ニュータイプのための言葉
ニュータイプの交感現象の認知度
富野由悠季作品というかガンダムでは、ニュータイプは非常にめずらしき人、ということになっているので、その精神交感については、作中、当事者以外にほとんど知られていない。その超常的な事柄に接して人々がとる態度も、多少の時代を経ても進展しない。
SFやFTのジャンル一般には「テレパス能力の乱用が法律で禁じられている」ような設定はよくある。これはさっきル・グインの作品での古典的な心話事情から取っ掛かりを始めた。テレパスやプレコグの存在が認知されて久しい場合の。
宇宙世紀の状況では「ニュータイプは伝説」「サイコミュは秘密兵器」が通例で、その実在・実態が表沙汰にされにくい。ニュータイプのテレパス的振る舞いが社会問題になるほど一般に認知されたことはない。稀に、ぶしつけな精神被害に直撃して「土足で…!」と激怒する人がいても、その訴えが広く共有されて今後に改善はなされない。
一年戦争から数十年間を取り上げるのが多くの作品だが、Gレコほど下っても無理解事情は変わっていない。
ニュータイプのための言葉
「ニュータイプの言葉遣い」については、ここでは重要なテーマとして扱っているところ。言葉は道具だ、との。これも、富野作品やガンダムに訊ねなければ、――テレパスでも精神感応をすると疲れるので普段やらない、心話で直接対話すると無雑音で理想的に通じるかといえば、心と心の交感というのはむしろ雑音や雑念の渦だ、何も読めないし通じない、言葉で喋ったほうがまし――と判明した後の、開化されてしまった態度のテレパスも登場する。
戦闘で人の死を共感するニュータイプのダメージについては、前にも触れた。また一方、ニュータイプが対話の通信機になれればいいのに、そんなときにかぎって役に立たないので
『人がそんなに便利になれるわけない…』
『人殺ししかできない』
と自分に言い聞かせて落ち込む別種のトラウマ事情も、やはり改善しない。できてもやらないよ、と開き直ってしまえるほど、ニュータイプが言語経験を積まない。
ニュータイプならできるでしょ、と言われて『でも感じないんだ!』と惑わせるより、ニュータイプの真の才能に目を開くには別の言葉を求めることもある。
諸々の偏見
ニュータイプ向けの諸々のケアの不足が事実でも、そこに「ニュータイプは個人的には不幸なんだよな」のような見る目がまかり通るのは現代日本の水準から見ても野蛮なのだが、そうなってる。宇宙で戦争が続いているから劣悪環境なのだとも思える。
ニュータイプは選ばれた人という羨望・嫉視からくる反感とはべつに、「ニュータイプは弱者」と見る向きも現在は強いことは言われないとならない。
ニュータイプへの願望期待の重さと裏に、人の先駆けであろうニュータイプがたびたび人の理解を求めるというのも、冷笑まじりの厳しい目線を生む。ことに強化人間に対しては遠慮ない憐憫が浴びせられている。
ニュータイプは富野作品やガンダムの主題では必ずしもない。機動戦士や聖戦士の「戦士たること」を省いて、温和な人類の未来像だけを語るのはむしろ亜流といっていい。ここでは、ニュータイプのための戦士観を求めるのがよい。
現在、ガーゼィ4巻なかば。一刀で首を断つのはクラバの礼儀だ、などと悟ることかな。それは冗談として。
魔法少女でも戦死者が出ることに湧いたのはもう昔だけど、クラバで人は死ぬことに今も胸に刺さるものはある。胸に刺さるものはあるが、視聴者は耐えられる。それは時代環境なのかは今わたしはあまり知らないので、はかり知れん。視聴者が視聴に耐えるならそこにさらに表現できることがあるという物の言い方は、こないだの氷川本で読んでいた。