宇宙の海のメロウ
夜の海辺に来た若者が波の寄せる岩場を伝っていくと、突端の大岩に腰かけて海を見ている人影に気づいた。星明かりのシルエットに見えるそれは若い娘のように思えた。若者が相手を驚かさないよう、やや離れて手元のランプを灯すと、光に浮かび上がるように彼女が振り返った。
驚かされたのは彼のほうだったかもしれない。若者は、それほど美しい
愚かなほどどぎまぎし、夜の挨拶と、かろうじて自分の名を告げる若者に、娘のほうはメロウと答えて、アイルランドの者です、と付け足した。聞き慣れぬ土地について首をひねる彼に、彼女の口から、アイルランドは地球にある丘のことだと聞かされれば、びっくりしてあらためて見つめ返さざるをえない。
太陽放射線の影響による変異には精神に異常を伴って生まれるものも少なくない。地球のアイルランドにあるクスタンガの丘から掟に背いて抜け出したという彼女の、今こうして海辺に座っているのは――この金星の海にいるのは、宇宙にある海の夢というものを見てみたかったのだと、つたない言葉で聞き取っていくには時間がかかった。どうして、と呟く彼に彼女は初めて笑顔を見せた。好奇心に逆らえない、自堕落なメロウだったから。
メロウは岩場を降りて水辺に立つと、あっけなく身を投げて波間に入った。ぱちゃぱちゃと泳ぎ回ってみせては、伸ばした腕、両脇から、しなやかな全身をつま先まで露わにした。そのあと、深く水に潜って上がってこなくなった。しばらくして浮かんできた彼女は、見守る彼の側まで泳ぎ着き、肩まで覗くと、てのひらを開いて、ほら水かき、と見せた。若者は唸ってしまい、あとは感心するばかりになった。
それからしばらくの間、若者は毎晩海辺にきてメロウと会うようになった。キスも二、三回した。メロウの唇は潮っ気がして苦く、彼女の水かきのある指を彼の指に絡めて、岩場に押し付けるように体を重ねた。シャツ越しに合わされる体の感覚も、肌のひややかさも彼を魅了した。唇が離れると、陶酔してため息をつく彼にメロウは息を吹きかけ、すぐに離れていった。
ある晩のこと、若者はメロウのためにプレゼントを携えてきた。メロウには見慣れないその物体は、彼によると、女の子が何が欲しそうかなんてわからないし……水かきに指輪や、重ったるいアクセサリはきみに似合いそうにないからという。
ということで、若者は環境探査用アシスタントロボットの説明をした。それは球型のコンパニオンで、持ち主に忠実に付いていき、大抵なんの役にも立つ。こいつは海中仕様だから、きみの邪魔にならないと思うよ。金星の海を案内してくれる。体重計にもなるような説明はしなかった。
どうしてくれるの? とメロウが訊ねた。若者は答えて言った。金星圏のスペース・コロニーも建造されてすでに千年を数える。この人工の海にもそろそろ妖精の一人や二人、住んでもいい頃さ。
メロウは嬉しそうに眺めて、ハロウ、ハロビィ、と爪先でそれをつついた。ハロビィはピピッと答えてセンサーを点滅させた。やがてメロウはハロビィを両手に抱き上げると、地球に帰る、と言った。
――どうして。
――これを貰ったから。
ハロビィを抱いたメロウは、もう水際に向かって歩き出していた。若者は咄嗟に言うことが思いつけなくて、
――地球はそっちじゃないよ。
――いいのよ。
一度振り向いたメロウは印象的な笑顔を残し、それっきり海に沈んでしまった。
若者はそれから、ビーナス・ライブラリでアイルランドのことをたくさん知った。夜の海辺を訪れ、遠い地球のことをくり返し想像したが、地球へ行く道のことは、ついに見つからなかった。
(リギルド・センチュリー)
「リーンの翼」対読から。6/4章。
この話の原型が保管してあった。10年以上前にツイッターで書いたもの。
これは妖精の妻が、ぶったり罵ったり別れの理由になることは何もしてはいないのに、話の外で「やはり帰っていく」という不条理のもの。「やはり」というからには、それが物語の型だからと言わんばかりの。男の方も死んだ理由はない。文体を選べば、それも笑い草に落ちないで書けるというその頃の関心だった。今するなら、上のほうが好き。
富野本の舐めレコの中にエーコ『薔薇の名前』(1980)が引いてあって、まず「全く理解できない」「Gレコとは一切関係ない」と先に断って話をするいかがわしい富野調で始まる。無関係の本の中でお勧めはするが、矛盾はしていないつもり、という。
今それとも直接ではないが、わたしはたまたま昨年、堀田善衛『路上の人』(1985)を再読していて上のストーリーとどうしても連想はした。両方の中にある、アリストテレスの逸失した喜劇論(詩論)や、「笑いは禁忌である」という中世の考え方を引いておいて、富野文では「とんでもない考え方」という言い方をする。
「笑いを禁じる」というと、現代日本一般の読者は即座に反応して、大ブーイングをするのは間違いない。とんでもないことだ!という、そんな当たり前の同意・共感なんかは今ここでしないが、そんな「とんでもなさ」については、この同じGレコ本の後章「ユーモア感覚の醸成」の中に、
ユーモアはユーモアである。ここでとんでもないことを言っています。どういうことなの? とは、本文を読んでもやはり分からないと思うが、これはわたしに読んでみる価値がある。らしい。