退却のシャア
しばらく前にシャアのダカール演説、小説版のテキストに触れてゼータ時点のシャアの理想・理念を追った。
ゼータ以後行方不明になって、再登場したときには人類の敵になっているシャアのキャラクター理解は、昔も今も「わからん」と思われて当然で、今後もそうだろうと思う。
『戦争によって人類の殺し合い状況を演出して人口を調整し、文明を賦活する』という宇宙戦争観は、ガンダム界隈のファンには当り前のように馴染みすぎていて、まず、それが非常識な暴論だということもあんまり思い出されない。
ダカール演説のあと、地球連邦軍の各方面の軍人はエゥーゴ支持に傾きだし、カラバの通行をそれとなく後押ししてくれたり、直接間接に支援が増えた。連邦軍のなかでもティターンズ専横に反感をもっていたとか、その主流から外されて不満だったという派閥意識もいうが、そもそも上のようなジャミトフ思想が、正常な軍人には認められないものだからだろう。
「定期的に人間を殺すために軍隊がある」等、陰謀論ならいつの時代もいいそうなことだが、事実そうと知れれば支持できない。正規の軍人がそのために命を賭けて戦うとは思えない。傭兵でも山賊でもない。そのような一部の戦闘狂がティターンズに集まってヤクザ化しているのは事実で、ジャミトフの私兵という。
シャアの演説はシャア自身がパフォーマンス的だ、道化だといって悩んでいたが、その主張自体はある程度、まじめに理念として通じたらしい。それでジャミトフを討って先は未来に託せればよかったが、すぐに入れ替わり覇権闘争が持ち上がり、ジャミトフを潰してその後のパイを誰が取るかがおおむね関心の、ハマーン、シロッコに巻き込まれる。抗争のあとの歴史には、
『ダカールでのシャアの演説はエゥーゴの覇権に傾けるためのパフォーマンスとして効いた』
という結果に上塗りされていて、あれはやはり支持集めの戦略だ云々の解釈が一般的になり、演説中の理念の方は立ち消えた。
シャアからカミーユへ
シロッコ目線では「覇権主義の俗物」というのはバスクのことで、バスクは「目の前の戦争で敵を潰して自分がのし上がること」が最大関心、この時代での男の野心だのように信じきっていて人類や宇宙のことは考えていない。本当に俗物でニュータイプとは話が通じない。シロッコ自身も結局それから自由ではなかったが、今はシャアのはなし…
グリプス戦後、行方不明になる前のシャアの心境は、昔のゲームの端切れのムービーなんかを挙げてカミーユの崩壊がどうこうと書かれることもあったが、出典として何ほどの根拠でもないし、わたしは興味がない。
シャアからその後のカミーユについては、今ここは富野小説を読んでいるから、小説から
「脆弱なのは美徳ではない」と一蹴している。戦い続けて繊細な心が押し潰され、しまいに壊れてしまう少年の姿は、脆いなあ、儚いけど美しいなあという大衆好みの同情共感を切り捨ててむしろ冷淡にみる。もっとも、この場面はアムロとの口論中で売り言葉に買い言葉という節が多分にあるが、ネオ・ジオンを組織するまでに来ている頃のシャアに言わせればこんな発言になっていても、おかしくない。
わたしはハイ・ストリーマーの文章がそんなに重要だとは思っていないので、こんなのはファンサービスだと思って読む。
マランビジー
今ハサウェイをまだ読んでいるところだった。
上のような「神話」をハサウェイの文脈だとマランビジーという。ただ、小説の原文と裏腹に、ハサウェイとかマフティーという名前は、宇宙世紀の後の時代に象徴のように残っていないと思う。未来の歴史資料には載っているだろうが…。
この頃の時代を、当時に活躍したモビルスーツの名から「ガンダムの時代」と呼ぶ、とも先日の舐め本中には提唱されていた。その通称が読者・視聴者に共有されてもいないけど、ハサウェイが風化してもガンダムの名前だけは悠然と残っていることは誰も疑わないだろう。
宇宙のマランビジーに語り継がれるのはマフティー・ナビーユ・エリンでは多分ないが、神話伝承のその格はガンダムが担う。『シャアの去ってからしばらく経った頃、地球に一人の若者がおった。若者は、ガンダムに出会った…』として語りだす。