貴族と海賊
クロスボーンの話にもどって、スレッドが切れているのでリンクのみ。
「クロスボーン・バンガードは貴族を名乗っているのに一方で市民を名乗るのは変だろ」という意味しかない。もっとも、貴族や市民という言葉の意味自体、古代ギリシアやローマ時代のような一々を挙げれば曖昧だが、近代の「市民戦争」という場合にはコスモ・バビロニアのようなイメージはそぐわない。
バビロニア勃興は自ら宣言している一方で、その当時の宇宙全般からみればあくまでマイッツァー・ロナ個人の地球連邦への反乱ということになっている。この場合のマイッツァーはやはり連邦の一市民という数え方になる。
わたしはまた、アメリカ独立史の初期と、海賊史に登場するリバタリアン(ミッソン船長のこと)を関連してイメージしているから、海賊というのはそれもまたファッションとしてほしい。こういうことも書いておかないと「宇宙海賊」のイメージも人によっては違うだろう。
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貴族精神について、「血統上の貴族」と「精神の貴族」とはまた違う。生まれは何者でもないが高貴な心映えを備えていればそれは貴族、という唱え方の話は、もうだいぶ話題が逸れてきたが、富野話題でも「ノーブル・マインド」はたびたび、出てくるだろう。
それと、「貴族」と「騎士」とはまたちがい、往古の「騎士道」と「騎士道精神」も、言葉の指す意味を言い出せばまた厳密にはちがう。それは、わたしは昨年も一人で鬱々と読み返していて、古典文学に興味のある読者ならレオン・ゴーティエ『騎士道』(1884, 武田秀太郎訳,2020)が最近訳されていて、ためになる。わたしの場合、宗教と戦争についてや、ディネーセン(カレン・ブリクセン)の小説を再読していた続きでその一帯は参考にもなった。こんなことまめに書いておくものだ。