かとかの記憶

富野由悠季 周回 / 200

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傲慢だったから

『アジャリたちが、祈りによって思念を集中させれば、飛行機械を飛ばすことができるのである。空を飛ぶためには、鳥のような形になっていなければならぬのに、人は思念によって物体を空に飛ばす。それは人の特性のようにみえるが、この自然界があたえてくれた特別なものなのだ……そうでなければ、人が、物体を飛ばせられるわけがない』

という推論については、この世界・この時代のこととしてよい。ただこのあと、

 グラン王が、このように世界を俯瞰するように考えることができたのは、まさに、カロッダを統一できる軍事力と政治力を駆使した王であったからだ。
 傲慢だったのである。
 傲慢が不穏当な表現なら、自信にあふれていたのである。
 その自信が、世界を大観して考察することを可能にしたのだ。
 だから、カロッダが統一できたときは、自らと臣民の力が合一されたときであり、それは、アウラ・エナジィが高揚しているときであって、バイブルが語るフローランドの時と考えて良い、と自惚れたのである。

これはつい昨日あたり、ズムドゥ・フングン王の人物について、その恐獣軍団や古伝承についての理解の仕方に、似ている。とくに挙げておくべきは、富野作品の読者について言うと、「傲慢なこと」イコール、駄目な性格の第一要素のように挙げるやつが多くそれは前々から不審なことだと思っていた。

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  • 201
    katka_yg 2025/05/17 (土) 19:45:04 修正 >> 200

    前回、ガーゼィの最中に「ヤマトタケル」を扱ったが、あの中の「うぬぼれ」についても、このグラン王の傲慢と全く同じ意味なので、参照したいところ。というのは、「ヤマトタケル」のテキストを書いているなかにし礼の次作「ワカヒメ」で、その「うぬぼれ」という王の属性が形を変えて今度は倭の武王に展開される。同時代的には面白いんだ。

    「ああ、これほどの英雄の心をもうぬぼれの病が犯すのか」
     
    「私はうぬぼれていた――私は身にしみて知った、人間一人で何が出来よう。
    神は私に天罰をあたえられ、そのことを教えてくれたのだ」
    (『ヤマトタケル』より)
     
    「天は私に思いあがるなといいたいのだろうが
    私は思いあがりだけで一生を生き抜いてきたのだ」
    (『ワカヒメ』より)

    203
    katka_yg 2025/05/17 (土) 20:05:21 修正 >> 201

    ズムドゥ・フングンのキャラクターの起源をたどれば直接にはガダバのゴゾ・ドウ、ズオウ大帝などはすぐに挙がるだろう。ゴゾ・ドウの人物として描かれるうち、老覇王ではある一方で読書家でもあり、各地方の古伝や民俗学的文献を好んで読んでいたりもすること。

     伝説が現実のものと噂され、その噂をもつ勢力が戦果のひとつを上げれば、伝説は、実在する勢力になる。
     恐獣をつかったというだけで、弱小のアシガバ族を大陸の覇者に育てることのできたフングン王は、戦争に心理的な要因が大きく働くことを熟知していた。
     しかし、麾下の若い武将ザギニス・ゾアは、ガーゼィの翼の聖戦士に何度敗れようとも、ガーゼィの翼を物理的な戦力としかみなさなかった。

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    katka_yg (@ygasea.bsky.social)
    『王の心』は、わたしは王女アカイアーがいちばん好きなので、一番お気に入りの子が最初に出てくるみたいな楽しみだったのだが、このたび富野由悠季作品通読してくると、それとちがって、ズオウ大帝、ゲトラ・ゲイ、ズムドゥ・フングン……といった富野作品の老覇王の系列に思い入れが残っており、これらの老人を集めて会合させてみたいか、いっそ主人公にしてみたい気分が持ち上がるところ、そういえば『王の心』の主人公はシェラン・ドゥ・グラン王であったと思い出す。語り部や狂言回しではなく、爺がやはり主役だ
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