卑屈にしている暇はない
「20 再会」(旧)
「13 ゲルドワの噂」(新)つづき
「聖戦士殿かっ!」
迫水は、もうこの呼称に抵抗を示すことはなかった。既に、幾度か空をも飛翔した身であってみれば、拒否することの方がおかしかった。謙遜が過ぎて、卑屈な戦士だと悪しざまに言われることは決して良いことではなかった。
『指揮官ともなれば、兵たちの信望を受け、それに応えてゆかなければならない』以下の説明が続く。ここだけを読むと当たり前のような話だが、このことは後の作品までくり返す、富野小説中の重要ポイントだったりする。『ガーゼィ』のクリスは最初は一見して卑屈なキャラクターかのようで、最近読み返したところでは結構がんばって自我を保っていてわたしは考え直した。
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これに続いて完全版では、ビナー・ヘッゲモンの講義によるガダバの侵略地での圧制の異常さを語る。人殺しと収奪だけをしているといって、ガロウ・ランとはビナーはいっていないにもかかわらず、迫水の思いには、
完全版でのガロウ・ラン観については上記まとめ。戦前の横浜の開かれた雰囲気を知って育った迫水には、日本が神国化していく過程は今思えば『どう考えてもガロウ・ランの仕業に思えないではない』となる。
ここに、もっと確かなものを戦争目的に据えたい、という迫水の思いが加わって今の『卑屈にしている暇はない』になるから、ここの文章は旧版・完全版併せて読み返すだけの、あらためて考えてみる重層的な意味がある。
どう考えても……思えないではない
という言い方は読んでなんだか変な気持ちがするが、そこはいま気にしないでいよう。