かとかの記憶

王の心 / 19

53 コメント
views
19
katka_yg 2025/06/14 (土) 17:59:42 修正

フロー教とその教義

『王の心』の世界に名の知られた宗教は、フロー教が広く行われている。宗教といえばフロー教のようだが、レリエルの出身民族のように「異教徒」と呼ばれる人々もいて、全世界的な実態は明らかでない。

フロー教の世界観

フロー教の説く世界の姿は創世記(バイブル)に記されている。創世記によると古代に各地のグリーン・テリトリィがフローランドし、宇宙(大天空)に新たな惑星(グラウンド)を求めて飛翔していった。

バイブルには、困難な時代を生きる人々が純粋な理想を掲げて事を成したという、当時の理念が書き残されている。その時代の人びとは、自然の理のなかに、総意をもって意思を統合することによって、新しい惑星に至ることを旨とした……と。

創世記時代以後のこの惑星には、フローランド後の痕跡の陥没地帯が点々と残され、僅かなグリーン・テリトリィ以外、地上の大半は砂漠化した。以後の歴史時代には、この地上に残された生存圏を争って生き延びるために生存のための知識・学術が求められた一方、旧時代の記憶は曖昧な神話となり、フローランドする世界の真相やアウラ・エナジィの在り方についての知識は失われた。

フロー教の役割

フロー教のアジャリ(修道者)の風貌は前回にも少し列べた。

  • フロー教徒の使命はまず第一に創世記(バイブル)の伝承。伝承学者、文献学の徒であること。
  • 自然哲学。バイブルの記述には上の理念的な理想だけでなく、フローランド後のアイランドにはどんな気象現象が起こり、その後の社会ではどんな変化や困難があるかの実際的な知識も伝えている。惑星を飛び立ったアイランドからは連絡が途絶えるので、伝えているのはフローランド初期の変動の記録か、予測を含んでいるのだろう。アジャリは、これらの知識を理解する基礎学力を修めていて、現代には自然一般の知識や社会について、王侯の相談役を務めていたりもする。
  • 浮上力の修行。フロー教のアジャリが行う唯一の秘術は浮上力(フロート・エナジィ)。物体を浮かべる以外のことはしない。アジャリ・ビィーの物語のようにそこから派生するさらに隠秘な術、浮上学の別伝にある邪術を行うアジャリもいるが異端者。
  • フロー教はこの時代の一般大衆の思考に影響力は乏しく、大衆の倫理や道徳の根拠になっているようではない。フロー教徒のアジャリという身分意識ははっきりある。アジャリは、バラモンかドルイドのような知識僧の階級で、世俗一般の民の救済にはあまり興味がないようだ。非信徒の一般人も余所の地方の異邦人については「異教徒」と認識するが、自身が敬虔な信仰を持っている人は少ない。稀には、アジャリに倣って敬虔な生活態度を実践している奇特な人もいる(タルマム)。
  • アジャリには一定の戒律があるらしい。アジャリになるため、またアジャリの地位に男女の差別はみられないようだ。アジャリの結婚について、アジャリと非アジャリの結婚も何ら問題視されていない。酒を嗜むアジャリが「生臭アジャリ」と笑って自称するくらい、本来は酒食についての禁戒がある。社会的地位のあるアジャリが個人的に従者や馭者を従えていることは普通。地位が低く貧しいアジャリもいる。
  • フロー教徒の文化について、服装や髪型(剃髪など)は文章からわからない。フロー教の寺院なども出てこない。「フロー教美術」などというものは全然現れないが、ないはずはないと思う。(→*フロー教の教会
通報 ...
  • 20
    katka_yg 2025/06/14 (土) 18:27:36 修正 >> 19

    フロー教が宗教として、飛ぶことがこの星の人間にとって何の意味があるかというのは、この世界の人々にとってさえ必ずしも共通して受け入れられていることではない。まして読者には「何故?」と最初から思うこと。宇宙に行くのがそんなに大事か。この大地で今を生きることがまず大事だろう、と。

    フローランドの思想は、人間が生きることに飛ぶことがどれほどの意味があるかではなくて、「大天空へ翔ぶものが人間」という人間観の語り変え、その実存(そんな私)を語ることにある。それが大衆の救済教のようにはなりたくないようだ。フローランドは巨大なお祭りではある。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているとは前回に言った。

    大衆の救済に興味が乏しいというのは、荒れたグラウンドで日々死んでいく一般大衆は一生のうちに天空を見ることは、まずないのだが、人が死ぬときに傍らにアジャリが寄って、「魂はグラウンドを離れ宇宙へ翔ぶであろう…」のような、救いは、とくに与えない。今現実に死んでいく人に対して、何もなくても何かを与えようという、その興味がない。大衆化するのは不純ではあるだろう。
    一方で、フローランドの時代は既に遠い過去のこととして終わってしまい、取り残されたこのグラウンドでフローランドは今後もう起こらないだろうという現実にあってフロー教を説き続けることはフロー教徒にとっても無理があり、グッダーザンやドウガロのアジャリは信仰態度が半ば崩壊している。