富野通読でもこの話題が積んできて、重要でもあるため個別のトピックとして分ける。以後引用する際はこちらを言及する。 前回までのハブ
§2 「なぜ人を殺してはいけないか」~「母系社会」までは、この通読ではトミノ流の蓋然的な言い方の真骨頂ともいえる。富野エッセイだから独擅場で許される。学者がこれをしたら許されない。エリアーデやフレイザーでも両手を振って止めるだろう。
わたしは好感と嫌悪感をこもごもに読み、どういう気持ちかというと、もしも、全面的にトミノが好きだったらあえてトミノを信じる必要ないだろう。「嘘つきだ」と思えばそれまでだ。トミノさんにとっても「そう信じたい」と言っているだけの、これは願望かもしれない。だから読者も、信じるかどうか考えるんだ。それは、トミノは真摯だからじゃない。
もともと富野由悠季独自のテーマというわけではなく、ファンタジー文学と一部SFの、伝統的に重要な一ジャンルである。わたしの関心だと日本の古典文学、和歌の歌論の中にもいえる。それは追って含めて行こう。
最近の読書では主に海外ファンタジーから。わたしはロード・ダンセイニの作品(とくに後期作品)の中にこの追究があることから前々から関心があった。有名作家ではすぐに思い当たるのはル・グイン。その影響下を想像するだけでも厖大な裾野がある。
この数年通読を続けているタニス・リーもしばしば引っかかる話題なので気づいてはいる。それはリー通読のトピックで。リーの場合、言葉はfaithとかで、文芸上のマジックと同時に実践魔術を志向する。
先日ちょうど、リーのトリビュート作品集の中にそれに近いものがあって思い出していた。このときは文中、probabilityでなくpossibility
人に「信じろ」と言って信じさせることなら、それは相手を洗脳・支配することになる。信じてほしくても「信じて」と言ってはいけない。ではどうして伝えるか……は、テレパシーの考察だったり、フェミニズムに接していったりもする。
ファンタジー作品には「モラルをどうやって語るか」は今も昔も重要問題だ。一方で80-90年代頃の和製ファンタジーの流行頃には、手本になる海外古典のこうした心理面はあまり顧みられず、翻訳にも脱色された文章になっていることは段々わかってきた。日本人作家や読者も文芸作品にモラル面は求めずに形を学ばれたようだった。出版業の商業的な理由はあっただろう。
それは音楽の用語でいえばパンク化の傾向で、日本にかぎらず当時的には世界でもおなじのよう。
富野作品に戻ってその表現については、ベルトーチカ・チルドレンから「ナイチンゲールのさえずり」を挙げて興味を深めていた。オスカー・ワイルドの連想がわたしにある。このたびの通読のあらすじはそれくらい。
小説の最後の一文で読者を「エッ?」と思わせてそのまま脱走する、完結してしまえば、後は残された読者がそれぞれに思い悩めばいい。小説ではそれで勝ちなんだ。
「蓋然的にいえば、嘘はいわないでもすむものね?」
閃光のハサウェイから。
ファンタジーやSFというのはごく近代の文芸だが、遡れば古代から人は、「どうすれば他人の心を侵さずに大切なことを伝えられるか」に悩んできた。プラトンの対話篇では生徒が自発的に真理に達する自己発見の過程を誇り、後の諸学、中世の宗教も大体はそこに帰ろうとしてきた、とする。
富野通読で架空世界の宗教を考えようとするのは、読者的には、コスモ・クルスやVガンダムのマリア教の教えにはあまり身に迫ったものはない。「地に足をつけて生きよう」みたいな上っ面なメッセージに、他人に与える説得力なんかあったことはなかった。地球を守れと他人に教えるよりは、地球を潰したほうがましだ。
『アベニールをさがして』では、より読者自身の意識に即した実存問題に接近するかもしれない……でもアベニールはわかりにくい小説で、その作中からは、少なくとも宗教的な何かは汲み取れないだろう。
『∀ガンダム』と黒歴史の語りは文量が多く、まだまだ解明されてなさそうなことがわかっている。さらに15年後『Gレコ』まで下るとすでにそこまでのコンテクストがたくさん揃っていて端々の連想が捗る。
これが宇宙の宗教の実践教範だとすると、この実践者はまるで傷つきやすい心の小鳩のような人であり、すごくシャイで控えめな少女のように振る舞うことであり、ふてぶてしく喋るハゲのように言ってはならない。 ――これらのことを「良し」とする。
信じられないことだが、モビルスーツに乗るのにノーマルスーツ(宇宙服)を着ない人々がいる。その人に「着てください」と頼んでも、はたして素直に聞くだろうか。「命にかかわるから」と言っても?
訓練されたスペースノイドにとって、宇宙空間にノーマルスーツも着ずに普段着で飛び出すことは、裸でいるより恥ずかしい。それを踏まえたうえで、宇宙空間に裸で飛んでいるものは言語を絶する不思議、素晴らしさだ。
アグテックのタブー(科学技術を今ある以上に発展させてはならない)は、Gレコの当時の地球人の一部(アメリア人)には笑うべきナンセンスに思えている。
『自由に任せればいいじゃない、自由に任せるべき、自由に任せなければならないじゃない?』 これに説くためにはどんな語り方をしたらいいだろうか。歴史上、旧時代の人類はそのせいで全滅寸前まで行きましたよと説くことでは伝わらなかった。
きっとハイフン・スタッカートみたいな、『僕の恥ずかしい旅日記』を記すことがスコード教の上級信徒には試練として課せられる。それに耐えられない一般信者は黒歴史の情報にも耐えられない。
Gレコのストーリー全体はベルリの巡礼、教養小説、という印象は強いのだけど、教養的なのはわかるけど何を教養としているのか今ひとつ不思議……、というのが多分大方の感想だと思うんだ。
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富野通読でもこの話題が積んできて、重要でもあるため個別のトピックとして分ける。以後引用する際はこちらを言及する。
前回までのハブ
富野アニメの蓋然論
§2 「なぜ人を殺してはいけないか」~「母系社会」までは、この通読ではトミノ流の蓋然的な言い方の真骨頂ともいえる。富野エッセイだから独擅場で許される。学者がこれをしたら許されない。エリアーデやフレイザーでも両手を振って止めるだろう。
わたしは好感と嫌悪感をこもごもに読み、どういう気持ちかというと、もしも、全面的にトミノが好きだったらあえてトミノを信じる必要ないだろう。「嘘つきだ」と思えばそれまでだ。トミノさんにとっても「そう信じたい」と言っているだけの、これは願望かもしれない。だから読者も、信じるかどうか考えるんだ。それは、トミノは真摯だからじゃない。
ファンタジーの語り
もともと富野由悠季独自のテーマというわけではなく、ファンタジー文学と一部SFの、伝統的に重要な一ジャンルである。わたしの関心だと日本の古典文学、和歌の歌論の中にもいえる。それは追って含めて行こう。
最近の読書では主に海外ファンタジーから。わたしはロード・ダンセイニの作品(とくに後期作品)の中にこの追究があることから前々から関心があった。有名作家ではすぐに思い当たるのはル・グイン。その影響下を想像するだけでも厖大な裾野がある。
この数年通読を続けているタニス・リーもしばしば引っかかる話題なので気づいてはいる。それはリー通読のトピックで。リーの場合、言葉はfaithとかで、文芸上のマジックと同時に実践魔術を志向する。
先日ちょうど、リーのトリビュート作品集の中にそれに近いものがあって思い出していた。このときは文中、probabilityでなくpossibility
人に「信じろ」と言って信じさせることなら、それは相手を洗脳・支配することになる。信じてほしくても「信じて」と言ってはいけない。ではどうして伝えるか……は、テレパシーの考察だったり、フェミニズムに接していったりもする。
ファンタジー作品には「モラルをどうやって語るか」は今も昔も重要問題だ。一方で80-90年代頃の和製ファンタジーの流行頃には、手本になる海外古典のこうした心理面はあまり顧みられず、翻訳にも脱色された文章になっていることは段々わかってきた。日本人作家や読者も文芸作品にモラル面は求めずに形を学ばれたようだった。出版業の商業的な理由はあっただろう。
それは音楽の用語でいえばパンク化の傾向で、日本にかぎらず当時的には世界でもおなじのよう。
富野作品に戻ってその表現については、ベルトーチカ・チルドレンから「ナイチンゲールのさえずり」を挙げて興味を深めていた。オスカー・ワイルドの連想がわたしにある。このたびの通読のあらすじはそれくらい。
小説の最後の一文で読者を「エッ?」と思わせてそのまま脱走する、完結してしまえば、後は残された読者がそれぞれに思い悩めばいい。小説ではそれで勝ちなんだ。
閃光のハサウェイから。
哲学・宗教の語り
ファンタジーやSFというのはごく近代の文芸だが、遡れば古代から人は、「どうすれば他人の心を侵さずに大切なことを伝えられるか」に悩んできた。プラトンの対話篇では生徒が自発的に真理に達する自己発見の過程を誇り、後の諸学、中世の宗教も大体はそこに帰ろうとしてきた、とする。
富野通読で架空世界の宗教を考えようとするのは、読者的には、コスモ・クルスやVガンダムのマリア教の教えにはあまり身に迫ったものはない。「地に足をつけて生きよう」みたいな上っ面なメッセージに、他人に与える説得力なんかあったことはなかった。地球を守れと他人に教えるよりは、地球を潰したほうがましだ。
『アベニールをさがして』では、より読者自身の意識に即した実存問題に接近するかもしれない……でもアベニールはわかりにくい小説で、その作中からは、少なくとも宗教的な何かは汲み取れないだろう。
『∀ガンダム』と黒歴史の語りは文量が多く、まだまだ解明されてなさそうなことがわかっている。さらに15年後『Gレコ』まで下るとすでにそこまでのコンテクストがたくさん揃っていて端々の連想が捗る。
宇宙の端(太陽系辺境)に生きる――スコード教
スコード教に連想するわたしの雑想メモ。キーワードは、『笑いを禁忌とする』。
とりとめなく目次を集めてみると、
これが宇宙の宗教の実践教範だとすると、この実践者はまるで傷つきやすい心の小鳩のような人であり、すごくシャイで控えめな少女のように振る舞うことであり、ふてぶてしく喋るハゲのように言ってはならない。
――これらのことを「良し」とする。
信じられないことだが、モビルスーツに乗るのにノーマルスーツ(宇宙服)を着ない人々がいる。その人に「着てください」と頼んでも、はたして素直に聞くだろうか。「命にかかわるから」と言っても?
訓練されたスペースノイドにとって、宇宙空間にノーマルスーツも着ずに普段着で飛び出すことは、裸でいるより恥ずかしい。それを踏まえたうえで、宇宙空間に裸で飛んでいるものは言語を絶する不思議、素晴らしさだ。
アグテックのタブー(科学技術を今ある以上に発展させてはならない)は、Gレコの当時の地球人の一部(アメリア人)には笑うべきナンセンスに思えている。
『自由に任せればいいじゃない、自由に任せるべき、自由に任せなければならないじゃない?』
これに説くためにはどんな語り方をしたらいいだろうか。歴史上、旧時代の人類はそのせいで全滅寸前まで行きましたよと説くことでは伝わらなかった。
きっとハイフン・スタッカートみたいな、『僕の恥ずかしい旅日記』を記すことがスコード教の上級信徒には試練として課せられる。それに耐えられない一般信者は黒歴史の情報にも耐えられない。
Gレコのストーリー全体はベルリの巡礼、教養小説、という印象は強いのだけど、教養的なのはわかるけど何を教養としているのか今ひとつ不思議……、というのが多分大方の感想だと思うんだ。