三枝成彰音楽の方の映画「優駿」サウンドトラック(1988)も聴く。 今は菅野由弘音楽と較べ聴いている気分なのだが、やはりどうしても途中から「宮本輝原作の競走馬の映画」を忘れて「逆シャア以後の未見のガンダム映画」のような気になってくる。何年もそういう聴き方だったから仕方ない この優駿OSTは最近配信もされてる。中古盤でも過去に高騰してたようなことはなかった。映画のサントラだがCD1枚に6曲収録で10分を超える大曲も複数含む実質三枝成章のオリジナル交響組曲アルバムではある。終曲には次の「ヤマトタケル」(1989)を彷彿、予感もさせる。わたしは今週は、あとハサウェイの気分で続けておこうか [contains quote post or other embedded content]
これのトラック7あたりを聴くたび00年代頃のESTなどを連想する。わたしはよく憶えていないし、それは時代的な印象で直接関係ないやつだろう。澤野さんは自分の影響元なんかは公言していると思う。ハサウェイにもどって、今あえてヴォーカルの「Möbius」「Tracer」は良いなと思ってみて、たとえば「ガイア・ギア」のドラマテーマ曲「Voice of Gaia」などは92年当時でも古い…という印象だったろう。2020年代にTracer聴いて「新しい!」とは感じないと思うが、もし1990年にこれを映画でやっていたらやはりびっくりだ。平成初期のTVアニメのオープニングにMöbiusを空想してみるのも、なかなか。
映画第二部から。今頃になってだが、ハサウェイの話題は分設して以後こちらでする。
といっても、原作は昔から読んでいて字句を憶えているくらいだし、今更することは雑談ぎみにしかならないと思う。しょうのない雑話をちょくちょくしているので、SNSでの発言の保管庫にしてもよい。
昨年このZawazawa板を立てたときに、そのときの富野通読状況ではハサウェイをさっさと通過するところだった。昔のテロリスト小説(スリラー)をぽつぽつ読み返していたのと
ベトナム戦後とその後
トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』(1981)読みおわった。ハリス作品を最後に読んだのが10年前だが、このまえ、『ブラック・サンデー』(1975)が、「ベトナム帰還兵がテロを起こす」スリラーの先鋒としてここ、ハサウェイを読み直す参考になりそうと思って再読もしたんだった。それは、今はあまりない。
『ブラック・サンデー』読んでもわかるが、1970年代にベトナム問題は社会問題としてアメリカ国内では衆知で、それは新しい問題でない。それに喚起して「ベトナムでトラウマを負って殺人鬼になる」のような、ベトナム発パターンの読み物がこの頃に量産されるんだろうと思い、その流れに興味なのだけど、そのことはわたしはあまり知らない。バナナフィッシュみたいなのか。
このようなエピソードの例は、『「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン,1995 安原和見訳1998)に多く載っている。それは富野より押井守の参考文献の先頭に挙がっていたが、押井作品の話は今しない。
それとマランビジーで終わっていた。初読者向けの案内なんかはしない。
核爆発(モビルスーツの核融合炉の爆発)を地球上でドカドカするから。アポカリプティック映像を見たい欲はあるよね?
オラシオンガンダム
三枝成彰の音楽話題。いま、
菅野由弘音楽のリスニングの続き、宮本輝原作小説のラジオドラマ「優駿」(1987)から、三枝音楽の方に逸れて続き。三枝劇伴の好盤のうちでも「交響曲 動乱」やこの「優駿」などは、動乱ガンダム・優駿ガンダム(ガンダムオラシオン)みたいなガンダムシリーズの引き続き印象で聴きがちではあり、今そんなに映画本編のイメージを想起しない。
三枝成彰「オラトリオ ヤマトタケル」(1989)については前回、『ガーゼィの翼』(1995)との連想で一度触れた。
「閃光のハサウェイ」に戻って、澤野弘之作曲のOSTの印象は前回これ。もちろん、先週の映画館の行き帰りにも聴いてた。
富野小説を読む折に、小説を読んだらそれにちなんだサウンドトラック盤、交響組曲、直接関係ないが連想を喚起するアルバム等を選んで聴くのを儀式にしている。閃光のハサウェイOST2は「交響組曲形式」ときいているので今週たのしみだ。
「閃光のハサウェイ」オリジナル・サウンドトラックを聴く。イヤホン、街歩きの行き来中。
この折に「F91」の交響詩アルバムを聴こうと思ったのだけど、そういえばハサウェイ読んだの忘れていたからハサウェイに変えた。映画一部のあと何度も聴いてる。わたしは澤野弘之作品は手元にそんなに持ってないし聴いていない。きらいなのではなくて、音楽はどっちかというと好きなタイプだけどその頃わたしが映画やアニメ見ないとか、劇伴蒐めなくなった時期だったりした、間のせい。
これのトラック7あたりを聴くたび00年代頃のESTなどを連想する。わたしはよく憶えていないし、それは時代的な印象で直接関係ないやつだろう。澤野さんは自分の影響元なんかは公言していると思う。ハサウェイにもどって、今あえてヴォーカルの「Möbius」「Tracer」は良いなと思ってみて、たとえば「ガイア・ギア」のドラマテーマ曲「Voice of Gaia」などは92年当時でも古い…という印象だったろう。2020年代にTracer聴いて「新しい!」とは感じないと思うが、もし1990年にこれを映画でやっていたらやはりびっくりだ。平成初期のTVアニメのオープニングにMöbiusを空想してみるのも、なかなか。
「EST」というのはエスビョルン・スヴェンソン・トリオ。わたしがファンで好きだから。わたしは必ずしも00年代、10年代の音楽シーン全般には詳しくない。
から。一連の周回の続き。
俺オデュッセウス
「オラシオンガンダム」はひどいが、オデュッセウスガンダム、よりはだいぶマシかな。そのことわたしはずっと悶々と抱えて不満だったのだけど、今更もう言ってもしようのないこと。
というのは、作中の世界でモビルスーツのペーネロペーを誰が命名したのかは明言されてはいないが、話をみているとどうやらケネスらしく、ケネスがなんでペーネロペーと名付けたかについても書かれてはいないが、小説の読者にはなんとなく想像つく。
映画では第一作ですでにあった、「キルケー部隊」のネーミングの際にやはりオデュッセイアを引用する。それは、ペーネロペーという名前をすでに部隊で使っているからそれに因んでいこうというつもりは見せているけど、こんな時代にメカにホメロスから名を採るなんて、まずそんなに格好いいことではないと思う。神話だ神秘的だや、ましてインテリというイメージはなく、むしろケネスは悪趣味、低俗、馬鹿なやつですという作者の語りが入っているようにわたしには思える。
オデュッセウスガンダムが結局なんで公式設定になったかは承知しているが、映画ではっきりとオデュッセウスと言われるなら嫌。それはこのさき、第三部。アニメはアニメだと思って楽しみにはしているので、わたしはべつにそんな端々の設定に強硬に異議も訴えてない。
パイロット出身で今は新型モビルスーツ開発に携わっているケネスは、新型モビルスーツのことを『俺の女』という含みでペーネロペーの名前つけたんだろうな、という気分が想像される。それはケネスの結婚歴にバツが付いているから、(独身漂流中)という若干自嘲的なフシもあるのかもしれない。
新部隊をキルケーと名付けたときも、やはりキルケーはオデュセウスの愛人であって、ケネスにとって『オデュセウス=俺』意識なのは、ギギが俺と寝てくれれば真実キルケー部隊になる、という台詞に残ってる。にもかかわらず、同部隊内にケネス以外にオデュセウスが別にいては台無しじゃないのか。その下世話な趣味はわかられなくてガンダム付けたらしいのか……。
女おとこのレーン
ペーネロペーのパイロットのレーン・エイムは、きっとそんな含んだ意味合いはわかってなく、自分の愛機が「女の名前」だというこだわりもなくてメカ操縦に専心しているつもりなのだろうけど、傍から見るとケネスの稚児、愛童という目線で見えなくもないのでやっぱり未熟な若者だ。
『閃光のハサウェイ』の作中にケネスとレーンの怪しい関係はない。ところで、『ガイア・ギア』のウル・ウリアンはレーンと共通点を幾つか挙げられるキャラクターで、ウルとレーンが文中で同じ表現を使って描かれたりすることがある。ウルの上官であるダーゴル大佐はウルに湿度のある目を向けていて、ケネスの態度によってはレーンが同じような危機感を覚えはじめる展開は、考えられなくもなかった。
そこまで行かないぶんレーンのキャラは掘り下げずにあっさりして終わる、ともいうか。上官と部下の嗜虐/被虐(SM)の関係はその後、タシロとファラにつづく。
そういえば、わたしはギリシア悲劇古典の前回最後がソフォクレスの『ピロクテテス』で、この作中でオデュッセウスは悪役だ。善とか悪であまり割り切れない作品だが……。わたしの興味がホメロスではなくて、一連のオレステイアまで一度読み返してリヒャルト・シュトラウスを聴こうという目論見だったのが、また長らく吹っ飛んでしまっていた。古典戻らねば。
最近、英語の小説中で女性の人物もsheと呼ばずにthey(単数)で呼ぶときの特有の事情について考えていたけど、モビルスーツのペーネロペーも翻訳するときにsheと呼んだりしていれば若干ニュアンスは乗るか……。
わたしはアニメの吹き替え事情、モビルスーツを何と呼んでいるかなどはまた全く知らない。
語感の問題だと、89年頃にロボット作品のライバルメカの名前に「パピプペポ」なんて違和感が大きく、とても格好良く強ようにも思えなかっただろうから、当時、アニメ前提でない小説ならではだったんだろう。ペーペーという音の響きの面白さからストーリーが発しているのかもしれないな。先に古典作品の出典ありきだとは思えない。
キルケーの魔女 サウンドトラック
「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女 オリジナル・サウンドトラック」澤野弘之、を聴く。
音楽続き、前回は三枝音楽のなごり。
ファーストインプレッション。公式サイトに「交響組曲形式」とあったので別のものをイメージしていたが、一曲目の初っ端に「ん?」と思っただけで事情はすぐにわかった。SYMPHONICとは書いていない。この[THE SORCERY OF NYMPH CIRCE] SUITEは、映画第一部とOST1をこの何年か周回もしていたから作品のメインになる諸々のテーマはあらかじめ十分承知の上、新たに第二部「キルケ―の魔女」へのモチベーションになる。
――といえばそうだが、初日、劇場で観ている間はメロディは聴き取るものの、どんなアレンジなのかまで聴ききれなかった。映画館には音響と音楽を聴きに行ってる面がわたしは結構あるのにね……。画面を追うのに忙しかったとは言う。あらためて音楽として聴いてみると「こんな音が鳴っていたのか」と端々に面白さがあるのと、後はひとえに「こんな暴力的なサウンドだったか?」と驚くほど激しい。映画第二部は、ストーリーはそれほど静謐な印象でもなかったと思うが。
次は、早くも第三部の音楽がどうなってくるのか楽しみ。もうどうなっても構わないと思うけどな。型は「組曲」だが、これをまた澤野さんのライブイベントでこの通り演奏するような機会があるのかは、今後知らない。SUITEに続く残りの曲は、映画の各シーンから叙景。意外にエスニックな音を感じたりするけど、もしかしたら第三部に続く「マランビジー」のようなテーマにはそういうサウンドを入れてくるのかもしれない。
「グラディウスⅤ」オリジナル・サウンドトラック(2004) 崎元仁 を聴く。シューティングゲームのサントラ。上の、サウンド的なものの連想から。
アリュゼウス君で抵抗するレーン君を執拗にエイムエイムする気分になるかと思って……情緒とかないんだが。でも、ミノフスキークラフトでスィーと移動するクスィーガンダムは横シュー向きな気もする。
王の挽歌
チェロ協奏曲「王の挽歌」(1993) 三枝成彰、を今の時間続けて聴こう。二楽章で34分くらい。
チェロ独奏:藤原真理 大友直人指揮 東京シティフィルハーモニック管弦楽団
1994年のアルバム「コンチェルトの夜」から、同年3月のコンサートのライブアルバム。
先日来わたしのコンチェルト気分の続き。数日の間に三木稔「源氏音楽物語」も入っていた。「王の挽歌」は遠藤周作の同名小説に想を得て書かれた曲で、この「王」は大友宗麟のことと書いてあるけど、それは置いておいて自主的にガンダム関係と表題からの連想を貰って聴く。
雷鳴!いきなりの爆発音でこの曲は始まる。
閃光のハサウェイの話をしていて「王」とはなにか。このあと95年の富野小説『王の心』になら合いそうなタイトルだけど、今はハサウェイ……。ハサウェイで王と言えば、マフティー・ナビーユ・エリン「正当なる預言者の王」というネームがある。もっとも、それはでっち上げの合成語で、作中世界の誰もそこに正当性とか宗教的な意味を認めているはずがない。信じてはいけない。
ウソの名前を名乗ってしているのがテロで、まるで
俺達は間違っている、正しくないことは承知でやってる
と言わんばかりの胡散臭さを公然と表明している。ハサウェイはそのグループの象徴的リーダーだが、この「王」は神話的なストーリーの中では、自ら死ぬことで世界を再生させるか、次代の王にその地位を引き継ぐだろうということが暗に語られている。それあっての正当なる・預言者の王。ここまでは常識的に了解事として良いと思う。
「王の死」はロマン主義者には絶対的な主題だが、映画ハサウェイがそこまで行き尽くすかは第三部のマランビジーまで観てみるまで、まだまだわからないところ。虚構の王がその死によって本物の神話になってしまうのか、映画閃ハサはそこまで行けるか?
テロリストのロマン
テロ組織のマフティーはテロリストにしてはひどくロマンチックな(甘ったるい)メンタルの集団である。マフティーに拾われた後にギギが抱くだろう感想「マフティーのみんなは優しい(優しすぎる)」というのは、あながち理由のないことでもない。ロマンチストが集まっているが自堕落でもない。
マフティーの組織内の規律と士気は異様に高い。中で不和を起こしたり乱れたりはしない。志操堅固で、メンバーになりうる人を精選しまくっているので、かえって単純に人手不足に悩むこともしばしば。マフティーに傭兵はいない。
精鋭のみを集めて、思想的には理想的な集団だが、行動を起こせば人員の換えが利かないのが分かりきっているので、組織として長続きはするわけがない。そのことは彼ら自身がよくよくわかっている。
極めて知的で自制の利いた人間達が揃っている。人当たりは穏当で礼儀正しい。ハーラみたいな跳ね返りでさえ不規律は嫌う。一方、優しいといってもその場の他人に優しいだけで、殺人者であることは厭わない。作戦の巻き添えに無関係な人々が死ぬことも最低限やむないとするし、自分自身についても、作戦を敢行した後に生き延びることも諦めている節がある。
宇宙世紀のシャア反乱以後のパイロット達の行く末をシミュレーションしたらそうなったのかもしれない。もはやシャアが居ないこの時代に、人として考える頭と行動する能力があってしまったらできることは何なのか、腐った政府の下で軍に奉仕しても腐敗を助長するだけだと分かってしまった後で、鬱積した自分のやるせなさをぶつけられる何の仕事があるのかと考えた末に末路的にマフティー活動に身を投じた……能力と意識は高いが、生きて先にする目的がない。
この世で純粋に清廉潔白な行為を探したら高すぎるハードルの決死的挑戦しかなかった。まず生きて帰ることは考えられない。そこに報酬なんかないんだが、せめて任務に情熱をもって打ち込めるだけのスリルを求めてやっているのかもしれない。そこまでは創作として分かるだろう。
上のことはそれとして、マフティーに憧れるべきかは一考するべき。「親に迷惑をかけるか」、などはどうでもいい。そんなやつはマフティーの先鋭に求められたりしないから平気。
テロリストが事に及んでロマンチシズムを容れるべきか、だ。それは考えていたが、たまたま先日読んでいた野阿梓の『武装音楽祭』(1984)にそっくりそのくだりがあって、知らずに惜しかった気持ちになっていた。読んでいたのこのたびハサウェイ二部の前々日だったからね。
「耽美と革命はどう接点するか」は今頃になって考え甲斐のある、また自分も密かにフォローしてみたいテーマ。ハサウェイ話に戻れば、マフティーは革命を目指してはいない。絶対無謬の独裁なんてできるわけがないとギギにも言っていた。結果については諦めているけど、ともかくやってみて諦めるなり死ぬなりしよう……では、後に残すメッセージはいかにも弱々しいけど、現代にもまだ細く続いていると思いたい。
大衆を馬鹿にすること
戦闘集団のBGMに行軍歌の代わりに挽歌(レクイエム)が鳴り響いているといえば、富野作品中で具体的には『ガイア・ギア』のビジャン・ダーゴル大佐を挙げられる。背景にワーグナーの、それもジークフリートの葬送を流して立つ大佐の格好は悪質な冗談かと思うほど趣味に走っているので、そこまでワーグナーが体に染みていないウルは我が目を疑い、そんな自分の立場にもぞっとしたのだった。
三枝成彰の甘美な音楽は「逆シャア」のシャア讃歌(我らが願い)にしても、劇中のブラックジョークに使われるにも相応しい。今頃でも、SNSや動画サイトのコメみるとそれに嫌悪するのでなく本当に喜んでいるかのような人間が大勢いて無垢のピープルを馬鹿にする悪どさが分かる。
ふたたび雷鳴!で曲は去っていく。
このライブアルバムは後で通し聴き返しておこう。三枝音楽の再リスニングは追ってするとして、遠藤周作の原作はこんど読む。遠藤周作原作では、松村禎三のオペラ「沈黙」も再聴してみようと思っているけどわたしはあの話が苦手で……。ゴアが苦手なのではなく、山田風太郎の『外道忍法帖』のお馬鹿なパロディを同時に思い出してしまい遠藤の真面目さにのめりこめない。今の時間面白かった……かなり書く。
底流するガンダム主題、と書いたのは前回はマランビジーと書いている。ロマン主義を語ることについて続きはリーンの翼へ行こう。
「例の法案はその後どうなったんだ」とは、わたしもすっかり忘れていて、こんど『F91』を読み返したときにその後の経緯のいくらかを思い出したのだった。
が今読んで面白かった。第三部が原作通りになるか等はわたしはそんなに気にしていないし、富野監督がもしも作っていたらどうなるかは想像できてたし、「そうじゃなかったのにな」とファンとしては思っただろうと思う。