王の心 (富野由悠季, 1995-96)について。
富野総合からトピ分け。『王の心』ここまでは、
「機長! あの巨人機に着陸だっ!」 マラークは、後方につづく巨人機が、自機を狙撃しようとするのには気にもかけなかった。 「しかしっ……」
白兵戦を敢行する! 二巻に入って始まるこれが好き。これと、俊英マラークについてはこれまでも微かに触れていたが天才と阿呆の子は紙一重でするのが富野作品一連で「俊英」と呼ぶのだろう。 前回、『シーマ・シーマ』では意外にナウシカばりの空中移乗攻撃はしていない。スィープ・スティードで強行着艦はしたっけ。
ここまでも、マラークは離陸中の飛行機械に馬で乗りつけて飛び乗ってきたのだが、
全力疾走をした馬は足をもつれさせて草原に横転して、尾翼に頭をぶつけないですんだ。
飛行機械の形状はなかなかビジュアルが掴めないものの、こういう一文で書き飛ばしてしまうのがいいね。富野監督はこの頃不調だと言っているが、文章はそうか?
当時、富野作品の時期的に近かった「馬鹿馬鹿しいほどの白兵戦」は小説Vガンダムのカイラスギリー艦隊戦中、スクイードに挑む陸戦。
そのまえの、旧式艦を楯にしつつ特攻・自爆させる戦法は、正攻法に美学を求めるタシロには『外道だ。プロとして恥ずべきことだ』これがゲリラのやり方か!と思うのだけど、火船戦法自体はすごく古典的な戦法で、軍人になるために教科で学んでいないはずがない。
「東方からここまでこのグラウンドを観察して、つくづく厭になった。果てしない砂漠につづく砂漠……砂漠でなければ、火の山だ。その噴煙さえも、天空に舞い上がって、雲になることもなく地をはうのだ……バイブルで語られたような海というようなものもない。このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには、機械の力を借りてグリーン・テリトリィを存続させるしかないのだ。王子よ……機械は偉大だ。われらドウガロの機械力をもってすれば、グリーン・テリトリィを拡大させることもできるかもしれんのだ」
ドウガロのシンシア。ここの、『このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには』の節に少し気になる。1995年。もっと後、Gレコより後の最近の富野インタビュー等にもこれに近い発言は度々あったりするが、そういうときどういう意味か。ネットでファン語りにするときには『21世紀以後の富野は宇宙進出を否定している』という富野論のために引用されることがよくある。
そういう文脈は適当に裁断して、人は大地に立つのがよい、健やか大事、御大の落ち着いた結論よね、という"富野フォロワーの発言"はしきりに目につく。でも、仮に富野発言を権威の根拠に何かを言いたいとしても、わたしはテキスト批判は自分単独で続けていることゆえ、それは信用しない。
それより以前に、公刊されているテキストにも読者が見てわかる誤脱字が目立つので、まずテキストを補訂しよう、それが第一だというのが、ファンとしてはわたしの現在の感想。人類が富野ファンでなければならないかは疑問だけど、それであって悪いはずはないと思っている。
ブレンパワードまで今読みたいけど……小説ブレンは小説として文章(文体)の楽しみが乏しいので資料程度でしかない。面出明美氏のせいとは言いたくないが読者としてはそう。
それとべつに、「皆で手をつないでオルファンに呼びかける」のような話自体が嫌いなのは今も変わっていない。オルファンは人類と共存するために迎えられたのではなく、しばらくこの場に留まって、やはり宇宙にはやがて旅立つと思うよ。
第四の物語 完。一巻のレビューに「短編連作の……」と書き出したが、ここからはもうそれではないな。第七話が独立した挿話になっているくらいか。
第五の物語。章が始まってすぐに少女レリエルの性格(特質)について書かれる。――前話では、マラークがロキにこの娘を連れて行きたいと言い出したとき理由はとくになんとも言っておらず、ロキも訊ねてはおらず、ものを頼むにも王子らしい鷹揚な物言いのうちなのかなと思っていた。
レリエルには気立ての良さと、とくに天性ともいえる「他人の話をきくこと」が特質だった。生まれつき人の話を聞くことは、このたび富野通読ではセシリーと、セシリーの母ナディアの備える美点でもあった。
小説作品の人物の性格を各属性に分解して分析のようにすることは、作品理解に必ず妥当だというわけではない。その話のうちではとくに大事じゃないことはいつもあるが、とくに作者の通読するとき、人物の性格描写をするのに同じ表現をしていることは、書いているその瞬間にもなんらかの連想ははたらいているだろう、前後関係や比較を話題にできるとは言えてよい。
レリエルは今回、これから読むことなので追っていくとして、今はセシリーについて少し補っておこう。F91のヒロインのセシリー・フェアチャイルドについて普通に分かっていることでは、美人で、生真面目で、パン屋の娘なのにえもいわれぬ気品がある。 クロスボーン騒動が始まるとマイッツァー・カロッゾの父権的なやり方に反撥を覚えるものの状況に逆らえず大人しく従ってみえる。そのくせ、気は動転しているのか突然にモビルスーツを操縦できちゃったりする、頓狂なところもあるようにみえる。そのくらいのことだろう。
セシリーについては前回、『アベニールをさがして』の最中にも比較対象が挙がっていて、それはダンサーのアベニールだった。セシリーとダンサーの比較は地球上に他にする人いないし、ここで再び喚起しておいていい。それは減らず口なこと、だった。セシリーは学校では弁論部の先鋒でもあり、その気で喋りだせば止まらない。理屈も・屁理屈も列べて言いたてて父親の鉄仮面が「まだ言うか!」と閉口するまでしゃべる。
ニュータイプ少女セシリーの特質は、文中では減らず口と、人の話をきくこと二点に強調されていたように思えた。それはまた、生まれつきか、訓練されたものかの興味もあるだろう。 弁論部の活動は訓練。そのまえに、作家である父シオとの対話から学んだ「表現への興味」がそんな活動の契機になっていた、彼女の中の経緯がある。
幼いセシリーが大人の話にじっと聴き入る少女だったことは、マイッツァーお祖父様のお話を聴いている頃からそうだから、それはマイッツァーの薫陶ではなく、ほとんど生まれつきのようだ。ここはF91前史になる「ロナ家の家系」というものがシャルンホルストから四代を経てそこまで醸成したのだと思う。家に生まれつきのプリンセスが出現するまで来た。マイッツァーは普通の人の生まれなので、そんな孫娘ベラの資質を見て感嘆したものだ。
レリエルが人の話に従順なことは、奴隷娘だから高貴な家柄の気質などはない。異教徒だったことは習慣。それでも「天性」と呼ばせるものは生まれつき、これこそ突発的に生じた性格というのかな……。
通読しているとレリエルにはセン・セートの面影をどうしても見出す。セン・セートの従順さ、または清楚さが果敢を通り越して凄まじいまでの苦悩になってしまう経緯はたびたびくり返したくもなく、今ここまで。
レリエルは、健気だった。
これかな。「清楚」というと、セン・セートはわかるが、レリエルには清楚とか気高さというのとはまた、そぐわない気はする。この子は、「健気」がそれという感じはする。健気呼びでいこう。
生まれつき、健気なところがあった。健気ってどういう意味だろうな。清楚の含みには「凛として穢れに交わらない」のような響きもあるだろう。汚濁にまみれても絶対に汚せないものという。 健気には、そのニュアンスは入ってない。行動原理を指す言葉だ。「報いないことを知りながらがんばる」ような気持ちだろうか。
セン・セートは健気は健気だけど、ただ健気と呼んで済ますには境遇が度を越して酷いところがある。だから戦士と……。セシリーは、清楚には見えるけど健気には見えない。
ちょうど上で「果敢」とも書いているが、果敢と書いて果敢(はか)ないとも読む、そういう語彙は持っていてもいいね。
『……この国のアウラ・エナジィが発動した理由が良くわかったよ……腹に一物をもつものが多すぎるのだ……グラン王の洞察力や統治能力で、アウラ・エナジィが顕現した現象とは思えんな……』
身も蓋もないことを!
外征、カロッダから外に進出して騎兵隊を出してゲリラ攻撃を敢行するというのは、前から話題になっていたグッダーザンの足がかりになっていると見られる各地のオアシスを点々と目潰しし、敵の大型飛行機械がカロッダまで到達できなくする……戦線を拡大すればグッダーザンの戦力は分散せざるをえない。
「時間稼ぎには有効なのだが、それこそ、覇権主義の増長を生むものだ」
それはしてはならないという。『外征すればカロッダのアウラ・エナジィは外にむけられて減殺する』。そうなればカロッダは重力に引かれて墜ちる。――アウラ・エナジィの真相は読者にはそのたび想像させられる以外、考えようがないが、ゴレンゴンの夢のお告げというのでは仕方ない。本当かどうかわかんないが、この小説で神秘的なメッセージが嘘はつかないだろうから確実なことだ。
『まさか夢のお告げが嘘をつく』というのは別の作家の話、富野作品とは関係ない。ニュータイプの交感で虚報を伝えてくることはないはず……それは無条件に真実。ゴレンゴンは正直。
もうひとつは覇権主義について。フローランドしつつあるカロッダが周辺一帯の力の及ぶかぎりをこの際、制圧してやれというのは覇権的になるという。一昔前に、グラン王がカロッダ・テリトリィを統一したときは覇権主義じゃないのかとは、わたしは前巻で別の意味で話してもいたので少しまぎらわしい。もともとは覇権思考だったのが、覇権が目的じゃなくフローランドそのものがが目的になった、と言えばわかりやすい。覇権の語は一貫して好ましい意味では使われていない。
クワウンゾゥが考えているような、グリーン・テリトリィがフローランドしたら浮遊大陸のコングリヨンに乗って各地を爆撃し、グラウンド全てを制圧して略奪してやれのような、ラピュタ帝国のようなことを目論んでもアウラ・エナジィが拡散してまず墜落するということか。
フロー教の教義をひとまず、いま分かるだけまとめてもよさそうかな……。翔ぶことが何故そんなに崇高な目的なのかと少しわかりにくくないか。実際、クワウンゾゥはこの時代で「スペース・アイランドが人の夢」のようには信じていないだろう。
ゴレンゴンは正直でいいのだが、後には「ジャコバ・アオンは嘘つき」のようなこともやはり思い始めるからこんなことも書いておくんだ。
コングリヨンのフローランド構想はテリトリィ規模ではなく首都だけを浮上させようとしている。これは前から書いてあったが、話はこのあとにある。フロートするのか、しないのか?
『王の心』の世界に名の知られた宗教は、フロー教が広く行われている。宗教といえばフロー教のようだが、レリエルの出身民族のように「異教徒」と呼ばれる人々もいて、全世界的な実態は明らかでない。
フロー教の説く世界の姿は創世記(バイブル)に記されている。創世記によると古代に各地のグリーン・テリトリィがフローランドし、宇宙(大天空)に新たな惑星(グラウンド)を求めて飛翔していった。
バイブルには、困難な時代を生きる人々が純粋な理想を掲げて事を成したという、当時の理念が書き残されている。その時代の人びとは、自然の理のなかに、総意をもって意思を統合することによって、新しい惑星に至ることを旨とした……と。
創世記時代以後のこの惑星には、フローランド後の痕跡の陥没地帯が点々と残され、僅かなグリーン・テリトリィ以外、地上の大半は砂漠化した。以後の歴史時代には、この地上に残された生存圏を争って生き延びるために生存のための知識・学術が求められた一方、旧時代の記憶は曖昧な神話となり、フローランドする世界の真相やアウラ・エナジィの在り方についての知識は失われた。
フロー教のアジャリ(修道者)の風貌は前回にも少し列べた。
フロー教が宗教として、飛ぶことがこの星の人間にとって何の意味があるかというのは、この世界の人々にとってさえ必ずしも共通して受け入れられていることではない。まして読者には「何故?」と最初から思うこと。宇宙に行くのがそんなに大事か。この大地で今を生きることがまず大事だろう、と。
フローランドの思想は、人間が生きることに飛ぶことがどれほどの意味があるかではなくて、「大天空へ翔ぶものが人間」という人間観の語り変え、その実存(そんな私)を語ることにある。それが大衆の救済教のようにはなりたくないようだ。フローランドは巨大なお祭りではある。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているとは前回に言った。
大衆の救済に興味が乏しいというのは、荒れたグラウンドで日々死んでいく一般大衆は一生のうちに天空を見ることは、まずないのだが、人が死ぬときに傍らにアジャリが寄って、「魂はグラウンドを離れ宇宙へ翔ぶであろう…」のような、救いは、とくに与えない。今現実に死んでいく人に対して、何もなくても何かを与えようという、その興味がない。大衆化するのは不純ではあるだろう。 一方で、フローランドの時代は既に遠い過去のこととして終わってしまい、取り残されたこのグラウンドでフローランドは今後もう起こらないだろうという現実にあってフロー教を説き続けることはフロー教徒にとっても無理があり、グッダーザンやドウガロのアジャリは信仰態度が半ば崩壊している。
「太古の昔は母系社会であったゆえに……」 太古が本当に母系だったかどうかは、わたしは今知らない。このまえヴィーナスの神話の話題から周辺をさっと瞥見していたがまじめにするならバッハオーフェンの母権論(1861)あたりからわたしは読み返さないとならない。内容の記憶はない、手元に本はある。今あえてその障害があるわけでもないけど併読が多いんだ。順番な。
そういえば、メスジアのファッションの話など、この第二巻になってからカロッダが急に近代のヨーロッパになってきたような印象がする。前巻ではもっと古めかしい時代かのような気はしていた。
もちろん、われわれの近代や中世やという観念とはこの世界の文化史事情は違うのだろうが、「太古の昔は母系社会」という理解にしても、フラムロートとライラの間だから話が通じる"近代思想"なのかもしれない。それとまた別に、上に書いたフロー教の知識の中にその論も伝承されているのかもしれないな。
いかにも成り上り者風情の屋敷に見えるのは、各地の様式をゴッチャにとりいれているからで、ポテーのみならず、ルベンや若い騎士や執事、侍女も呆れ果てた。
これはこの間、『勇魚』のときにも読んでいたな。あれは幕末の話だった。交易商や属州総督の屋敷は昔からそうだったような、その特徴を書くのにいう、か。
カロッダにも、その種の区画が教会ちかくには、必ずといっていいほどあるのだが、
フロー教の教会というのが、あるのか。フロー教について上で書いたことと違うようだが。 全三巻中でフロー教の教会や寺院が出てきたことは実際、ない。第一話で、エッゲイナーの郊外に「異教徒の教会の崩れた廃墟」があってアカイアーの劇の舞台になったが、それが「教会」だとわかるくらいの概念はあるとしたら、フロー教にも大衆を教化するための教会はあったのかもしれないな。これは本文の端々からの推理になる、あまり重要だったとは思わないけれど……?
「売笑窟が教会(宗教的拠点)の近くに必ずある」というのは、何故だ? わたしは今そのことを知らないが、そういう事実はあるのか。フックスの風俗史などに載っていそうな話な気はするな……。
なにか記憶の端に引っかかるけど、思い出せない。『王の心』のこの章の筋には差し当たり全く差し支えない。
第六の物語 完。退屈ではないだろうが、内容のこまごまの部分は注意しないと初読では読み飛ばすかもしれない。
このあと第七話は例の挿話、一転して詩的でファンタジックでもあって、たぶん、『王の心』の読者には強く印象に残るエピソードだと思う。今夜はここまでにする。
浮上する世界、フロー教、のような記事をずーっと追っていると『ブレンパワード』にやがて通じる印象はいつも感じている。
「浮上する音楽」について、「Song to fly」は『王の心』に合わないかのようで、わたしの気分にはむしろこれだ!と思え、一度はまるとそれしかないな。小説読むあいだに他の音楽アルバムを探そうという気がしない。ABC Mouse Paradeだってガブリエラ・ロビンが可愛すぎるが、意外にグッダーザンやコングリヨンのテーマのような気だって、してこないか。
第七話、冒頭からグラン王はアカイアーのことや、雲のことを思い出し、冥界の掟に違約しても現世に働きかけるすべがないかと思いめぐらせているが、「アカイアーには冥界の加護(掟の例外対象)があるんだろう」と想像が至るとして、例の松葉のことはやはり憶えていないみたいだな。
雨雲は、グラン王の力ではなくて、そのときグラン王の切な願いに応えて冥界の何者かがやってくれたことだと思っている。それもアカイアーだから冥界が特別にそうした。松葉は……まあ忘れて。
霊体で自元術(導引術のようなもの)を行ってその不可解さに苦笑していたり、グラン王も生前のリアリズム思考が抜けなくて霊的になりきれていない。
だって死後はもうこの世に関わりようがないと観念し尽くしているなら、それは、どれほど極端なエゴイストでなくても執着を持ち続けられないだろう。後はもうどうなってもいいじゃないか。「ただ観察者として先々を見届けたい」というのは妄想か。
ルビーらしい宝石のことをビジョット・ブレッドと書いてあるけど、ピジョン・ブラッドだと思う。
ここはとくにこの世界に特殊なアイテムのことではない。
「間違いだ」と言いたいわけでもなくて、たぶん富野監督の中でそういう言葉で憶えていたんだろうなと思うので、富野原文は残すべきだと思うんだけど、それでも当時の原稿は「ビ」じゃなくて「ピ」だったんじゃないかのような疑いがある。紙には「ビ」とある……。これは、これ以上なんとも言えない。勝手に直したくないなら、メモを書き入れておかないとわたしは再読のたびに疑問符が浮かぶと思う。
『創世記の時代、人は、天然自然の原理に身をゆだねられる素朴な人でありました。けれど、知恵をつけるにしたがって、自らが手にした知識でしか物事をみなくなったのです』 『知恵ある動物は高尚である、と自惚れた罪か?』 『真理をもとめようとする学問と知識を道具にしてしまって、その道具をつかうことしかできなかったということです。罪の結果ではございません』 『……では、どうすれば、真理を悟れるのだ?』
この箇所ではこの後にまだ続きを試みるのだが、今あえてここまでの引用として、富野通読では前回コンラッド・ヘイヤーガンと、それに遡るカガチ、シャアまでの"贖罪観"に繋いでおこう。言葉を道具として使う(つかう)ことしかできなかったことは、それだけのことで、それが罪の結果ではないとこのとき言いえた。作家通読上ではすごい展開だ。『王の心』二巻(1996.5)は『アベニール』三巻(96.2)より順序では後。
『アベニールをさがして』は、ヘイヤーガン思想のポイントなどは文中からかなり分かりにくいこともあるのだけど、小説の重心はそこよりはむしろ、「言ってることとやってることが違う」「思っていることと伝えてくることがちぐはぐ」といった表現実験の場のようで、作中で「ゴドーを待ちながら」に言及しているあたりからも作者が作為的にしているとは明かしている。作品がベケット風だという意味ではなく。
その前には『破嵐万丈』シリーズが小説実験をしている様子でもあって、おかしなシリーズではあるけど、4巻ではそれなりの手応えを得ていたんじゃないか。Gのレコンギスタのメイキング等で紹介された会話スタイルはそこにも実験らしいのが読める。
「率直なメッセージを大声で叫べばいいわけではない」とはかなり早くから分かっている、それがこの頃重要問題になっているみたい。文学よりは映画由来なんだろうけど……演劇、から得てるものもあるだろう。それは幻想文学のテーマだとわたしは思っていて、ジャンルをまたぐとまた知らないことがどんどん増えてくる。
第七の物語 完 上で、いつかはやがてもうどうなってもいい王の心にもなるのだろうかとグラン王の心中を思い、リアリズムと脱俗とか、ガールズの今後に思いを馳せまくるじじいの霊魂のことを思ったが、この章の読後になお『ああ、この後どうなるのであろうか』と思えばそれは既に目撃する必要のない歴然としていることのとき、それはもうどうなってもいいくらいだから、完、なのであると言ってみる。
時の観方という流れでは、エイシェトの時点を見ることができた。 「通読上はすごい展開」と上で書いたのは、贖罪問題の提起はされてもそこに新たな物の見方だの言葉の使い方は、オリファーではないが容易に思いつかないと思う。討論では打破できないそこに何十年も停滞することはありうる。これは、ファンタジー小説を書くという機会があったから、ストーリー創作の上でできたことだろう。
さて言うまでもない話をまだ続けると、この七話の仕立て自体は、手塚治虫を挙げなくても、モデルになっていそうな物語の連想はあるだろう。富野小説には、『リーンの翼』中に火山地帯の悪地に住んで孤独に逼塞して年月を暮らした老人が登場したことがある。
カロッダのことを思うだけで精いっぱいで、最も身近な人々を犠牲にしてきたグラン王の悔恨については、『シーマ・シーマ』ではアーデアス王への同じ糾弾でもあった。その怨讐は単に「罰する」という形で答えは出なかったことだ。
また細かいところで、この章のうちグラン王は、血が繋がっているらしき少女エイシェトの心持ちにたびたび感心する、命のありようについてよほど高いところを感得していると思うのだがそれを、さすがわが娘よ、と思うことは自分に戒める。
そう思ってしまえば、傲岸不遜である。
かつてむごい境遇に追いやってしまった娘に対してその娘を誇ることは、グラン王にできなかったというこれはVガンダムで、ハンゲルグからウッソに対して言った言葉に似ている。あまりに優れた子供の業績をみて「それでこそ息子だ」と言ってしまっては父親が不遜な言い方になってしまうだろう。かといって、そんな育て方をしたことを今更申し訳なかったと謝ってはウッソの立場がないし、ただ、「私の息子はこんなに出来が良い」と素直に言えないハンゲルグにはウッソは寂しさを感じた。 それはそうだろうし、父と子が対等関係で会話するには、ウッソにもまだ幼さはあると訴えたいものはわかる。小説Vではその場面のあとに、ハンゲルグ・ミューラ・ウッソの家族の時間も短いながらあったが、それはもう取り戻せなかったと思う。小説F91でマイッツァーからセシリーに対しても幾らか似たようなことを言った。カロッゾもだと思うが、ロナ家に居てはこうは育たなかったろうとの。
エイシェト・アルクアとの夢の邂逅はグラン王が死後にようやく誰かとまともに話をした機会でもあり、冥界や世界についての悩みに誰かがようやく応答してきた時でもあった。笛吹やフール・ケアの時はそれでも遠く別れていく時で、オノレは心痛む別れをして一人帰ってきたのだろうし……。一時の邂逅のあと、グラン王はもう一度同じ感慨に打たれたときは、
『さすが、わが娘である』
と躊躇いなく言っている。
第八の物語 完。ここは一気だ。面白い。第二巻読了で、三巻へ。
第三巻の序章にあたる「受領の章 クワウンゾゥの撤退」、序章といってもいきなりシーンは前回の続きが始まる。このタイトルの「受領の章」という意味がわからなくて、前回読んだときもどういう意味の受領だ?と呟いていた気がする。これから読んでいこう。
受領――やはり、これといって確かに説明できるわけではないのだが。
この序章中で誰かが何かを受け取ったということはないが、もし仮にポテーとメハビアーを、クワウンゾゥが「受領」したとしてもそのことにどれほどの意味もないので、それは置いておこう。
前巻の序章部分にあたる「欠の章 うたた星々」は、この『王の心』シリーズは全巻の各章を通し番号として「第何の物語」とカウントされる、そのカウント外だから「欠」としている。全巻があたかも「物語集」かのように編成されている意味は読後に最終的にある。同じように構成上の意味だと、受領というのは「前巻(前章)の話題を受けて再開する」――承前――という意味か、と解するのがここは良さそうに思う。
うたた星々の「うたた」がどういう意味かは、これは、語義を講釈するほどの何でもなく「うたた寝」というときの雰囲気で、まどろみ夢見る星たち。うたた星々――と本文中でグラン王が口走るところがあるので、無為に夢みるもの、命あるものを無関心にただ眺めている意味だとわかる。星や銀河はそうではない、まどろむうちにも冷酷ではないんだという話だけど。
系図のことで先日触れた「シェラグ王家」との用語だが、実はこの王家の名は一巻の系図と、同じく一巻冒頭の序章から十行目ほどのところに「シェラグ王族のグラン王……」とあるだけで、以後に作中で言及されることはない。
後の巻ではグラン王の家系のことはもう大ざっぱに「グラン家」など言われていたりし、シェラグ王家のほうは実際あまり重要な語でない。シェラグという響き自体は、シェラン・ドゥ・グラン王のフルネームをつづめてシェラグって言ったような、ザギニス・ゾアをザギゾアと呼んだのと似たようなフィールだ。
「健気であったが……!」
いいな、最高だ。
『現在の速度差は、』とあるのは意味からして「高度差」が正しいように思うが、それは雰囲気でいい。
それより、その直前の文でもそうだが、フローランドしつつある状態だったものが次の展開の中ではすでにフローランド「した」と書かれているほど、この三巻の激動展開の中に駆使されている文章の工夫には舌を巻く。早すぎる……。わたしは初読じゃないのだが、今にして読んでざわっと鳥肌めいたものがあった。いま十二話、大詰め。
速度でも?……と思うけど、追従しているわけではなく対向して互いに迫っているところだから、速度なら問題になるのは、差ではなくて和だ。でもここはもう勢いで飛ばしてる。
『王の心』三巻読了。今読んでも、というか今のタイミングで読み返せてよかった。富野通読の次は『密会』へ行く。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 管理チームへ匿名通報が送信されます。あなたが誰であるかを管理チームに特定されることはありません。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
トピックをWIKIWIKIに埋め込む
次のコードをWIKIWIKIのページに埋め込むと最新のコメントがその場に表示されます。
// generating...
プレビュー
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
富野総合からトピ分け。『王の心』ここまでは、
今頃になって個別トピック立てしている作業指針と、
さらに先の混雑を予想して編纂しやすくするため、は同様。富野話題にせっせと書き込んでいると2月頃の当初そんなに思わなんだ。
『リーンの翼』まで読んでしまえば次回いつ戻ってくるか知れんが、そのときはまたあらかじめ場所があると書き込みやすいだろう。この板には基本、「今日ここまで」を記入するだけでよい。
白兵戦を敢行する!
白兵戦を敢行する! 二巻に入って始まるこれが好き。これと、俊英マラークについてはこれまでも微かに触れていたが天才と阿呆の子は紙一重でするのが富野作品一連で「俊英」と呼ぶのだろう。
前回、『シーマ・シーマ』では意外にナウシカばりの空中移乗攻撃はしていない。スィープ・スティードで強行着艦はしたっけ。
ここまでも、マラークは離陸中の飛行機械に馬で乗りつけて飛び乗ってきたのだが、
飛行機械の形状はなかなかビジュアルが掴めないものの、こういう一文で書き飛ばしてしまうのがいいね。富野監督はこの頃不調だと言っているが、文章はそうか?
当時、富野作品の時期的に近かった「馬鹿馬鹿しいほどの白兵戦」は小説Vガンダムのカイラスギリー艦隊戦中、スクイードに挑む陸戦。
そのまえの、旧式艦を楯にしつつ特攻・自爆させる戦法は、正攻法に美学を求めるタシロには『外道だ。プロとして恥ずべきことだ』これがゲリラのやり方か!と思うのだけど、火船戦法自体はすごく古典的な戦法で、軍人になるために教科で学んでいないはずがない。
この星で生き続けるために
ドウガロのシンシア。ここの、『このようなところで、未来永劫に人が生きていくためには』の節に少し気になる。1995年。もっと後、Gレコより後の最近の富野インタビュー等にもこれに近い発言は度々あったりするが、そういうときどういう意味か。ネットでファン語りにするときには『21世紀以後の富野は宇宙進出を否定している』という富野論のために引用されることがよくある。
そういう文脈は適当に裁断して、人は大地に立つのがよい、健やか大事、御大の落ち着いた結論よね、という"富野フォロワーの発言"はしきりに目につく。でも、仮に富野発言を権威の根拠に何かを言いたいとしても、わたしはテキスト批判は自分単独で続けていることゆえ、それは信用しない。
それより以前に、公刊されているテキストにも読者が見てわかる誤脱字が目立つので、まずテキストを補訂しよう、それが第一だというのが、ファンとしてはわたしの現在の感想。人類が富野ファンでなければならないかは疑問だけど、それであって悪いはずはないと思っている。
ブレンパワードまで今読みたいけど……小説ブレンは小説として文章(文体)の楽しみが乏しいので資料程度でしかない。面出明美氏のせいとは言いたくないが読者としてはそう。
それとべつに、「皆で手をつないでオルファンに呼びかける」のような話自体が嫌いなのは今も変わっていない。オルファンは人類と共存するために迎えられたのではなく、しばらくこの場に留まって、やはり宇宙にはやがて旅立つと思うよ。
第四の物語 完。一巻のレビューに「短編連作の……」と書き出したが、ここからはもうそれではないな。第七話が独立した挿話になっているくらいか。
人の話をきく
第五の物語。章が始まってすぐに少女レリエルの性格(特質)について書かれる。――前話では、マラークがロキにこの娘を連れて行きたいと言い出したとき理由はとくになんとも言っておらず、ロキも訊ねてはおらず、ものを頼むにも王子らしい鷹揚な物言いのうちなのかなと思っていた。
レリエルには気立ての良さと、とくに天性ともいえる「他人の話をきくこと」が特質だった。生まれつき人の話を聞くことは、このたび富野通読ではセシリーと、セシリーの母ナディアの備える美点でもあった。
小説作品の人物の性格を各属性に分解して分析のようにすることは、作品理解に必ず妥当だというわけではない。その話のうちではとくに大事じゃないことはいつもあるが、とくに作者の通読するとき、人物の性格描写をするのに同じ表現をしていることは、書いているその瞬間にもなんらかの連想ははたらいているだろう、前後関係や比較を話題にできるとは言えてよい。
セシリー追記
レリエルは今回、これから読むことなので追っていくとして、今はセシリーについて少し補っておこう。F91のヒロインのセシリー・フェアチャイルドについて普通に分かっていることでは、美人で、生真面目で、パン屋の娘なのにえもいわれぬ気品がある。
クロスボーン騒動が始まるとマイッツァー・カロッゾの父権的なやり方に反撥を覚えるものの状況に逆らえず大人しく従ってみえる。そのくせ、気は動転しているのか突然にモビルスーツを操縦できちゃったりする、頓狂なところもあるようにみえる。そのくらいのことだろう。
セシリーについては前回、『アベニールをさがして』の最中にも比較対象が挙がっていて、それはダンサーのアベニールだった。セシリーとダンサーの比較は地球上に他にする人いないし、ここで再び喚起しておいていい。それは減らず口なこと、だった。セシリーは学校では弁論部の先鋒でもあり、その気で喋りだせば止まらない。理屈も・屁理屈も列べて言いたてて父親の鉄仮面が「まだ言うか!」と閉口するまでしゃべる。
ニュータイプ少女セシリーの特質は、文中では減らず口と、人の話をきくこと二点に強調されていたように思えた。それはまた、生まれつきか、訓練されたものかの興味もあるだろう。
弁論部の活動は訓練。そのまえに、作家である父シオとの対話から学んだ「表現への興味」がそんな活動の契機になっていた、彼女の中の経緯がある。
幼いセシリーが大人の話にじっと聴き入る少女だったことは、マイッツァーお祖父様のお話を聴いている頃からそうだから、それはマイッツァーの薫陶ではなく、ほとんど生まれつきのようだ。ここはF91前史になる「ロナ家の家系」というものがシャルンホルストから四代を経てそこまで醸成したのだと思う。家に生まれつきのプリンセスが出現するまで来た。マイッツァーは普通の人の生まれなので、そんな孫娘ベラの資質を見て感嘆したものだ。
レリエルが人の話に従順なことは、奴隷娘だから高貴な家柄の気質などはない。異教徒だったことは習慣。それでも「天性」と呼ばせるものは生まれつき、これこそ突発的に生じた性格というのかな……。
通読しているとレリエルにはセン・セートの面影をどうしても見出す。セン・セートの従順さ、または清楚さが果敢を通り越して凄まじいまでの苦悩になってしまう経緯はたびたびくり返したくもなく、今ここまで。
これかな。「清楚」というと、セン・セートはわかるが、レリエルには清楚とか気高さというのとはまた、そぐわない気はする。この子は、「健気」がそれという感じはする。健気呼びでいこう。
生まれつき、健気なところがあった。健気ってどういう意味だろうな。清楚の含みには「凛として穢れに交わらない」のような響きもあるだろう。汚濁にまみれても絶対に汚せないものという。
健気には、そのニュアンスは入ってない。行動原理を指す言葉だ。「報いないことを知りながらがんばる」ような気持ちだろうか。
セン・セートは健気は健気だけど、ただ健気と呼んで済ますには境遇が度を越して酷いところがある。だから戦士と……。セシリーは、清楚には見えるけど健気には見えない。
ちょうど上で「果敢」とも書いているが、果敢と書いて果敢 ないとも読む、そういう語彙は持っていてもいいね。
身も蓋もないことを!
覇権への退行
外征、カロッダから外に進出して騎兵隊を出してゲリラ攻撃を敢行するというのは、前から話題になっていたグッダーザンの足がかりになっていると見られる各地のオアシスを点々と目潰しし、敵の大型飛行機械がカロッダまで到達できなくする……戦線を拡大すればグッダーザンの戦力は分散せざるをえない。
それはしてはならないという。『外征すればカロッダのアウラ・エナジィは外にむけられて減殺する』。そうなればカロッダは重力に引かれて墜ちる。――アウラ・エナジィの真相は読者にはそのたび想像させられる以外、考えようがないが、ゴレンゴンの夢のお告げというのでは仕方ない。本当かどうかわかんないが、この小説で神秘的なメッセージが嘘はつかないだろうから確実なことだ。
『まさか夢のお告げが嘘をつく』というのは別の作家の話、富野作品とは関係ない。ニュータイプの交感で虚報を伝えてくることはないはず……それは無条件に真実。ゴレンゴンは正直。
もうひとつは覇権主義について。フローランドしつつあるカロッダが周辺一帯の力の及ぶかぎりをこの際、制圧してやれというのは覇権的になるという。一昔前に、グラン王がカロッダ・テリトリィを統一したときは覇権主義じゃないのかとは、わたしは前巻で別の意味で話してもいたので少しまぎらわしい。もともとは覇権思考だったのが、覇権が目的じゃなくフローランドそのものがが目的になった、と言えばわかりやすい。覇権の語は一貫して好ましい意味では使われていない。
クワウンゾゥが考えているような、グリーン・テリトリィがフローランドしたら浮遊大陸のコングリヨンに乗って各地を爆撃し、グラウンド全てを制圧して略奪してやれのような、ラピュタ帝国のようなことを目論んでもアウラ・エナジィが拡散してまず墜落するということか。
フロー教の教義をひとまず、いま分かるだけまとめてもよさそうかな……。翔ぶことが何故そんなに崇高な目的なのかと少しわかりにくくないか。実際、クワウンゾゥはこの時代で「スペース・アイランドが人の夢」のようには信じていないだろう。
ゴレンゴンは正直でいいのだが、後には「ジャコバ・アオンは嘘つき」のようなこともやはり思い始めるからこんなことも書いておくんだ。
コングリヨンのフローランド構想はテリトリィ規模ではなく首都だけを浮上させようとしている。これは前から書いてあったが、話はこのあとにある。フロートするのか、しないのか?
フロー教とその教義
『王の心』の世界に名の知られた宗教は、フロー教が広く行われている。宗教といえばフロー教のようだが、レリエルの出身民族のように「異教徒」と呼ばれる人々もいて、全世界的な実態は明らかでない。
フロー教の世界観
フロー教の説く世界の姿は創世記(バイブル)に記されている。創世記によると古代に各地のグリーン・テリトリィがフローランドし、宇宙(大天空)に新たな惑星(グラウンド)を求めて飛翔していった。
バイブルには、困難な時代を生きる人々が純粋な理想を掲げて事を成したという、当時の理念が書き残されている。その時代の人びとは、自然の理のなかに、総意をもって意思を統合することによって、新しい惑星に至ることを旨とした……と。
創世記時代以後のこの惑星には、フローランド後の痕跡の陥没地帯が点々と残され、僅かなグリーン・テリトリィ以外、地上の大半は砂漠化した。以後の歴史時代には、この地上に残された生存圏を争って生き延びるために生存のための知識・学術が求められた一方、旧時代の記憶は曖昧な神話となり、フローランドする世界の真相やアウラ・エナジィの在り方についての知識は失われた。
フロー教の役割
フロー教のアジャリ(修道者)の風貌は前回にも少し列べた。
フロー教が宗教として、飛ぶことがこの星の人間にとって何の意味があるかというのは、この世界の人々にとってさえ必ずしも共通して受け入れられていることではない。まして読者には「何故?」と最初から思うこと。宇宙に行くのがそんなに大事か。この大地で今を生きることがまず大事だろう、と。
フローランドの思想は、人間が生きることに飛ぶことがどれほどの意味があるかではなくて、「大天空へ翔ぶものが人間」という人間観の語り変え、その実存(そんな私)を語ることにある。それが大衆の救済教のようにはなりたくないようだ。フローランドは巨大なお祭りではある。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているとは前回に言った。
大衆の救済に興味が乏しいというのは、荒れたグラウンドで日々死んでいく一般大衆は一生のうちに天空を見ることは、まずないのだが、人が死ぬときに傍らにアジャリが寄って、「魂はグラウンドを離れ宇宙へ翔ぶであろう…」のような、救いは、とくに与えない。今現実に死んでいく人に対して、何もなくても何かを与えようという、その興味がない。大衆化するのは不純ではあるだろう。
一方で、フローランドの時代は既に遠い過去のこととして終わってしまい、取り残されたこのグラウンドでフローランドは今後もう起こらないだろうという現実にあってフロー教を説き続けることはフロー教徒にとっても無理があり、グッダーザンやドウガロのアジャリは信仰態度が半ば崩壊している。
「太古の昔は母系社会であったゆえに……」
太古が本当に母系だったかどうかは、わたしは今知らない。このまえヴィーナスの神話の話題から周辺をさっと瞥見していたがまじめにするならバッハオーフェンの母権論(1861)あたりからわたしは読み返さないとならない。内容の記憶はない、手元に本はある。今あえてその障害があるわけでもないけど併読が多いんだ。順番な。
そういえば、メスジアのファッションの話など、この第二巻になってからカロッダが急に近代のヨーロッパになってきたような印象がする。前巻ではもっと古めかしい時代かのような気はしていた。
もちろん、われわれの近代や中世やという観念とはこの世界の文化史事情は違うのだろうが、「太古の昔は母系社会」という理解にしても、フラムロートとライラの間だから話が通じる"近代思想"なのかもしれない。それとまた別に、上に書いたフロー教の知識の中にその論も伝承されているのかもしれないな。
これはこの間、『勇魚』のときにも読んでいたな。あれは幕末の話だった。交易商や属州総督の屋敷は昔からそうだったような、その特徴を書くのにいう、か。
フロー教の教会というのが、あるのか。フロー教について上で書いたことと違うようだが。
全三巻中でフロー教の教会や寺院が出てきたことは実際、ない。第一話で、エッゲイナーの郊外に「異教徒の教会の崩れた廃墟」があってアカイアーの劇の舞台になったが、それが「教会」だとわかるくらいの概念はあるとしたら、フロー教にも大衆を教化するための教会はあったのかもしれないな。これは本文の端々からの推理になる、あまり重要だったとは思わないけれど……?
「売笑窟が教会(宗教的拠点)の近くに必ずある」というのは、何故だ? わたしは今そのことを知らないが、そういう事実はあるのか。フックスの風俗史などに載っていそうな話な気はするな……。
なにか記憶の端に引っかかるけど、思い出せない。『王の心』のこの章の筋には差し当たり全く差し支えない。
第六の物語 完。退屈ではないだろうが、内容のこまごまの部分は注意しないと初読では読み飛ばすかもしれない。
このあと第七話は例の挿話、一転して詩的でファンタジックでもあって、たぶん、『王の心』の読者には強く印象に残るエピソードだと思う。今夜はここまでにする。
浮上する世界、フロー教、のような記事をずーっと追っていると『ブレンパワード』にやがて通じる印象はいつも感じている。
「浮上する音楽」について、「Song to fly」は『王の心』に合わないかのようで、わたしの気分にはむしろこれだ!と思え、一度はまるとそれしかないな。小説読むあいだに他の音楽アルバムを探そうという気がしない。ABC Mouse Paradeだってガブリエラ・ロビンが可愛すぎるが、意外にグッダーザンやコングリヨンのテーマのような気だって、してこないか。
もうどうなってもいい王の心
第七話、冒頭からグラン王はアカイアーのことや、雲のことを思い出し、冥界の掟に違約しても現世に働きかけるすべがないかと思いめぐらせているが、「アカイアーには冥界の加護(掟の例外対象)があるんだろう」と想像が至るとして、例の松葉のことはやはり憶えていないみたいだな。
雨雲は、グラン王の力ではなくて、そのときグラン王の切な願いに応えて冥界の何者かがやってくれたことだと思っている。それもアカイアーだから冥界が特別にそうした。松葉は……まあ忘れて。
霊体で自元術(導引術のようなもの)を行ってその不可解さに苦笑していたり、グラン王も生前のリアリズム思考が抜けなくて霊的になりきれていない。
だって死後はもうこの世に関わりようがないと観念し尽くしているなら、それは、どれほど極端なエゴイストでなくても執着を持ち続けられないだろう。後はもうどうなってもいいじゃないか。「ただ観察者として先々を見届けたい」というのは妄想か。
ルビーらしい宝石のことをビジョット・ブレッドと書いてあるけど、ピジョン・ブラッドだと思う。
ここはとくにこの世界に特殊なアイテムのことではない。
「間違いだ」と言いたいわけでもなくて、たぶん富野監督の中でそういう言葉で憶えていたんだろうなと思うので、富野原文は残すべきだと思うんだけど、それでも当時の原稿は「ビ」じゃなくて「ピ」だったんじゃないかのような疑いがある。紙には「ビ」とある……。これは、これ以上なんとも言えない。勝手に直したくないなら、メモを書き入れておかないとわたしは再読のたびに疑問符が浮かぶと思う。
エイシェトの時点
この箇所ではこの後にまだ続きを試みるのだが、今あえてここまでの引用として、富野通読では前回コンラッド・ヘイヤーガンと、それに遡るカガチ、シャアまでの"贖罪観"に繋いでおこう。言葉を道具として使う(つかう)ことしかできなかったことは、それだけのことで、それが罪の結果ではないとこのとき言いえた。作家通読上ではすごい展開だ。『王の心』二巻(1996.5)は『アベニール』三巻(96.2)より順序では後。
カテジナは野菜か。
『アベニールをさがして』は、ヘイヤーガン思想のポイントなどは文中からかなり分かりにくいこともあるのだけど、小説の重心はそこよりはむしろ、「言ってることとやってることが違う」「思っていることと伝えてくることがちぐはぐ」といった表現実験の場のようで、作中で「ゴドーを待ちながら」に言及しているあたりからも作者が作為的にしているとは明かしている。作品がベケット風だという意味ではなく。
その前には『破嵐万丈』シリーズが小説実験をしている様子でもあって、おかしなシリーズではあるけど、4巻ではそれなりの手応えを得ていたんじゃないか。Gのレコンギスタのメイキング等で紹介された会話スタイルはそこにも実験らしいのが読める。
「率直なメッセージを大声で叫べばいいわけではない」とはかなり早くから分かっている、それがこの頃重要問題になっているみたい。文学よりは映画由来なんだろうけど……演劇、から得てるものもあるだろう。それは幻想文学のテーマだとわたしは思っていて、ジャンルをまたぐとまた知らないことがどんどん増えてくる。
第七の物語 完
上で、いつかはやがてもうどうなってもいい王の心にもなるのだろうかとグラン王の心中を思い、リアリズムと脱俗とか、ガールズの今後に思いを馳せまくるじじいの霊魂のことを思ったが、この章の読後になお『ああ、この後どうなるのであろうか』と思えばそれは既に目撃する必要のない歴然としていることのとき、それはもうどうなってもいいくらいだから、完、なのであると言ってみる。
時の観方という流れでは、エイシェトの時点を見ることができた。
「通読上はすごい展開」と上で書いたのは、贖罪問題の提起はされてもそこに新たな物の見方だの言葉の使い方は、オリファーではないが容易に思いつかないと思う。討論では打破できないそこに何十年も停滞することはありうる。これは、ファンタジー小説を書くという機会があったから、ストーリー創作の上でできたことだろう。
さて言うまでもない話をまだ続けると、この七話の仕立て自体は、手塚治虫を挙げなくても、モデルになっていそうな物語の連想はあるだろう。富野小説には、『リーンの翼』中に火山地帯の悪地に住んで孤独に逼塞して年月を暮らした老人が登場したことがある。
カロッダのことを思うだけで精いっぱいで、最も身近な人々を犠牲にしてきたグラン王の悔恨については、『シーマ・シーマ』ではアーデアス王への同じ糾弾でもあった。その怨讐は単に「罰する」という形で答えは出なかったことだ。
また細かいところで、この章のうちグラン王は、血が繋がっているらしき少女エイシェトの心持ちにたびたび感心する、命のありようについてよほど高いところを感得していると思うのだがそれを、さすがわが娘よ、と思うことは自分に戒める。
かつてむごい境遇に追いやってしまった娘に対してその娘を誇ることは、グラン王にできなかったというこれはVガンダムで、ハンゲルグからウッソに対して言った言葉に似ている。あまりに優れた子供の業績をみて「それでこそ息子だ」と言ってしまっては父親が不遜な言い方になってしまうだろう。かといって、そんな育て方をしたことを今更申し訳なかったと謝ってはウッソの立場がないし、ただ、「私の息子はこんなに出来が良い」と素直に言えないハンゲルグにはウッソは寂しさを感じた。
それはそうだろうし、父と子が対等関係で会話するには、ウッソにもまだ幼さはあると訴えたいものはわかる。小説Vではその場面のあとに、ハンゲルグ・ミューラ・ウッソの家族の時間も短いながらあったが、それはもう取り戻せなかったと思う。小説F91でマイッツァーからセシリーに対しても幾らか似たようなことを言った。カロッゾもだと思うが、ロナ家に居てはこうは育たなかったろうとの。
エイシェト・アルクアとの夢の邂逅はグラン王が死後にようやく誰かとまともに話をした機会でもあり、冥界や世界についての悩みに誰かがようやく応答してきた時でもあった。笛吹やフール・ケアの時はそれでも遠く別れていく時で、オノレは心痛む別れをして一人帰ってきたのだろうし……。一時の邂逅のあと、グラン王はもう一度同じ感慨に打たれたときは、
と躊躇いなく言っている。
第八の物語 完。ここは一気だ。面白い。第二巻読了で、三巻へ。
これは先日すでに書いているが、『王の心』はストーリーは大変面白いのだけど、怪事件と趣向満載で進んできた結果が露骨に顕れてしまうのが巻頭の「系図」。ファンタジー小説には巻頭に創作地図や系図が載っていることはよくあるけど、本作は別の意味で通読の折には各巻ごとにちらっと一瞥しておくと面白い。シェラグ王家は系図で忍法帖やってんのか……。
第三巻の序章にあたる「受領の章 クワウンゾゥの撤退」、序章といってもいきなりシーンは前回の続きが始まる。このタイトルの「受領の章」という意味がわからなくて、前回読んだときもどういう意味の受領だ?と呟いていた気がする。これから読んでいこう。
受領の章
受領――やはり、これといって確かに説明できるわけではないのだが。
この序章中で誰かが何かを受け取ったということはないが、もし仮にポテーとメハビアーを、クワウンゾゥが「受領」したとしてもそのことにどれほどの意味もないので、それは置いておこう。
前巻の序章部分にあたる「欠の章 うたた星々」は、この『王の心』シリーズは全巻の各章を通し番号として「第何の物語」とカウントされる、そのカウント外だから「欠」としている。全巻があたかも「物語集」かのように編成されている意味は読後に最終的にある。同じように構成上の意味だと、受領というのは「前巻(前章)の話題を受けて再開する」――承前――という意味か、と解するのがここは良さそうに思う。
うたた星々の「うたた」がどういう意味かは、これは、語義を講釈するほどの何でもなく「うたた寝」というときの雰囲気で、まどろみ夢見る星たち。うたた星々――と本文中でグラン王が口走るところがあるので、無為に夢みるもの、命あるものを無関心にただ眺めている意味だとわかる。星や銀河はそうではない、まどろむうちにも冷酷ではないんだという話だけど。
シェラグ王家
系図のことで先日触れた「シェラグ王家」との用語だが、実はこの王家の名は一巻の系図と、同じく一巻冒頭の序章から十行目ほどのところに「シェラグ王族のグラン王……」とあるだけで、以後に作中で言及されることはない。
後の巻ではグラン王の家系のことはもう大ざっぱに「グラン家」など言われていたりし、シェラグ王家のほうは実際あまり重要な語でない。シェラグという響き自体は、シェラン・ドゥ・グラン王のフルネームをつづめてシェラグって言ったような、ザギニス・ゾアをザギゾアと呼んだのと似たようなフィールだ。
いいな、最高だ。
『現在の速度差は、』とあるのは意味からして「高度差」が正しいように思うが、それは雰囲気でいい。
それより、その直前の文でもそうだが、フローランドしつつある状態だったものが次の展開の中ではすでにフローランド「した」と書かれているほど、この三巻の激動展開の中に駆使されている文章の工夫には舌を巻く。早すぎる……。わたしは初読じゃないのだが、今にして読んでざわっと鳥肌めいたものがあった。いま十二話、大詰め。
速度でも?……と思うけど、追従しているわけではなく対向して互いに迫っているところだから、速度なら問題になるのは、差ではなくて和だ。でもここはもう勢いで飛ばしてる。
『王の心』三巻読了。今読んでも、というか今のタイミングで読み返せてよかった。富野通読の次は『密会』へ行く。
これは今「鳴神」の感想、感慨だったけど、そのあとでまた『王の心』のアカイアーの話をさかのぼって連想していた。話は全然違うけどね。