミーユなんかは元々あまり言いそうにない。アフランシは逆にはっきり卑屈って書かれていた。それに較べればジョクはヒロイックだった。
- ニュータイプサーガを断念する
- 卑屈にしている暇はないこと
説明としては『リーンの翼』に詳しい。
『クリスはもともとキリングマニアの質なんじゃないか?』という感触の話だな、上の。それは、スポーツ剣道が実戦化する可能性は十分ある、と。
80年代、90年代のライトノベルでも「異世界剣士VS学生剣道」のシチュエーション語りはたびたびあったろうと思うし、わたしは具体的にそれほど思い出せない。
それとはべつに、
などが、たびたび不気味に見えたんだと思う。一言で姑息な立ち回り。その二点もアフランシに共通のやつか。