富野本の舐めレコの中にエーコ『薔薇の名前』(1980)が引いてあって、まず「全く理解できない」「Gレコとは一切関係ない」と先に断って話をするいかがわしい富野調で始まる。無関係の本の中でお勧めはするが、矛盾はしていないつもり、という。
今それとも直接ではないが、わたしはたまたま昨年、堀田善衛『路上の人』(1985)を再読していて上のストーリーとどうしても連想はした。両方の中にある、アリストテレスの逸失した喜劇論(詩論)や、「笑いは禁忌である」という中世の考え方を引いておいて、富野文では「とんでもない考え方」という言い方をする。
「笑いを禁じる」というと、現代日本一般の読者は即座に反応して、大ブーイングをするのは間違いない。とんでもないことだ!という、そんな当たり前の同意・共感なんかは今ここでしないが、そんな「とんでもなさ」については、この同じGレコ本の後章「ユーモア感覚の醸成」の中に、
ユーモアを〝笑い〟と捉えた瞬間に、失格である。
ユーモアはユーモアである。ここでとんでもないことを言っています。どういうことなの? とは、本文を読んでもやはり分からないと思うが、これはわたしに読んでみる価値がある。らしい。
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